第3話「白煙の土壌」
麻袋を裂くと、純白の粉末が風に舞った。
乾いた石灰の粉が、凍てついた灰色の大地へと降り注ぐ。 だが次の瞬間、鍬を握りしめた古参の農夫たちが血相を変えて割って入ってきた。
「やめてくれ! これ以上、俺たちの畑を荒らさないでくれ!」 「王都の贅沢女が、土地を枯らす呪いの粉を撒いているぞ!」
怒声が冷気をつんざく。 十数人の農夫や兵士たちが、鍬や棍棒を構えて私を取り囲んだ。 その目には、飢餓への恐怖と中央貴族に対する根深い憎悪が燃え盛っている。
「閣下に直訴だ! こんな出鱈目を許していたら、春を迎える前に全員餓死しちまう!」
先頭に立つ老農夫が、唾を飛ばして叫んだ。 騒ぎを聞きつけ、周囲の兵士たちまでもが不穏なざわめきを広げていく。
だが、私は一歩も退かなかった。 麻袋から白い粉――消石灰を素手ですくい上げる。
「これは呪いの粉ではありません。土を蘇らせる中和剤です」
理知的かつ簡潔に告げ、私は作業着の長靴でそのまま泥濘の中へと踏み込んだ。 冷たい泥が足首を包む。 令嬢らしからぬ行動に、農夫たちが息を呑んでたじろいだ。
「この土地の土は酸が強すぎるのです。酸性の環境では、植物は根から養分を吸収できません。この粉――水酸化カルシウムを散布して耕起すれば、土中の酸が中和され、保肥力が劇的に向上します」
私は手にした粉を、泥の上に均等に撒いてみせた。 さらに懐から、自ら書き起こした羊皮紙の束を取り出し、警戒する兵士たちへと手渡す。
「ここに、土壌の酸度測定手順と、面積あたりの消石灰の散布比率、そして中和期間をすべて数値で明記しました。赤紫色のキャベツの煮汁を土に垂らせば、色の変化で中和の進行が誰の目にも確認できます」
「す、数値だと……? そんな紙切れで飯が食えるか!」
老農夫がなおも頑迷に拒絶の声を上げた。 長年の経験と勘だけを頼りにしてきた彼らにとって、未知の理論を受け入れるのは容易ではない。
私がさらに歩み寄り、実演を続けようとしたその時だった。
前日の霜が解け、ぬかるんでいた深みに右足を取られた。 ぐらりと視界が傾ぐ。
「しまっ――」
受け身を取ろうと身を硬くした瞬間、横合いから突風のような勢いで黒い影が割り込んできた。
鉄の手甲が、私の腰を容赦のない力で引き寄せる。 硬い胸当てに顔から衝突し、鈍い金属音が響いた。
「……っ」
アレクシスだった。 軍馬を乗り捨てて駆けつけたのだろう、その息はわずかに乱れていた。
アレクシスは私の腰を抱き寄せたまま、完全に動きを止めた。 数秒間、周囲の怒号も風の音も消え去ったかのような静寂が落ちる。
彼の胸郭が大きく上下し、肺の中で息を固く止めているのが、触れ合う身体越しにありありと伝わってきた。
手甲が私の腰を締め付ける力が、無意識のうちに強まる。 灰青色の瞳が、驚愕と焦燥の色を帯びて私の全身をくまなく検分していた。
「……閣下?」
私が掠れた声で呼ぶと、アレクシスは弾かれたように我に返った。 素早く私の身体を垂直に立たせ、乱暴に手を離す。
その頬が、寒風のせいだけとは思えない熱を帯びて赤く染まっていた。
「……軽率な行動は慎め。負傷は戦力の損失と判断する」
アレクシスは直立不動のまま、硬質な声で言い放った。 そして腰の軍刀の鞘を鳴らし、取り囲んでいた農夫と兵士たちを一喝した。
「直訴は却下する! この者の作業を阻害する行為は、国境警備軍の規律違反とみなす!」
辺境伯の圧倒的な威圧感に、農夫たちは青ざめてその場に平伏した。
◇
その頃、王都にある王立防衛軍の兵站執務室では、書類の破れる音が響いていた。
「どういうことだ! なぜ配給用の乾パンと塩蔵肉の数が合わない!」
ユリウスが机を拳で叩きつけ、部下の補給将校たちを怒鳴りつけていた。 制服の金糸はきらびやかだが、その顔は苛立ちで引きつっている。
「も、申し訳ありません、ユリウス卿! 前副隊長であったクロエ様が作成されていた補助簿がなければ、倉庫の実在庫と本部の帳簿を照合することが不可能なのです……!」
「僕にあの女の名前を出すな! 帳簿の突合作業など、誰がやっても同じだろうが!」
ユリウスは怒りに任せて書類を床へぶちまけた。 だが、山積みにされた台帳の数字は、どれだけ睨みつけても辻褄が合わない。
クロエが在籍していた頃は、複雑な補給線の資材移動が完璧な精度で管理されていた。
ユリウスは彼女の実務を「誰にでもできる雑務」と見下し、手柄だけを横取りしていたのだ。
実務を支えていた人間を追放した結果、防衛軍の補給体制はわずか数日で麻痺し始めていた。
「ええい、無能どもが! 使えない部下ばかりだ!」
部下たちの冷ややかな視線に気づくこともなく、ユリウスは荒い呼吸で額の汗を拭った。
◇
消石灰を散布し、土を漉き込んでから五日後の朝。
耕作地には、早朝から領民たちが恐る恐る集まっていた。 誰もが、土が枯れ果てて黒ずんでいる光景を予想していた。
だが、彼らの目の前に広がっていたのは、信じがたい光景だった。
灰色に濁っていた大地は、水分を均一に含んだ深い黒褐色へと変貌していた。 そして、等間隔に耕された畝の表面から――。
無数の鮮やかな緑色の芽が、力強く顔を出していた。
耐寒性のカブと、冬小麦の若芽。 例年であれば冷気と強酸に焼かれ、土の中で腐り果てていたはずの種子たちが、驚異的な生命力で霜を押し退けて発芽していたのだ。
「め、芽が出てる……!」 「嘘だろ……こんな時期に、種が育つなんて……」
頑迷に反発していた老農夫が、泥の上に膝をついた。 震える手で緑の若芽に触れ、やがてその目から大粒の涙をこぼした。
「呪いなんかじゃねえ……本物だ。この土地で、本当に作物が息を吹き返したんだ……!」
歓声が畑のあちこちから湧き上がった。 領民たちの侮蔑と疑念の視線は、一瞬にして畏敬と感謝の眼差しへと塗り替えられていた。
私は畝の脇に立ち、冷たい風の中で若芽を見つめた。 前世で学んだ化学の理論が、この異世界の過酷な現実を確実に書き換えた。
胸の奥に、確かな手応えと静かな高揚感が広がる。
ザッ、ザッ、と整然たる足音が近づいてきた。
アレクシスだった。 漆黒の外套をなびかせ、畑の縁に歩み寄ってくる。 その灰青色の瞳は、大地を染める鮮やかな緑の絨毯を凝視していた。
アレクシスは緑の芽から視線を上げ、作業着のまま立つ私を真正面から見据えた。 その表情は引き締まり、軍司令官としての冷徹な輝きを宿していた。
アレクシスは軍刀の柄に手をかけ、全軍へと響き渡る声で咆哮した。
「全軍に告ぐ! これより我が軍は、奥方の土壌改良を最優先任務と位置づける! 総力を挙げて奥方の指示を全力支援せよ!」
地を揺るがすような軍令が、極寒の空へと轟いた。




