第一話 魔王の花嫁
異世界に転生して、気がつけばもう何年も経っていた。
最初は戸惑うばかりだったけれど、すぐに慣れた。今世での私の名前はルチア。
この世界には当たり前のように魔法が存在しているし、何より、この世界の名前に、私は聞き覚えがあった。
たしかタイトルは、結ばれざる時空の花へ
魔族と人間の恋愛を描いた、いわゆる乙女ゲームだった気がする。ピンとひらめいた瞬間、私は驚いた。
まぁと言っても私はというと、とてつもないチート能力があるわけでも、生まれついての強大な魔力があるわけでもない。
よくある転生モノの展開なら悪役令嬢にでもなって華やかに立ち回るか、あるいは原作知識チートで無双できそうなものだけど、そのソフトは積みゲーの中に埋まってた気がする。だから、この世界の詳しいシナリオや攻略情報の知識なんて皆無に等しい。
結局のところ、私は特別な存在でもなんでもなく、ただの普通の村人にすぎないのだ。
そんな私の住む村では、今日お祭りの準備のため奔走していた。あちこちに飾り付けが施され、祭りを祝うための食材が調理され良い匂いが風に乗って漂ってくる。
この村には、昔から続く古い風習がある。
百周忌の年、冬月に生まれのちょうど十六の歳を迎える娘は、魔王の花嫁として差し出される。それが、この村を縛る掟だった。
百年に一度の花嫁を選ぶ儀式。村にとっては因習のはずなのに、ある意味で村にとっては百年ぶりの祝いでもある。どこかお祭り騒ぎのような賑やかな空気が漂っていた。
私と親友であるエレーナは、今年でちょうど十六になる。
おまけに二人揃って冬月生まれ。この祭りの主役。つまり、生贄候補というわけだ。
これが原作のスタートなのかは、正直わからない。そもそもまだ完全にシナリオ付きの異世界モノかもまだ断定できてないのだ。
ただ何となくただの村のお祭りと切り捨てるには少しためらわれた。
まあ、一応、当事者であるはずの私は現実味なんてない。広場から聞こえてくる喧騒をまるでどこか他人事のように聞き流していた。
祭りが始まった。
私とエレーナは一応今年の主役ということになっているらしく、広場の一角に特設された雛壇のテントの中に座らされている。といっても、やる事なんて何もない。ただ儀式が始まるまでの間、こうしてじっと座って待っているだけだ。
これがもう、とにかく苦痛だった。お腹は空くし、硬い木の椅子にずっと座っているせいでだんだんお尻が痛くなってくる……。
早く終わらないかな。
私たちがこんな退屈と緊張で縮こまっているというのに、外にいる村人たちはすっかりどんちゃん騒ぎの真っ最中だ。自分たちは何も関係ないから、いい気なものである。
ふと、隣で微動だにせず座っているエレーナをちらりと盗み見た。彼女は背筋をピンと伸ばし、真っ直ぐ前を見据えている。さすが村一番の器量良しの美少女、こういう場での佇まいまで完璧で美しかった。
一方の私はというと、もう途中から色々と諦めて、足を崩すどころか靴の片方すらこっそり脱ぎ捨てている有様だ。
「エレーナ、どうせ誰もまともにこっち見てないし、儀式までまだ時間あるんだからもっと楽にしてもいいと思うよ」
私が小声でそう囁くと、エレーナは「うーん」と少しだけ悩ましげに眉を寄せたのち、「……わかった」と小さく微笑んで、足をほんの少しだけ崩した。
今日も、エレーナは可愛いなぁ。
やがて、儀式の時間が近くなっていくと村中を包んでいた浮かれた祭りの喧騒は嘘のように鎮まっていった。
雛壇の頭上に掛けられていたテントの幕が取り払われた。舞台の上には、私たち冬月生まれの十六の娘たちが横一列に並んで立たされていた。
村の長老がありがたい口上も、神聖な祈りの言葉もない。
ただ、訪れるべき存在を待つだけ。それだけの時間だった。
冬の夜気が、薄手の衣装を貫通して肌を刺す。
横を向くと、エレーナもまた真っ直ぐに前を見据えたまま、ぎゅっと唇を引き結んでいる。
来る。
誰もが息をひそめ、静まり返った広場の空気が、ピリピリと張り詰めていく。
切り裂くように、雛壇の目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
空間が裂け、青白く光の輪が広がる。転移の輪、魔王城へと直結する、窓だった。
そして、その揺らめく闇の向こうから、一人の男が姿を現す。
漆黒の長身に、マントを纏い、顔を上げた男の容貌は、息を呑むほどに整っていた。月光を映したような銀灰色の髪に、切れ長の双眸には、深い赤き光が宿っている。スラっとした鼻筋と、引き結ばれた唇。それは恐怖を覚えるほどに鮮烈な、美貌の男だった。
息ができない。心臓が早鐘を打つ。直感で分かった。この人物がメインキャラの一人なのだと。
村人たちは誰一人として声を上げることもできず、ただ地面にひれ伏すように縮こまり、必死に息を殺している。
