第2話「極寒の赤字領」
馬車の車輪が軋むたび、凍てついた大地が鈍い音を返した。
国境検問所からさらに半日。 私を乗せた軍用馬車は、荒涼とした岩山を縫うように進んでいた。
車窓から見える風景には、緑が一切存在しない。 露出した黒褐色の岩肌と、やせ細った低木。 地面の土は灰色に濁り、冷気でカチカチに凍りついていた。
前方に見えてきたのは、切り立った断崖にそびえる無骨な山城だ。 ヴァルハイト城。 華美な装飾は一切なく、ただ防衛のためだけに築かれた漆黒の要塞だった。
城門をくぐると、冷え切った中庭に兵士や領民が集まっていた。 だが、そこに出迎えの熱気など微塵もない。 あるのは、肌を刺すような敵意と侮蔑の視線だった。
集まった領民の頬はこけ、着ている外套は継ぎ接ぎだらけだ。 配給を待つ子どもたちの手足は霜焼けで赤黒く腫れ上がっている。
飢えと冷害が、この地を極限まで追い詰めていることは一目瞭然だった。
「……王都の悪役令嬢が来たぞ」 「義妹を毒殺しかけたような贅沢女が、何の用だ」 「俺たちの食い扶持を奪いに来たに決まっている」
ひそひそとした囁きが、冷風に乗って耳に届く。 誰もが私を、中央から送られてきた疫病神として見ていた。 だが、その程度の悪意で揺らぐほど私の心は柔ではない。
馬車が止まり、扉が開かれた。 馬を下りたアレクシスが、大股でこちらへ歩み寄ってくる。 冷気にさらされたその顔は、氷のように厳格だった。
「移動の疲労を考慮し、歓迎の儀を執り行う。本日は城の奥で暖を取り、休息せよ」
低く硬質な声でアレクシスが命じた。 だが私は、泥で汚れたドレスの裾を整え、静かに首を横に振った。
「閣下、歓迎の儀は辞退いたします」
アレクシスの灰青色の眉がわずかに跳ね上がった。
「何だと」
「城内を見渡す限り、この領地の食糧事情は逼迫しております。儀式に割く余剰物資など存在しないはずです。それよりも私に、領内の土壌サンプルの採取と地質調査を許可してください」
中庭の空気が凍りついた。 控えていた副官や兵士たちが、信じられないものを見る目で私を凝視する。 王都の令嬢が初日に口にする言葉とは、およそ思えなかったのだろう。
「……貴様は、長旅で疲弊しているはずだ」
アレクシスが威圧感を込めた声で告げた。 だが、その瞳の奥には微かな動揺が走っていた。
「私の肉体疲労よりも、領民の栄養状態の改善が先決です。契約に基づき、半年間この地で生存するための基盤を整えたいと考えます。動きやすい衣服と、スコップを数本手配していただけますか」
感情を交えず、淡々と要求の根拠を提示する。 アレクシスは数秒間、私を無言で見据えた。 やがて、短く息を吐き出す。
「直ちに手配を命ずる」
◇
着替えた粗布の作業着は、機能的で申し分なかった。
私は護衛の兵士を引き連れ、城の裏手に広がる耕作地へと向かった。 案内役の古参兵たちは、私から数歩の距離を取り、露骨に舌打ちを漏らす。
王都の令嬢が泥遊びを始めたとしか思っていないのだ。
私は気にせず、硬く凍りついた土壌にスコップを突き立てた。 前世の研究所で何千回と繰り返した作業だ。
表土を削り、深さ三十センチほどの土を掘り起こして手のひらに載せる。
指先で土をすり潰し、鼻を近づけて臭いを嗅いだ。 さらに、持参した水袋の水を少量垂らし、土の粘りと色の変化を観察する。
「典型的な強酸性土壌ね……」
冷害だけが不作の原因ではない。 この土は、植物の根を焼き、養分の吸収を阻害するほどの酸性を帯びている。
どんな作物の種を蒔こうと、発芽すらままならないのは当然だった。
だが、私の視線は耕作地を囲む背後の山脈へと向いていた。
白く露出した石肌。 切り立った断崖の断面に走る、特有の層状構造。 足元に転がる石を拾い上げ、爪で引っ掻く。柔らかく、白い粉が指についた。
「石灰石……それも、ほぼ純度の高い方解石の鉱脈」
さらに川辺の堆積物をすくい上げると、光を反射してきらめく石英の砂――珪砂が大量に含まれていた。
私の胸の奥で、冷徹な計算が急速に組み上がっていく。 強酸性の土壌を中和するための、無尽蔵の石灰石。 そして、ガラスの主原料となる高純度の珪砂。
ここにあるのは、死んだ土地ではない。 適切な化学反応さえ与えれば、あらゆる資材と作物を生み出せる巨大な化学プラントだ。
