118.閑話 セレスティアは絶対を否定する
王都の特別療養室で、私はひたすらに震え続ける一人の少年の背中を見つめていた。
かつて世界を救うと讃えられた光の使徒、勇者アレク。
今の彼には、その面影は微塵もない。窓の外の東の空に向かって、ひたすらに「あの悪魔が来ませんように」と涙を流して祈り続けている。
以前の私であれば、光の象徴である彼がこんな無惨な姿を晒すなど、到底受け入れられなかっただろう。発狂し、彼をこんな目に遭わせた元凶に復讐を誓っていたはずだ。
しかし、今の私の心は、恐ろしいほどに凪いでいた。
冷めたお茶を淹れ直しながら、私は自らの過去を思い返す。
思えば、私の人生は常に「絶対的な何かに仕える」ことの連続だった。
最初は、教会だった。
神の教えこそが絶対の正義であり、それに逆らう者は悪であると信じて疑わなかった。
次に仕えたのは、教会の暗部を束ねる長、メルフィ様。
表の綺麗事だけでは世界は救えない。光を守るためには、より深い闇と冷徹な合理性が必要なのだと、彼女の底知れぬ暗躍に心酔した。
思えば、あの頃から教会の在り方は異常だったのだ。
勇者アレクを自分たちの都合の良いように『教育』するため、教会は彼の心の支えであった幼馴染の聖女ニーナを公式に死亡扱いとした。そして、あろうことか新たな聖女として据えたのは、暗部の長であるメルフィ様だった。
血と死の匂いしかしない暗殺組織のトップが、慈愛の象徴たる聖女の座に就く。
そんな悪い冗談としか思えない狂った茶番劇を、教会上層部は『神の御心』という言葉一つで平然と押し通し、アレクを騙した...いや洗脳した。当時の私は、そんな教会の腐敗すらも『光を守るための必要な影の業』だと盲信していたのだから、本当に救いようがない。
そして、勇者アレク。
暗部の任務として、あるいは教会の意向として彼に近付いた私は、彼が放つ眩いばかりの純粋な正義感に当てられ、やがて本気で彼を「世界の希望」として崇拝するようになった。
だが、その希望は脆くも崩れ去った。教会という正義の皮を被った組織によって、彼の中に『強欲の魔神の心臓』という呪物が埋め込まれていたのだから。
強欲に呑まれ、さらには学園の地下で『傲慢のレプリカ』を取り込んだ彼は、他者を見下す狂信的な怪物へと成り果てた。
それでも、私は彼に従った。圧倒的な呪物の力。神の加護すら凌駕するほどの暴力的な魔力。正義だの悪だのという次元を超えた「絶対的な力」の前に、私は抗いようのない新たな信仰を見出しかけていたのだ。
そう、あの日、闘技場の舞台で「彼」に出会うまでは。
ヴェルト・フォン・アークライト。
地方の悪徳領主という小悪党に過ぎないはずのその男は、私の信仰を、価値観を、根こそぎ物理的に粉砕した。
聖なる光も、暗部の策略も、勇者の威光も、呪物の圧倒的な力も。
すべては、あの男の靴の裏で虫ケラのように踏み躙られた。
何の意味もなかったのだ。私が人生を懸けて信奉し、乗り換えてきた「絶対的なもの」たちは、ただの理不尽な暴力の前に、何の言い訳もできずに沈黙した。
傲慢も強欲も、ただ殴られて、弾き出されて、終わった。
あれほど恐ろしかった呪物が宙を舞うのを見た瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、プツリと音を立てて切れたのだ。
「……馬鹿みたいですわね」
無意識に口から漏れた言葉に、アレクがビクッと肩を揺らす。
「ひぃっ!?な、なんだよセレス!あいつが来たのか!?」
「いえ、独り言です。お気になさらず」
怯える彼を落ち着かせるように、私は静かに声をかける。
不思議なものだ。信仰の対象をすべて失ったというのに、絶望はない。むしろ、幾重にも被せられていた呪縛から解き放たれ、視界が恐ろしいほどクリアだった。
誰も絶対ではない。正義も、悪も、ただの言葉に過ぎない。
あの理不尽な悪徳領主の暴力が、図らずも私にその真実を叩き込んでくれたのだ。
だからこそ、私は今、かつての神像ではなく、ただの弱い人間へと成り下がったこの少年を、何一つ心を乱すことなく冷静に介護できているのだろう。
ニーナがアバドから聞いたという「作られた魔王」という真実を知った時も、私は驚くほどすんなりとそれを受け入れることができた。
信仰という名の目隠しは、もうとうの昔に外れている。
ふと、かつての同僚で失踪したとされる『断頭台のロゼ』の顔が脳裏を過る。教会の暗部から姿を消した彼女も、今の私と同じような気持ちを抱いていたのだろうか。今となっては確かめる術もない。
「アレク。お茶を淹れ直しました。少し冷ましておきますね」
「……ありがとう。でも、東の空から目を離したら、あいつが飛んでくるかもしれないから……」
相変わらず窓枠にしがみついているアレクと、彼を献身的に支えようとするニーナ。
現在のアレクとニーナ、本来の勇者と聖女の姿を眺めながら、私は小さく息を吐く。
勇者と聖女が魔王を倒し、世界を救う。それは教会が自らの都合で描いた、ただの傲慢な筋書きなのかもしれない。だが、この世界の物語を、そのすべてを嘘だと断じるには、まだ早い。
何が正しくて、何が正しくないのか。狂信から目が覚めた今の私には、もはや何もわからない。
生憎、メルフィ様から勇者監視の任は外されていない。この都合の良い命令を隠れ蓑にして、私は私のために真実を確かめよう。勇者と聖女が立ち上がり、魔王と相対するという、本来あるべきだった世界の形を自分の目で確認するのだ。
すべてはそこから始まる。そこから、もう一度やり直すのだ。
人伝に聞いた神も、暗部も、勇者も、呪物も信じない。
今の私が信じるのは、自分自身のこの目で見極める真実だけだ。
あの理不尽の化身が世界をどう引っ掻き回すのか。そして、教会の暗部と作られた魔王の真実の先に何があるのか。
それを最後まで見届けることだけが、空っぽになった私に残された、唯一の確かな目的だった。