私とエレーナが立つ雛壇のすぐ目の前まで、その影が迫った。
魔王が、静かに私たちの列を見据えた。
あたりには、肌を刺すような痛いほどの静けさが広がる。
そんな緊張に満ちた闇の中で、パチパチと遠くの焚き火の炎だけが、音を響かせていた。
すうっ、と。
漆黒の鎧の中から、魔王がゆっくりと腕を伸ばした。
指先が、滑らかに空気をなぞる。
「……村人どもよ。古の約定に従い、私はここにきた」
発せられたその声は、耳で聴くというよりも、頭の底に直接響くような音だった。恐ろしい響きが、静まり返った村にこだまする。
魔王のあまりの威圧感に、村人たちは誰一人として足を一歩も動かせない。
そんな中、脂汗をびっしょりと掻いた村長が、震える足を必死に引きずるようにして、雛壇の前に進み出た。
「村長。……冬月生まれの女は、これで全員か?」
見下ろすように発せられた問いに、村長は膝をガクガクと笑わせながら、ひれ伏すように頭を垂れた。
「は、はぃ……っ。そ、そうでございます……!」
絞り出すような村長の返事は、魔王への恐怖の前にみるみる細くなった。
「そうか……ふむ」
魔王はそれだけ低く一つ返事をすると、ゆっくりと向きを変え、一列に並ぶ花嫁候補の娘たちに向き直った。
綺麗……けど、その美しさが逆に恐ろしい。それが魔王にたいする私が感じた第一印象だった。
底知れぬ闇を湛えた眼光が、じろりと一巡するようにこちらへ向けられた。先ほどまでお喋りをしていた子も、心の中で「私なんか選ばれないだろうな」と高をくくっていた私も、その魔王の威圧感の前に気おされ、一様に顔を青ざめさせて体を震わせるしかなかった。
喉の奥まで出かかった言葉を私はひゅう、と息を飲み込んで必死に押し殺す。
足がすくみそうになったその瞬間、キュッと、誰かが私の右手をつかんだ。
横を見ると、エレーナが私を安心させようと「大丈夫」と呟いていた。
怖いのは、エレーナも同じはずなのに。それなのに、こんな状況になってもなお、私のことを心配して手を握りしめてくれる。そんなエレーナの優しさに、胸の奥から、ふわりとあたたかいものがこみ上げてきた。
そうだ。私が怖がってどうするんだ。
よく見れば、エレーナの細い肩も、わずかに震えている。彼女だって、本当はすごく怖いんだ。
魔王の恐ろしい眼光にさらされながら、私はぐっと歯を食いしばった。
震える足を踏ん張り、エレーナの手をギュッと力強く握り返す。
大丈夫。私がエレーナを守るんだ。
縮こまっていた心の中に、どうしようもないほどの強い意志が灯るのを感じながら、私は正面から魔王を見据えた。
「貴様達、花嫁に問おう。我こそは何か一つでも秀でたものがある、そう自負する者は、前に出ろ」
魔王の響く声が、夜の空気を重く揺らした。
だが、その問いに答えられる者は誰もいなかった。
一歩でも前に出れば、生贄として連れていかれる。そう恐怖した少女たちは顔を見合わせるばかりで、ただ小さく首を横に振るのがやっとだった。誰もが足元に釘付けにされたように、一歩も動くことができない。
ああ、これが恐らく私の知らない原作のメインイベントなんだろう。パターン的に魔王に選ばれた少女が花嫁になって事件を解決していく、そんなところだろう。だからと言って積極的に名乗りでようとは微塵も思わない。勝手にやっててほしい。
静まり返った広場に、冷たい風の音だけが吹き抜ける。
「……そうか」
魔王は乾いた声で呟くと、赤い眼光を細め、失望したようにゆっくりと首を振った。
私はエレーナの手をさらに強く握りしめた。
どうか、私たち以外の誰かが選ばれますように、なんて、そんな無責任な願いが頭をよぎる。でも、ここにいる全員が、ただ怯え震えているだけの同じ被害者なのだ。
誰も動かない。誰も名乗り出ない。
膠着した沈黙の中で、魔王は視線を再び私たちの一人一人へと巡らせ始めた。
「なら、我が選ぶしかないな」
その呟きとともに、魔王は並んだ花嫁たちの前へと歩みを進め、その手を一人一人の頭上にかざし始めた。
その指先からぼんやりとした奇妙な光が放たれ、それぞれを一瞥すると、すぐさま興味を失って次の少女へと移っていく。皆魔王が離れるとホッとして顔を作った。
やがて、その足音が私の前で止まった。
見上げる魔王の体が目の前にそびえ立つ。魔王の存在感に、私は言葉を失っていた。
そして、魔王の手が、スッと私の頭上に伸びてくる。
「っ……!」
魔王の手から、ぼんやりとした光が私を包み込むように広がる。
中で何を探られているのか、何を調べられているのかはまったく分からなかった。ただ、頭の芯がジリジリと焼けるような、決して気持ちのいいものではない感覚が全身を這い回る。
どうか、私なんかをスルーして。何も見つからないで。
心の中で必死に祈ったその直後。
魔王が、ほんの一瞬だけピクリと硬直した。
……え?
