第35話 正体
「綾華国第五代皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
膝をついたまま、貴妃が声をあげる。
その声に続き、全員が拱手のまま深く体を折った。
ここ綾華国に於いて、もっとも正式でもっとも敬意を示す礼だ。
ザッ、と揃った音がする。
衣擦れの音がまとまると、こんな音になるのかなどと、香凛は場違いなことを思った。
「――楽にせよ」
香凛は、拱手をする機会を逃したまま彼の腕の中にいる。
(えぇと……。私はどうしたら。というよりも、瑛然はこの場で皇帝だって告知したの?!)
香凛はすでに、瑛然が皇帝位を継いでいることを星の位置で知っていた。
ただ、知っていることを瑛然には告げていない。
(驚いた顔をした方がいいのかな。いや、それも不誠実な気がするなぁ)
瑛然の言葉に、一同は通常の拱手の状態に戻る。
香凛を抱きしめていた手が緩み、片方の手が腰に回った。
当然のように香凛を横に並ばせると、瑛然は手にしていた抜き身状態の剣を彼の目の前の床に刺す。
真っ直ぐに突き刺されたその剣は、『第五代楚炎瑛帝』と刻まれていた。
「さて。この剣の通り俺は皇帝位を譲られている」
剣はどちらの面にも同様にその文字が彫られている。
つまり瑛然の横に並ぶ香凛の目からも、その文字は確認ができた。
(なるほど。瑛然が抜いたこの剣を見て、皆膝をついたのか)
「つまりは、この後宮は俺のものだ」
息を呑む音がいくつも上がった。
この後宮で勝手をしていた者たちだろう。
「ところで香凛」
「私っ?!」
「きみ以外、他に香凛がいるか?」
「いません……けど」
香凛の腰に回る瑛然の手に少しだけ力が入る。
「何があったんだ」
この場にいるだけでも、何十人もの人間が拱手をしたままだ。
それも、軽く見渡しだだけで貴妃だけではなく、他の妃や九嬪の誰かも混ざっている。
そんな状況で――香凛は口の端を僅かに上げた。
「それなんですが、私貴妃さまに冷宮に閉じ込められてたんですよねぇ」
小首を傾げて言うと、貴妃が香凛を睨みながら口を開く。
「畏れながら陛下! 私はそんなことは」
「誰が話して良いと言った」
瑛然は貴妃の言葉を遮ると、香凛に先を促す。
貴妃はまさか自分の言い分を聞いて貰えないと思っていなかったのだろう。悔しげな表情を隠しもしない。
(うわ。思ったよりもうまくことが運べそうなのでは)
「冷宮の前に、私の見張りをしていた者たちがおります。その者たちをどなたか連れてきてください」
「では私が」
「あ、その人さっき私を追いかけてきた宦官なので、なしで」
「香凛を追いかけて? おい、その宦官も捕えておけ」
(うーん。貴妃や昭儀の手の者かどうか、この場でどうやって見分けよう)
「……陛下、探しましたよ」
「お、ちょうど良いところに」
「ちょうど良いじゃないですよ。啓俊もすぐにこちらにまいります。天空宮殿下の許可もいただいております」
天空宮殿下、とは今この場では瑛然の父、前皇帝を指す。
走ってきたのであろう。風俊は珍しく息があがった様子で瑛然に話しかけていた。
「香凛、風俊に行って貰おう」
「ですね。冷宮の前で、多分まだ倒れていると思うので」
「倒れて?! 凌女史が戦ったのですか?」
「風俊殿。戦いっていうのは、腕っぷし以外にも方法があるんですよ」
にんまりと笑った香凛に、風俊はそれ以上を尋ねるのをやめる。
「男三人ですから、荷車でも持っていってください」
「すぐに戻りますから、こちらでお待ちくださいね! 特に陛下!」
「もちろんだよ」
風俊が冷宮に向かって走るのを見送ると、改めて瑛然が香凛を見た。
「……あのね。先に皆さんの体勢をどうにかしてあげて」
「そうだな。あぁ、むしろ」
瑛然は何かを思いついたかのように笑う。
「四夫人、九嬪、とそれぞれ付の侍女をこの場に集めよ。手の空いている女官と宦官は椅子を並べ、それぞれを席に着かせよ。各人が部屋に残ることは許さぬ」
「それ、ちょっと大変なんじゃ……」
「なぁに。皆で手分けすればすぐだろ」
