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116.閑話 勇者アレクのトラウマ

 王都、王城内にある特別療養室。


 そこは本来、国賓や王族のみが使用を許される最高級の部屋だ。


 本来であれば、先日の闘技大会で無実の観客を虐殺し、各国の国賓にまで危害を加えかけたアレクは、地下の重罪人用の牢獄に繋がれるべき大罪人である。


 だが、「勇者」という絶対的な希望の象徴が殺人鬼に堕ちたという事実を恐れた国王と教会の計らいにより、表向きは『勇者は魔王の恐るべき呪いによって自我を乗っ取られていた悲劇の犠牲者』という都合の良いストーリーにすり替えられていた。それにより国民の負の感情を魔王へと誘導したのだ。


 その結果、彼は重罪に問われることもなく、軽い軟禁状態とされ、こうして最高級のベッドの上で体育座りをし、虚ろな目で窓の外を見つめているのだった。


 神に選ばれし光の使徒。魔王を打ち倒す運命を背負った、勇者アレク。


 かつては自信に満ち溢れ、正義感に燃えていた彼の瞳には、今や見る影もない深い絶望と、拭いきれない恐怖がへばりついている。


「……アレク。ご飯、持ってきたよ。少しでも食べないと、体が鈍っちゃうよ?」


 部屋の扉が開き、心配そうな顔をした幼馴染のニーナがトレイを持って入ってきた。


「……」


 アレクは返事をしない。ただ、ガチガチと歯を鳴らし、毛布を引き寄せて体を丸めるだけだ。


 彼の脳裏に焼き付いているのは、先日の出来事。


 熱狂に包まれた闘技大会の舞台で、悪徳領主――ヴェルト・フォン・アークライトに対して尊大に剣を向けた、あの日。


 実のところ、あの日彼がヴェルトに対してあのような狂信的な態度をとったのは、彼本来の意思ではなかった。


 教会に攫われた後、彼の中には密かに『強欲の魔神の心臓』の欠片が埋め込まれていたのだ。


 枢機卿が持っていた心臓の一部をメルフィが回収していたものだ。

 

 その呪物は、アレクの心の奥底で「自分には到底敵わないヴェルトへの羨望と憎悪」――あいつは全てを持っている、というどす黒い感情を際限なく増幅させた。


 そして、肥大化した強欲の感情は、学園の地下に封印されていた『傲慢のレプリカ』と共鳴した。引き寄せられるように学園の地下へと向かったアレクは自らそれを取り込んでしまい、他者を見下す狂信的な別人格へと完全に変貌させられていたのである。


 だが、聖剣の輝きも、二つの呪物によって底上げされた強大な力も、あの男には一切通用しなかった。


 虫ケラを払うかのような、圧倒的で理不尽な力の差。


 その常軌を逸した物理的な衝撃と威圧によって、アレクの体に巣食っていた呪物は、なんと根こそぎ「物理的に」弾き出されてしまったのだ。


 呪縛から解放され、記憶と共に本来の温厚で真面目な性格を取り戻したアレク。だが、正気に戻った彼を直後に襲ったのは、呪物に操られていた間に自身が犯した、あまりにも重い罪への絶望だった。


(僕は……闘技場で……無関係な観客たちを……!)


 自らの手で無惨に命を奪ってしまった記憶。逃げ惑う人々の悲鳴と、血に染まった自分の刃が鮮明にフラッシュバックする。勇者として守るべき人々を虐殺し、あわや闘技場に来ていた他国の重鎮、国賓までも手に掛けようとしたという事実は、彼の心を完膚なきまでにへし折っていた。


「なんてことをしてしまったんだ……。僕は、取り返しのつかないことを……っ!」


 突如として頭を抱え、後悔と自責の念で錯乱したように叫び出す勇者。


 ニーナは慌ててトレイを置き、彼を抱きしめると「大丈夫、あれはアレクのせいじゃない。全部呪いのせいだよ。国も教会も、そう認めてくれたじゃない」と必死になだめる。


 確かに、彼が正気を取り戻せたのは、あの悪徳領主が呪物を物理的に叩き出してくれたからに他ならない。あのまま心が食われていれば、さらに多くの犠牲者を出していただろう。


