第1話「泥水と軍令」
頭上から浴びせられた泥水は、信じられないほど冷たかった。
粘土質の赤泥が、額から頬を伝って床へしたたり落ちる。 視界が茶褐色に染まった。 鼻腔を突くのは、雨水と腐葉土の生臭い臭気だ。
「これでお前の罪が洗い流されるわけではないぞ、クロエ!」
壇上から響いたのは、実父ゲルハルトの怒声だった。 伯爵であり、王宮物資調達局次長を務める男だ。 その手には、泥水を汲み上げた銅製の桶が握られていた。
「姉様……なぜあのような恐ろしい真似をされたのですか。私、本当に怖くて……」
父の傍らで、義妹のエレナがハンカチを目元に当てて震えていた。 後妻の連れ子である彼女は、完璧な被害者の顔を作っている。 計算され尽くした涙だった。
だが、その指の隙間から向けられた瞳の底には、冷酷な嘲笑が浮かんでいた。
「エレナを毒殺しようとしたのみならず、調達局の公金を着服するとはな。伯爵家の恥晒しめ」
冷たい声で言い放ったのは、婚約者だったユリウス・フォン・クラウゼヴィッツだ。 侯爵家の次男であり、王立防衛軍の副隊長でもある。
金色の飾緒を揺らしながら、ユリウスは汚物を見る目で私を見下ろしていた。
「僕の婚約者として恥じない淑女だと思っていたが、買いかぶりだったようだ。本日をもって、君との婚約を破棄する」
喉元まで出かかった言葉を、私は奥歯で噛み殺した。
毒殺未遂など身に覚えがない。 公金の着服に至っては完全な濡れ衣だ。 贅沢三昧を重ねたエレナの浪費と、それを穴埋めするためにゲルハルトが手をつけた調達資金。
二人が作った莫大な使途不明金を、すべて私に押しつけたのだ。
弁明は無意味だった。 この場にいる全員が、私を身代わりとして処分することで合意している。 反論すれば、その場で偽証の罪まで重ねられるだけだ。
「王宮貴族院より王命が下った。先の講和条約に基づき、我が国はヴァルハイト辺境伯領へ人質を差し出さねばならん。お前をエルンスト伯爵家から除籍し、その人質婚姻の枠へ充当する」
ゲルハルトが羊皮紙の書状を冷淡に掲げた。
「国王直属の一代限り準貴族身分を形式上付与し、名目上の辺境伯正妃として登録する。北の果てで、生涯自らの罪を悔い改めるがいい」
ヴァルハイト辺境伯領。 王国北端に位置する、極寒の旧敵国編入地だ。 不毛の荒野が広がり、飢えと寒さで人が死ぬ死地だと聞いている。
「連れて行け!」
ゲルハルトの手振り一つで、背後に控えていた監視兵が私の両腕を乱暴に掴んだ。 引き立てられる最中、私は胸元へ密かに意識を集中させた。
肌着の内側、コルセットの隙間にしっかりと押し込んだ革袋。 そこには、私が調達局の書庫から持ち出した一冊の帳簿がある。
改ざんされる前の、本物の数字が並ぶ原本帳簿だ。
二人が私を罪人に仕立て上げるため、必死に探していた決定的な証拠。 それを、私は肌身離さず抱え込んでいた。
これさえあれば、いつか必ず彼らを法の下で引きずり落とせる。 濡れた前髪の奥で、私は冷徹に意識を研ぎ澄ませた。
◇
広間を追い出された先、王宮の裏門には粗末な幌馬車が止められていた。
護送役の監視兵二人は、寒風の中で吐く息を白く染めながら苛立たしげに舌打ちした。 北の国境へ向かう任務など、彼らにとっても厄介払いに他ならなかった。
「おい、さっさと乗れ。悪役令嬢のお守りなんざごめんだ」
兵士の手が私の背を突き飛ばそうとした。 だが、その指先が触れるより早く、私は自ら泥塗れのスカートの裾を掴み上げた。
兵士の虚を突く速度で、馬車のステップへと足をかける。
「なっ……」
あっけにとられる兵士たちを背に、私は迷うことなく暗い荷台の中へ身を滑り込ませた。 厄介払いを急ぐ彼らの隙を突き、迅速に馬車の中へ退避したのだ。
硬い木製の座席に腰を下ろし、深く息を吐き出す。 車輪がきしみ、馬車が鈍い音を立てて動き始めた。
その頃、断罪の広間では祝杯が挙げられているはずだ。
すべての罪を私に着せ、厄介な人質婚姻の義務をも押し付けたのだ。
エレナはユリウスの腕にすがりつき、父ゲルハルトは安堵の笑みを浮かべて高級酒を煽っているに違いない。
彼らは気づいていない。 自分たちの破滅の引き金となる調達帳簿の原本が、私の胸元にあることを。
私が持参した私物の中に紛れ込んでいる事実を、確認することすら怠ったのだから。
馬車の小さな窓から、遠ざかる王都の尖塔を見つめる。 泥水で冷え切った身体の奥底から、信じられないほど静かな感情が湧き上がってきた。
それは、あの腐敗した家と嘘に塗れた人間関係から、完全に脱出できたことへの冷徹な安堵だった。