告げられた女官たちは、すぐに動き出す。
香凛たちがいる通路のすぐ横にある広い庭地に、次々と椅子が並べられていった。
徐々に暗くなってきているため、周囲に灯りも点される。
「陛下。こちらに椅子をご用意致しました」
おそらくは、四夫人の部屋にあった皇帝用の椅子なのだろう。
それと、香凛が座るための椅子が並べられる。
「ありがとう。香凛もこちらに」
「……はい。あの、瑛然……じゃない、陛下」
「香凛。あとできちんと話す」
彼の言葉に、香凛は頷く。
(瑛然が皇帝だって知ってた――というのは、まぁそのときに言えば良いよね)
あっという間に、瑛然たちの前に席が設けられた。
呼び出された四夫人や九嬪、侍女たちは事情がわからぬまま「陛下の呼び出し」とでも言われたのだろう。
上座に座っているのが、自分たちが知っている皇帝ではないことに、皆が不安な表情を浮かべる。
だが、床に突き刺されたままの剣の文字を見ると、即座に瑛然に対して拱手を捧げた。
「皆、まずは座っていてくれ。挨拶はいらない」
瑛然がそう言えば、皆は素直に従う。
それを見ながら、香凛はそわそわと落ち着きがなくなってきていた。
(証拠を見せるためとはいえ、私がここに座ってるのって、場違いじゃない……?)
本来ならば、自分もあちら側。むしろ、その横で拱手して膝をつく立場の筈なのに。
むしろ、今からでもそうしておいて、風俊が戻ったら立ち上がれば良いのでは、と思いつく。
「ねぇ、私」
「戻りました」
だが、あまりにも良いタイミングで風俊が戻ってくる。
それと時を同じくして、もう一人。
「記録係として、私も」
啓俊も到着した。
目の前には、三人の宦官が雑に重ねられたまま、荷車に乗っている。
それを雑に地面に落とした。無論、瑛然の椅子のある廊下ではなく、庭地側に。
どさどさどさと愚鈍な音が重なる。
「間違いなく、この三名が冷宮にいた私を見張っておりました」
「凌女史の言うとおり、冷宮の前でこの三人は倒れていましたよ。それは私、李風俊が証明致します」
そう言うと、瑛然に向かい拱手をした。
「風俊殿。こちらは気付け薬です」
小さな丸薬を手渡し、それを飲み込ませる。
三人の宦官はすぐに意識を取り戻した。
「はっ! ここは」
「なんでこんなところに?!」
「この娘っ子が!」
それぞれがそう口にして立ち上がろうとしたところを、風俊の剣が留める。
「黙れ。御前だ」
彼らの目の端に、やはり瑛然が突き立てた剣が見えた。
すぐに拱手の姿勢に変わる。
「お前たちは誰の命により動いたのか」
宦官たちが妃と通じていたとなれば処罰される。
しかしここで、自分たちの意思でと言ったところで、処罰されるのは同じように目に見えていた。
――どうすれば一番処罰が軽い?
彼らの脳内を巡るのは、そのことだけだ。
「貴妃。発言を許す。先ほど香凛はそなたの手により冷宮に、と言っていたが」
ようやく発言の機会を得た貴妃は、先ほどとは違い、余裕の表情を浮かべた。
「私には何のことだか。そちらの星薬師殿におかれましても、後宮にいらしていただなんて存じませんでしたわ」
「だが、彼女はそなたの指示だと明言した」
「畏れながら陛下。どのような証拠がございましょう。まさか、星薬師殿のお言葉だけを信じられる、とでも」
挑発でもするような貴妃の言葉に、香凛はにっこりと笑って立ち上がった。
「貴妃さまは、私の発言が事実無根とおっしゃる?」
「もちろんですわ。星薬師殿こそ、何の証拠があって」
「では、証拠がありましたら貴妃さまもお認めに?」
「私がやっていないことは、はっきりしていますからね。もしも証拠がでましたら、相応の罰を受けましょう」
貴妃には、自信があった。
宦官たちが何を言ったところで、物的証拠がなければ問題はない。
宰相を務める兄が、体の弱い新皇帝など良い様に言いくるめてくれよう。
名門陸家の姫として育ち、後宮で貴妃の地位を賜った矜持が、そうさせていた。
「風俊殿。彼らの身を検めてください」
だから、香凛がそんなことを言い出したとしても、問題がないと思っていたのだ。