心臓が跳ね上がる。次の瞬間、魔王は「ふん」と鼻を鳴らすような気配とともに、まるで見所がないとでも言うようにすっと私から手を離し、興味を失う。
「はぁっ……ふぅ……」
力が抜けたように、私の口から大きな安堵のため息が漏れ出た。どっと押し寄せる安心感に緊張の糸が切れる。背中から冷たい汗が流れ落ちていた。
私を通り過ぎた魔王は、そのまま隣に立つエレーナに向き直った。
すうっと、その手がエレーナの頭上に差し出される。
エレーナは気丈にまっすぐ前を見据え、その恐ろしい魔王をキッと睨みつけた。彼女を包み込んだのは、私とは比べ物にならないほど青白い光だった。
「……ほう」
魔王の低い呟きが、夜の静寂に落ちる。
「ふむ。決まりだ。この者を、我が新しい花嫁とする」
その決定を下す魔王の声が、シーンと静まり返った村の中に響きわたった。
頭の中が、真っ白になる。
エレーナが……エレーナが、魔王の花嫁に選ばれてしまった。
頭の片隅では正直その可能性は考えていた。この村に不釣り合いな美少女と、このご都合主義とも言える村の掟とぴったしの年齢。
恐らくエレーナが原作の主人公で私はモブAか何かだろう。エレーナが魔王の花嫁として選ばれ物語が始まる。頭では理解していた。けど、魔王から告げられた現実を私は中々受け止めきれない。
私が震えるのとは対照的に、エレーナは一度だけ大きく目を見開いた。けれど、ある程度覚悟はしていたのか、彼女は静かに目を伏せると、私が掴んでいる自分の手をもう一度ぎゅっと握り返し、ふっと微かに微笑んでコクリとうなずいた。
その瞬間、私の胸の奥で恐怖がスッと霧散し、代わりに別の感情が激しく逆巻いた。
いやだ。このまま、エレーナが魔王に連れていかれてしまうなんて。そんなの、絶対に嫌だ!
喉の奥から絞り出すような叫びが込み上げる。私は反射的に、エレーナの細い腕を力任せにぎゅっと掴んだ。
「それで、よろしいかな?」
魔王の問いかけに、視界の端がざわめく。
半狂乱になったエレーナの母親が、「エレーナ!」と叫びながら雛壇へ駆け上がろうとしていた。
「お母さん、ダメ!」
エレーナの叫び声と、魔王はそれを一瞥すると、片手をふわりと振るった。
それだけで足が、動きを止めた。私も村人たちの表情が、恐怖に満ちたままピタリと固まる。誰も手も足も動かせない。まるで目に見えない氷の枷にでも繋がれたように、村全体が魔法で動けなくなっていた。
「やめて……! お母さんに、ひどいことしないで!」
エレーナが焦ったように声を張り上げ、魔王を押し留めるように一歩踏み出す。
彼女の必死な訴えに、魔王はわずかに首を傾げた。エレーナは小さく息を吸い込むと、震える唇を震わせながらも、はっきりとした声で続けた。
「わ、わかりました……行きます。ただ、私には大事な家族がいます。私がいなくなったら、働き手が一人いなくなってしまう。だから」
身勝手な要求かもしれない。それでも家族の暮らしを守るための条件を出したエレーナに、魔王は意外なほど静かに頷いた。
「ふむ……わかった。貴様の家族には、この先飢えることのないよう、それ相応の富を与えておこう」
魔王の言葉は、その恐ろしさとは想像もつかないほど、どこか落ち着いた響きを帯びていた。
それを聞いたエレーナは、小さくうなずいた。
「花嫁は決まった。古の約定に従い、我は今日よりこの村を百年の間、あらゆる厄災から守る事を誓おう」
魔王がもう片方の手を横に大きく薙ぐと、村全体をふわりと温かな何かが包み込み、見えない結界のように定着した。
「では、行くとするか」
魔王は来た時と同じように、空間を引き裂く窓を開け放つ。
そして、拒絶を許さない力で、エレーナの手をしっかりと掴んだ。
その瞬間、エレーナを掴んでいた私の指が、ぽろりとほどけた。
嫌だ。行かないで。
繋ぎ止めていた手が離れていく。エレーナが、魔王のいるあの暗闇の向こうへ引っ張られていく。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
「エレーナっ!」
凍りついた世界の中で、私だけが声にならない絶叫をあげる。
あぁ、エレーナが魔王に連れていかれてしまう。
動かないはずの腕に、体に全身の血を沸騰させるような力がこもる。
原作なんて知るか!絶対に、絶対にエレーナを連れて行かせるもんか!
