第34話 逃走
「お前あそこから、逃げてきたのか?!」
宦官の声があたりに響く。その手が触れる直前に、香凛は体を横に動かし逃げる。
周囲の女官は何事かと驚き、足を止めた。
「おい! 待て!」
「待てと言われて待つ人はいないわよっ!」
香凛が走る横で立ち止まっていた女官の手にある布の束に手を伸ばす。
「ごめん! これ借りる! 文句は貴妃さまに言って!」
手にした布を、追いかけてくる宦官の顔に向かって投げつける。
見事に命中して、宦官はバランスを崩し前につんのめった。
「今のうちに」
必死で走る香凛。
それでも宦官はすぐに立ち上がり、その歩幅の違いで追いかけてくる。
今にも追いつきそうな宦官と、それでもギリギリで逃げ切る香凛。
二人の追いかけっこに、何が起きているのかが分からないのか、その場にいる誰も止めることも声をかけることもできない。
「クソ! お前ら! そこの娘を捕えろ!」
宦官の言葉に、近くにいる女官が動き出そうとする。
香凛は走りながら、彼女たちを睨み付け大声で叫んだ。
「冗談じゃないわよっ! 私は凌香凛! 皇后殿下の後ろ盾がある星薬師よっ!」
皇后殿下の後ろ盾。
その言葉の威力の大きさに、女官たちは動けない。
「貴妃さまのところの女官を呼べ! その娘を捕えろ!」
追いかける宦官が大きな声で叫ぶ。
(あーあ。貴妃って言っちゃってるけど、大丈夫?)
必死に走りながらも、香凛はそんなことを思う。
「お前を捕まえればいいのか?」
「えっ! ちょっと! やめてよっ!」
横から出てきた宦官が、香凛を捕まえようと腰に手を巻き付けてきた。
(この……っ!)
香凛は素早く髪を結っている紐を解く。
それを腰にある宦官の手に紐を巻き付け前後にずらした。
***
逃げ出した香凛は、正しく皇后の宮の方向へと走っていた。
それはちょうど、瑛然が後宮で進んでいる廊下と同じ。
つまり、このままいけば二人は行き会うことができるのだろう。
だが。
「皇太子殿下! さすがに無礼ではございませぬか?」
貴妃が叫んだ。
皇后の次に、この後宮での地位が高いのは貴妃。
そうであれば、皇太子を止めるのも彼女の役目なのだ。
――と、一般的には思うだろう。
「この後宮は、皇帝陛下の場でございます。いかに皇太子殿下といえども」
「――そなたは凌香凛をこの後宮で見なかったか?」
瑛然は貴妃の言葉を無視し、問う。
普段己の言葉を無視されることなどない彼女は、唇をわななかせた。
「答えぬか」
「凌香凛? そのような者は存じ上げませぬ」
つんとした顔で返すと、瑛然はうっすらと笑う。
「ほう。皇后殿下の宴で紹介されたと聞くが」
貴妃は失言に気付く。
皇后が紹介した娘のこと自体を知らないと返したも同然だったからだ。
「違います。今この後宮内に於いて、その娘がいるかどうかは知らぬ、と」
「では、そなたが知らないのであれば、俺が探そう」
「ですから殿下! ここは」
そのとき。
「ぐわぁっ!」
通路の先から、宦官の叫び声が響いた。
***
香凛の髪紐に仕込まれている鋼の刃物が、宦官の手に傷を付けた。
その腕からは、かなり大量の血が流れている。
彼は大きな声を立て続けながら、腕を押さえた。
香凛の腰に回っていた腕がほどけた隙に、再び走り出す。
(とにかく皇后殿下の宮まで走り抜けないと)
久しぶりの全速力は、なかなか体に負担がかかる。
息もあがってきた。
それでも、捕まれば今度は危ないかもしれない。
(そこの、角を、曲がって、あと、少し……!)
上がる息に足がだんだんと重くなる。
通路のすぐ横に飾られていた花瓶から花を抜き取った。
バタバタと大きな音を立てて通路の角を曲がると、女官にぶつかりそうになった。
「ごめん! あとそれしばらく拾わないでね!」
曲がってすぐの場所に、香凛は先ほど抜き取った花を放り投げる。
「このっ! 小娘が!」
あとを追ってきた宦官がもう少しで香凛に届きそうなるも、落ちていた切り花に足を取られ転んでしまう。
「もう構わん! これで最後だ!」
前からやってきた宦官が、香凛の体を花瓶で殴りつけようとする。
(これは無理かもっ)
そう思ったその瞬間。
「香凛!」
名を呼ぶ声と、花瓶が二つに割れるのは同時だった。
花瓶は大きな音を立てて地面に落ちる。
粉々に砕けた器の破片を、じゃりと音を立てて踏みつけながら、男は香凛に駆け寄った。
花瓶で殴られそうになったときに硬直した体のまま、香凛の足は止まっている。
「香凛、無事だったか!」
そんな香凛を、勢いよく抱きしめ名を呼ぶ。
そこで香凛はようやく、その男が瑛然だと気付いた。
「瑛然……?!」
「殿下! 後宮での剣の使用は御法度です……わ……」
瑛然の後ろから、貴妃の声が響く。
だが、その言葉尻がだんだんと弱くなっていった。
(剣?)
体を離して彼を見れば、手元には抜き身の剣が。
おそらくその剣で、花瓶を斬りつけたのだろう。
瑛然は再び、香凛を自身に引き寄せ抱きしめる。
「あの、えい……」
香凛がそこまで口にしたところで、周囲の者が全員膝をつき拱手をした。