絶望の赤字領地などと誰が決めたのか。 前世の化学研究員としての血が、歓喜で沸き立つ感覚があった。
◇
その頃、王都のエルンスト伯爵邸の応接室には、怒声が響き渡っていた。
「どういうことだ、エレナ! なぜ買い物の支払いが滞っている!」
実父ゲルハルトが、執務机に叩きつけられた請求書の束を指差して激昂していた。 その額面は、伯爵家の半年分の運営費に匹敵する。
「そ、そんなこと言われましても……私、いつも通りお買い物をしただけで……」
エレナは高級な絹のドレスを揺らし、涙目で震えていた。 だが、部屋の隅に控える王都屈指の豪商の顔は冷酷そのものだった。
「エレナ様。これまで当商会は、クロエ様の直筆署名と調達局の承認印を信用してツケ払いを認めておりました。しかし今回の注文書には、そのどちらもございません」
豪商は冷たく言い放ち、差し出された手形を机の上へ押し戻した。
「クロエ様が不在である以上、現金での即時決済以外は一切お受けできません。本日中に金貨三百枚をお支払いいただけない場合、貴族院へ正式に債務不履行の申し立てを行います」
「金貨三百枚だと……!? いま手元にそんな金があるわけがないだろう!」
ゲルハルトが青ざめて叫んだ。 調達資金の穴埋めは、クロエが精緻に管理していた帳簿を改ざんすることで隠蔽していたのだ。
だが、そのクロエを追放した瞬間、実務の決済ラインが完全に崩壊していた。
「ユリウス様! ユリウス様にお願いすれば、防衛軍から融通していただけますわよね……!?」
エレナがすがりつくように叫んだが、豪商は嘲笑を浮かべて首を振るだけだった。
◇
ヴァルハイト城の鍛冶場には、猛烈な熱気が渦巻いていた。
私は城内の職人たちに指示を出し、使われていなかった大型の焼成炉を整備させていた。 山から切り出させた大量の石灰石が、炉の脇に山積みにされている。
「おい、本当にこんな石ころを焼いてどうするんだ」 「火を無駄遣いするだけじゃねえのか……」
職人たちが不満げに薪をくべる。 私は自ら長柄の鉄杓を持ち、炉の温度管理を指示した。
石灰石――炭酸カルシウムを千度近くの高温で熱分解する。 二酸化炭素を追い出せば、生石灰が生成される。
それを水と反応させれば、土壌の酸度を一気に中和する消石灰が完成するのだ。
パチパチと火の粉が爆ぜ、炉の中から猛烈な熱風が吹き抜けた。 灰が舞い上がり、私の作業着や額に降りかかる。
「全員、送風を緩めるな。炉内温度を均一に保ちます!」
私が声を張り上げたその時、鍛冶場の入口の分厚い扉が押し開かれた。
冷気とともに現れたのは、アレクシスだった。 軍務の合間を縫って現れたのだろう、マントを翻して炉の前まで歩み寄ってくる。
「……何をしている」
アレクシスの硬質な声が響いた。 職人たちが慌てて直立不動の敬礼を取る。 私は鉄杓を握ったまま、アレクシスに向き直って一礼した。
「酸性土壌を中和するための資材を精製しております。この石を焼成し、白煙を上げる粉末へと転換する作業です」
合理的かつ簡潔に答えた。 だが、アレクシスは私の言葉を聞いていなかった。
彼の灰青色の瞳は、煤で汚れ、汗に濡れた私の顔に釘付けになっていた。 眉根を寄せ、何か耐え難い苦痛を耐えるかのように呼吸を乱している。
次の瞬間、アレクシスが一歩踏み込んできた。 分厚い手袋を脱ぎ捨てた素手が、私の頭上へと伸びる。
反射的に身を硬くした私の頭髪に、彼の硬く熱い指先がそっと触れた。 炉から舞い散った白い灰を、アレクシスは信じられないほど繊細な手つきで払い落としたのだ。
「……閣下?」
触れられた頭皮から、じわりと体温が染み込んでくる。 アレクシスは無言のまま、私の髪から指を離した。
そして、その触れたばかりの自らの右手を、痛烈な力で固く握りしめた。
耳根が、まるで炉の火に炙られたかのように赤く染まっている。 だが、口から出た言葉は鋼のように硬い号令だった。
「……作業着の規律が乱れている。直ちに煤を払え」
「は、はい」
私が目を瞬かせて返事をすると、アレクシスは踵を返し、背を向けた。 直後、炉の底から白い煙が勢いよく噴き上がった。
石灰石が熱分解を起こし、最初の消石灰が姿を現し始めていた。