爆発的な衝動は、魔王が村中を縛りつけていた魔法の枷を、内側から引き裂くようにバツンと弾き飛ばした。
何が起きたのか分からない。ただ、動くはずのない手足の自由を取り戻した私は、必死さだけで叫びながら、転移の窓へと引きずり込まれかけていたエレーナの手に向かって思い切り手を伸ばした。
掴む。
掴んだ!
予期せぬ反撃に、完全に油断していた、魔王の手から、エレーナの手がふわりと離れた。
「っ!」
私はもう二度と離さないとばかりに、よろめくエレーナの体を力いっぱい引き寄せ、その細い体を自分の腕の中に強く抱き締めた。
「ルチア……っ!」
私の胸に飛び込んできたエレーナの顔は、驚きに目を見開いていた。
魔王に連れていかれる恐怖。二度と帰れないかもしれない絶望。そのすべてに耐えながら、一人で全部を受け入れようとしていた。そんないい子が今、私の腕の中で震えている。
「はなさな……い、絶対に、絶対に離さないから……!」
私はエレーナの背中に回した腕にさらに力を込め、エレーナの体をしっかりと守るように抱きしめた。
「お前、どうやって?」
驚愕に染まったような、あるいは困惑の色を帯びたような声が、漏れる。
魔王は信じられないものを見るように、ぽかんとこちらを見つめていた。
「拘束の魔法をレジストしたのか……いや、あのときの魔力測定では、お前からはそこまで強大な魔力は感じられなかったはずだ……なら、一体何故……?」
ぶつぶつと独り言のように呟きながら、魔王は信じられないとばかりに頭をブンブンと振った。
そして、ふっと視線を戻すと、エレーナを指し示した。
「まぁいい。古の約定がある。その者を貰い受ける」
「断る!!!」
魔王の言葉を遮るように、私はエレーナを自分の背中に隠し大声で言い放った。
もう恐怖なんてどこかへ吹き飛んでいた。ある意味ですっかり開き直った私の心にあったのは、理不尽なルールに対する怒りだけだった。
「そんなの知らない! 約定だか何だか知らないけど、勝手に決まったルールなんて私たちに関係ないでしょ!」
「なっ……」
「私たちが生まれる何十年も、何百年も前のことなんて知らないわ! 何で見ず知らずのあんた達の都合で人生を差し出さなきゃいけないわけ? ふざけないでよ!」
私の啖呵に、魔王は言葉を失ったように絶句した。
村長や村人たちが恐怖でひれ伏すこの場所で、魔王に向かって面と向かって怒鳴りつける人間なんて、歴史上どこを探してもルチアくらいのものだろう。
けれど、背中ではエレーナが「ルチア、まっ、待って……!」私を引っ張って止めようとしているのが分かる。でも、もう止まれない。ここで引いたら、エレーナが連れていかれてしまうのだから。
魔王はしばし呆然としたあと、警告するように言った。
「……愚か者め。約定を破るというのか? それがどう言うことか分かっていて言っているのか?」
「上等じゃない!」
私は一歩も引かず、睨み返すように叫んだ。
「何が花嫁よ!ただの生贄じゃない。これ以上エレーナに指一本触らせないわ!」
その瞬間、周囲の空気がピタリと凍りついた。
エレーナが「っ、ルチア!?」と息を呑み、私を見上げる。
魔王はゆっくりと、その赤い眼光をこちらへと向けた。
底知れぬ赤い光が、じっと私の全身を射貫くように見据える。先ほどまで「見所がない」と興味を失っていたはずの魔王の眼差しが、今度は値踏みするような、奇妙な興味の色を宿した。
「では、お前が、その花嫁の代わりになるというのか?」
「へ?」
魔王の予想していない言葉にルチアは言葉がつまる。後ろからも困惑の声が聞こえたきがした。
