第33話 瑛然の決意
「香凛、いるか」
夕刻。
そろそろ皇后の茶会から香凛が戻っているだろうと考え、瑛然は彼女の部屋を訪れた。
「香凛?」
だが、部屋からの反応はない。
(まだ戻ってないのか? 様子を見に行くか)
部屋にいないのであれば、皇后の元に迎えに行けばいい。
毒矢のことで心配もかけたので、ついでに元気な姿を見せておこうなどと思いながら、瑛然は皇后の住む水明宮へ、皇太子であることを示す衣服に変えて、向かった。
***
水明宮は周囲を水で囲まれていて、宮の中にも小川のようなものが流れている。
水の流れる音が耳に心地よく、働いている者たちも穏やかな気持ちで過ごしていると聞いたことがあった。
「母上にお会いできれば」
瑛然が皇太子の衣服で現れれば、当然侍女たちは否やもなく宮の中に招き入れる。
美しく花が飾られた応接の間で待っていると、そう時間をおかずに皇后から私室に来るよう案内が届く。
「母上、香凛はどこに?」
「私に会って、開口一番がそれなのねぇ」
皇后の私室にいると思われた香凛が見当たらず、思わず口にしてしまう。
「……失礼致しました。皇后殿下におかれましては」
「いいのよいいのよ。ちょっと嬉しくて」
その言葉の意図に、瑛然は苦笑いを浮かべる。
座るよう促され、皇后の前に座った。
「あ、それで香凛が母上とのお茶会に来ていると思うのですが、どちらに」
「お茶会? なんのこと?」
「今朝、母上からという文が香凛に届きましたが……」
「私は出してないわよ」
小首を傾げ、皇后は不思議そうに返す。
「そんな筈は」
「いいえ。今日は朝から、秋の祭祀についての打ち合わせで忙しかったもの」
彼女の言葉に、瑛然は目を瞠った。
(そういえばあの御手、乱れていると思ったがもしや偽物――)
そこに思い至り、瑛然の顔色が変わる。
その様子に、皇后は事態を理解したようだった。
「なぁに。偽物でも掴まされたのかしら」
「母上、何を悠長に」
「その文を見て、そなたは何も気付かなかったの」
それを言われると辛い。
どうしてあのとき、おかしいと思わなかったのか。
「まったく。肝心なところで抜けてるのよね。きっと香凛はわかっていたわよ」
「わかっていた!?」
「私の所へ来ていない、そしてそなたがここに来たということは、部屋にもいないということでしょう?」
皇后の言葉に、瑛然は頷くしかない。
「となれば、手紙を出した人間を想定して、あの子は自ら罠にはまりに行ったんでしょうね」
「罠……。自分から?!」
(いや、香凛の性格からしてあり得なくはない。でもどうして、一人で)
手のひらを握りしめる。
「――炎瑛」
本当の名を皇后に呼ばれ、瑛然は表情を引き締めた。
「そなたは香凛をどうしたいの」
「それは……」
皇后が言いたいことは、理解している。
香凛をどこまで巻き込むのか。
もうすでに、深いところまで引き込んでしまった自覚はある。
(それに、俺が香凛のことを大切に想っていることも――彼女が俺のことを大切に想ってくれていることも)
逡巡する瑛然を観察し、皇后は口元を僅かに上げた。
「手放すのであれば、あとは私に任せなさい」
本当は、それが正しいのだろう。
きっと今が、最後の機会だ。
香凛をこちら側に――朝廷の、後宮の、争いに巻き込むわけにはいかない。
彼女のことを諦め、距離を取る。それだけでいい。
(――俺が、香凛を、諦める?)
「まったく。どうしてこんなに間抜けに育ったんでしょうねぇ」
ぴしゃり、と皇后は手元の扇子を勢いよく閉じた。
「香凛は、後宮にいるでしょうね。場所は――貴妃の部屋か、昭儀の部屋か、それとも」
皇后の言葉に、瑛然が立ち上がる。
「母上、御前失礼致します!」
言うやいなや、部屋を飛び出した。
「……ようやく覚悟が付いたのかしら」
瑛然の後ろ姿を見送りながら、皇后は小さく笑った。
***
皇后の住む水明宮を出て、後宮へと向かう。
後宮は当然男子禁制だ。
たとえ皇太子であったとしても、入ることは許されていない。
「どけ! 中に入る!」
「皇太子殿下であっても、許されません!」
入り口で宦官と女官が止めるが、瑛然は彼らをぎろりと睨み、中へと進む。
さすがに相手が皇太子ということもあり、宦官であっても力尽くで止めることはできない。
「香凛! 香凛はいるか!」
大声で叫ぶが、当然返事はない。
その代わりに奥からは、妃やその侍女、女官たちに、他の宦官も何事かと出てきた。
「皇太子殿下! この先はどうか、どうか!」
必死に止める者たちの中に、香凛が紛れていないかを確認する。
「お前たち、凌香凛がここに来ていたか、今もどこかにいるのか知らないか」
「りょ、凌香凛でございますか? 私はわからず……あなたは?」
「わたくしもわからず……」
問われた女官や宦官は、首を振り確認しあう。
瑛然はその答えを聞きながら、周囲が止めるのも構わずに奥へと進む。
そこへ。
「皇太子殿下! さすがに無礼ではございませぬか?」
叫んだのは、貴妃だった。




