第39話 約束 弐
皇帝が、その名を龍璽剣に誓う。
それは命に代えても守る誓いであるということ。
「どうか、『いいよ』と言ってくれないか」
香凛は瑛然が額に触れさせている剣を見た。
そこには、たった今香凛へ愛を誓った男の名が刻まれている。
(まったく……。ここまで覚悟を見せられたら、あとは私の決断一つじゃない)
ゆっくりと息を吐き出すと、香凛はその剣にそっと触れた。
「私、凌香凛は楚炎瑛とともに、この先を歩むことを誓います」
そう告げると、不思議なことに龍璽剣が一瞬僅かに光った。
「強引に進めてごめん。でも、今ここで誓いが成立した。――ありがとう、香凛」
瑛然の言葉に、香凛は目を丸くする。
「ばかね。皇帝なんだから、もっと偉そうになさいって」
「実は父上も、母上には偉そうにできないんだよね」
二人、笑い合った。
「――香凛が一人で後宮に行ったって分かったとき、心臓が止まるかと思ったんだ」
近くて遠くに見える華都の街の灯りを、空の星の煌めきを、二人で並んで見る。
「きみを失うかもしれない。その恐怖で、やっと覚悟ができた」
「覚悟……」
初めて瑛然のことを好ましく思っていると気付いたのも、この場所だった。
香凛はそう、思い返す。
「そうだ。これ、貴妃の部屋から出てきたことにして」
懐から取り出した花は、宦官の巾着に香凛が忍ばせたものと同じ花。
天都山にいた頃に旅人から買った十束の花のうち、残りの七束だ。
「あの巾着の中身は、すぐに香凛が手を回したってわかったけど、そもそもこの花のことはどうやって」
「皇后殿下の宴のときに、貴妃さまがこの花を模った簪を挿していたの」
「まさかそれだけで?」
「昔手に入れたものと同じ花だから、よく覚えてたの。これがなければ、別の作戦を考えたわ」
肩を小さく上げておどけた表情を浮かべれば、瑛然は片手で頭を抱えた。
「どうしたの? 頭が痛い?」
「もしも殺されたらどうするつもりだったんだ」
「まぁそれをきっかけに、貴妃を追い詰められるじゃない?」
「そんなこと、望んでない!」
「私もよ。殺されるつもりなんて、毛頭なかったから」
事もなげに言う香凛の手を瑛然が取る。
「今回のことは、本当に助かった。でも、もう無茶はしないでくれ」
「できる限りのことは」
「せめて、一言俺に言って」
「でもそしたら、止めるでしょ?」
「それはまぁ……」
瑛然の尻すぼみの言葉に、香凛は笑う。
「私だって命が大事よ。今回は、事前に冷宮のことも貴妃の性格的なところも、いろいろ予測できたからやったの。それに」
「それに?」
香凛の言葉の続きを待つ瑛然の顔に、香凛の顔が近付く。
かぷり。
瑛然の鼻先を軽く囓ると、そのまま額をくっつけて笑った。
「いざとなったらきっと、瑛然が助けに来てくれると思ってたから」
夕方には瑛然が部屋に来ることは決まっていた。
だから、その時間に香凛が部屋にいなければ、瑛然は動く。
まさか後宮に本人が入ってくるとは、思ってもいなかったけれど。
「香凛はずるいな」
「ひゃっ!」
そのまま香凛を引き寄せて、唇を重ねる。
何度も触れ合い、やがてゆっくりと長い間、唇が重なり続けた。
「あんな形で、皇帝であることを知らしめることになって、ごめんなさい」
「俺は香凛を守れたから、満足だけど。それよりさ」
香凛の髪を愛おしげに撫でながら、瑛然が問う。
「いつから、俺が皇帝だって知ってた?」
「えぇと……その、薬草園に行った頃には」
「ということは、祭のときはもう?」
「……もう」
瑛然はそれを聞いて、目を瞑った。
祭の頃を思い出しているのかもしれない。
「そうかぁ」
「でも、おかげでその……毒消しも」
瑛然が毒矢を受けたときに、もしも彼が皇帝であることを知らなかったら。
対処が間に合わずに、命を落とさせていたかもしれない。
「ああ……俺はずっと、香凛に助けられてるな」
再び香凛の唇に触れる。
「あのね……。その、私の唇がふやけちゃうと思うので……今日はもうそろそろ……」
「そんなこと言われて、ハイソウデスネって言う男はいないって、覚えた方がいいぞ。いや、覚えなくていい」
「どっち?!」
「俺以外に、香凛に触れる男はいないから!」
「あ! その……ねぇ」
ぐい、と瑛然を引き剥がすと、香凛は少し言いづらそうに口をもごもごと動かした。
「うん? 何か言いたいことが? なんでも言ってよ」
しばし逡巡すると、香凛は意を決したように瑛然を見る。
何度か瑛然と自分の膝の間に目線を移動したあと、ようやく口を開いた。
「無理なのはわかってるんだけど、あなたを他の誰かと分け合いたく……なくて」
香凛が告げたのは、後宮のことだ。
当然後宮に妃を迎えることを、止める手立てはない。
政治の一環であることなど、香凛にも十二分にわかってはいた。
だから、気持ちを伝える。
それだけのつもりだった。
本当に、それだけの――だが。
「それは問題ない」
「問題ない?」
瑛然は、あっけらかんと笑う。
「ああ。俺は後宮に妃を迎えるつもりはないからな」