魔王は私の腕を掴むと、私とエレーナを容赦なく引き剥がした。
すっと伸ばされた魔王の腕は、こちらの反論や戸惑いを一切容赦なく無視するように、私の体と手首をガシリと力強く掴み上げ有無を言わせず抱き寄せる。
「なっ……! 何すっ」
「お前が我が花嫁の代わりになるか?その言葉の責任を最後までとってもらおうか」
耳元で直接響くようなゾッとするほど色気のある声。
拒絶を許さない強引さで、魔王はそのまま私の体をたやすく引き寄せると、逃げる隙すら与えない。
「きゃっ……!」
逃れようと暴れる私の上から、魔王は覆いかぶさるようにして、押さえつける。もう片方の手が私の顎を強引に捕らえ、上を向かせる。
肌に密着する体は筋肉質で、至近距離で見上げるその顔は、息が詰まるほどに整った、美貌の男だった。
心臓が激しく鳴り響く。
「……っ、ふざけないで!」
私は負けじと潤んだ瞳で、その赤い瞳をまっすぐ睨みつけた。
どんなに顔が良かろうが、こんな強引なやり方が許されてたまるか。
私のその反骨心に満ちた眼差しを受けた魔王は、ふっとかすかに唇の端を持ち上げる。
どこか面白がるような、意地の悪い笑みだった。
「ほう……この状況で、まだ我を睨みつけるか。なかなかいい目をしている」
耳元で囁く声が、私の肌を震わせる。
逃れられない至近距離の密着感と、初めて味わう男からの熱に、私の胸のうちは恐怖と別の何かでぐちゃぐちゃにかき乱された。
「ふざけないでっ……! 誰があなたの花嫁になんか……っ!」
「口が減らない女だ」
私の反抗を鼻で笑うかのように、魔王は両手で私の顔を包み込む。
見上げる端正な顔立ちは、美しすぎるがゆえにかえって残酷だ。拒絶する暇すら与えられず、私の唇がその魔王の唇で容赦なく塞がれた。
「んんっ……!?」
頭が真っ白になる。
力で一方的に奪い取るような、荒々しい口づけだった。触れ合った瞬間、魔王の唇が、私の唇を力任せにこじ開け、ねじ伏せるように重なり合う。
逃れようとわずかに頭を振ろうものなら、首裏に回された大きな手が許さない。逃げ場を完全に塞がれ、荒々しく吸い上げられ、唇と唇が擦れ合うたびに、熱い吐息が嫌でも混ざり合い、自分の意思とは関係なく魔王の舌と絡み合った。
至近距離で私をまっすぐ見据える赤い瞳と端正な眉。私の掠れた悲鳴や零れ落ちかけた嬌声は、すべて魔王の唇によって強制的に押し潰され、喉の奥へと封じ込められる。
逃げ場を奪われた吐息が重なり合い、舌をねじ込まれるような深い口づけが、私の思考を完全に麻痺させていく。
「はっ……、はぁっ、はぁ……!」
魔王の肉厚で柔らかい唇から伝わってきたのは、身悶えするような甘さと、一切の拒絶を認めない魔力だった。
「いい顔だ。お前を娶ってやる」
魔王は艶めく美しい唇の端を不適に持ち上げた。
魂の契約。血の誓約。
拒絶を許さない魔王の魔力が、私という存在を強引に彼の花嫁としてこの世界に縛り付けていく。
ようやくその唇が離れたとき、私はすっかり潤んだ瞳で魔王を見上げながら、震える息を必死に吐き出すことしかできなかった。
彼の魔力をたっぷりと移されヒリヒリと赤く疼く自分の唇を、私は震える指先で思わずそっと押さえる。
そんな私を片腕で軽々と抱き寄せたまま、村人たちを一瞥した。
「契約は成立した。これ以上、この村で無駄な問答をする気はない」
私の抗議など全く聞こえていないかのように、その窓の中へと踏み出していく。
遠ざかっていく光の向こうで、エレーナの泣き叫ぶ声が響いたきがした。
空間が閉ざされる音とともに、私の視界は暗闇へと沈んでいった。