◇
王都を出てから、丸五日が経過した。
馬車が北へ進むにつれ、車窓の景色は劇的に色を失っていった。 青々としていた木々は枯れ果て、黒ずんだ岩肌と凍てついた泥の轍が延々と続く。
荷台の隙間から吹き込む風は、日を追うごとに皮膚を切り裂く刃のような冷たさを帯びていた。
泥水で汚れたドレスはすっかり乾き、赤茶色の粉を吹いている。 肌に張り付く不快感と寒気の中で、私はひたすら耐え続けた。
前世の研究室で培った忍耐力と、事態を客観的に観察する思考だけが私の武器だった。
五日目の夕刻。 馬車が激しい軋み声を上げて急停止した。
「検閲所だ。降りろ」
御者台の兵士が乱暴に扉を開けた。
外へ踏み出すと、強烈な冷気が肺を刺した。 そこは、石造りの頑強な砦がそびえ立つ国境検問所だった。 雪混じりの風が吹き荒れ、見張り台の篝火が激しく揺れている。
砦の門前には、整然と並ぶ屈強な兵士たちの一隊があった。 その中央に、周囲の空気ごと凍りつかせるような異様な威圧感を放つ男が立っていた。
黒鉄の甲冑に、深い夜色の軍用外套。 背丈は優に六尺を超え、腰には大振りの軍刀を帯びている。 彫りの深い厳格な顔立ちに、氷河の底のように冷徹な灰青色の瞳。
ヴァルハイト辺境伯、アレクシス・フォン・ヴァルハイト。 旧敵国の軍総司令官であり、王国内第三位の武官だ。
護送兵たちはその威容に完全に気圧され、青ざめて直立不動の姿勢を取っていた。 アレクシスは護送兵たちを一瞥もせず、軍靴の音を響かせて私へと歩み寄ってきた。
距離は三歩。 張り詰めた沈黙の中、私は泥塗れのドレスのまま、礼節を保って頭を垂れた。
「エルンスト伯爵家より参りました、クロエと申します。ヴァルハイト辺境伯閣下」
感情を排し、理知的かつ簡潔に名乗る。 王命婚姻令による人質であり、一代限りの準貴族身分として登録された身だ。
へりくだりすぎず、かつ上位の武官に対する敬意を欠かない所作を意識した。
アレクシスは無言のまま、冷ややかな視線で私を上から下まで観察した。 泥で固まった髪、薄汚れたドレス、寒さで白くなった唇。 その灰青色の瞳がわずかに細められる。
「王命の条約文は確認した」
低く硬質な声が響いた。 金属を打ち合わせたような、威厳に満ちた低音だ。
「貴様との婚姻は、形式上のものに過ぎん。期間は春の雪解けまで――冬を越すまでの半年間だ。期限が満了した暁には、自由移住の権利と終身年金による生活基盤の保障を約束する」
「承知いたしました、閣下。契約の条件に異存はございません」
私は即座に頷いた。 半年間の形式的な婚姻。 極寒の冬を耐え凌げば、自由と生活費が手に入る。 私にとっては願ってもない合理的な提案だった。
「私の役割は、名目上の妻としての義務を果たすことのみと理解しております。領内の規律に従い、合理的に行動いたします」
淡々と答えた私の言葉に、アレクシスはわずかに眉を寄せた。
王都から送られてきた令嬢が、取り乱しもせず、命乞いもせず、淡々と契約内容を受け入れたことが意外だったのだろう。
不意に、アレクシスが分厚い革手袋に包まれた右手を伸ばしてきた。 乱暴に扱われることを覚悟し、私は身構えた。
だが、伸びてきた大きな手は、私の泥にまみれた右手を下からそっとすくい上げた。
「……っ」
躊躇のないその動作に、私の息が止まった。 乾いた赤泥が粉となって落ち、彼の手袋を汚していく。
だがアレクシスは気にする素振りも見せず、もう片方の手を重ね、私の冷え切った両手を包み込んだ。
手袋越しに、信じられないほどの熱量が伝わってくる。 それと同時に、彼の手指がわずかに震えているのが掌を通じて伝わってきた。
恐怖でも怒りでもない。 何らかの激しい感情を無理やり押し殺しているかのような、微小な硬直と震え。
見上げると、アレクシスの彫像のように整った顔は氷のように無表情だった。
だが、その灰青色の瞳は射抜くように私を凝視しており、引き結ばれた薄い唇がわずかに戦慄していた。
「閣下……?」
私が問いかけると、アレクシスは包み込んでいた私の手を名残惜しげに離した。 そして一歩後退すると、見事な動作で直立不動の姿勢を取った。
鋭い視線が私の眉間を捉える。 国境警備軍の全軍に響き渡るような、容赦のない低音の号令が夜の荒野に轟いた。
「これより貴様を、我が妻に任命する!」
軍令だった。 どう聞いても、戦場で部下に下す動員令そのものの響きだった。
吹き付ける吹雪の中、私は目を瞬かせた。 求婚というよりは、最前線への配置転換を言い渡されたような錯覚を覚えた。