 だが、その事実を理解した上でなお――アレクの震えは止まらなかった。


 深い罪悪感すらも一瞬で上書きしてしまうほど、自らを虫ケラのように踏み躙ったあの男への『恐怖』が、魂の底まで刻み込まれてしまっていたからだ。


『テメェみたいな、他人の力に寄生してイキってるだけのゴミを――ただの素手で、こうしてゴミ箱にブチ込めるからな』


「……魔王より、怖い」


 アレクの口から、ポツリとそんな言葉が漏れる。


「え?アレク、今なんて……」


「魔王なんて目じゃない!!あいつは、あの男はバケモノだ!!論理も、神の加護も、呪物の力も何一つ通用しない!!僕が、僕が束になってかかっても、一瞬で殺される!!」


 ニーナの腕の中で、アレクはガタガタと震え続ける。


 本来の勇者としてのプライドも、背負ってしまった大罪の意識さえも、ヴェルトの恐怖によって完全に上書きされてしまっていた。


 そんな惨状の療養室に、慌ただしい足音が響き、パーティの仲間であるセレスティアが飛び込んできた。


「アレク様、朗報です!!」


「ひぃっ!?な、なんだよ!あいつが、アークライトが僕を殺しに来たのか!?」


「違います、落ち着いてください!……あの男は、王都を出たそうです!」


 その言葉に、アレクの動きがピタリと止まった。


「……え?」


「今朝早く、あの漆黒の馬車で王都を出発したとのことです。ギルドの情報網によれば、どうやら一直線に国境を越え、ドラグノフ帝国へ向かったと……!」


 セレスティアの言葉を脳内で反芻し、アレクの目に徐々に光が戻っていく。


「……王都に、いない?僕の近くに、あの悪魔がいない……?」


「ええ!ですから、もうあなたが怯える必要はありません。さあ、早くお体を治して、闘技場での汚名をそそぐためにも、また私と一緒に旅に出ましょう!」


 仲間の明るい声に、アレクはゆっくりとベッドから降りた。


 そして、窓枠に手をつき、はるか遠く、ドラグノフ帝国があるであろう東の空を見つめる。


 記憶と本来の温厚な性格を取り戻した彼には、勇者としての正義感や、罪を償おうとする心が戻っているはずだった。だが、そういった高潔な精神は、もはや恐怖によって完全に麻痺していた。


 今、彼が感じているのは、ただ一つの純粋な感情だけだった。


「……助かったぁぁぁぁぁっ!!」


 療養室に、勇者の歓喜の叫びが響き渡る。


「ああ、神様!僕を見捨ててはいなかったんですね!あの理不尽な暴力の化身が、遠い異国に行ってくれたなんて!!」


 アレクは涙を流しながら、東の空に向かって深く祈りを捧げた。


「……ドラグノフ帝国の皆さん、どうか強く生きてください。あの悪夢が、皆さんの国を更地にしないことを……僕はここから、全力で祈っています!!」


「……アレク様。見ず知らずの異国の心配をしている場合ではありませんよ」


 涙ながらに祈りを捧げるアレクの背中に、セレスティアが冷や水を浴びせるように真面目な声で告げた。


「え?」


「アレク、現実を見て」


 ニーナが一歩前に出て、真剣な眼差しで彼を見据えた。


「実はね……あなたが教会に攫われた後、私、少しだけあの領主様たちと行動を共にしたの。その時にね、アバドさんから直接聞いたんだ」


「ア、アバド……?それに、あの男と一緒にいたって……!?」


「教会がどれだけきな臭いか……そして、『魔王』という存在そのものが、実は教会によって意図的に作られたものだって事実をね」


 その言葉に、アレクは息を呑んだ。


「ニーナからその話を聞いた時は耳を疑いましたが……今回の件で、はっきりと分かりました」


 セレスティアがニーナの言葉を引き継ぎ、重々しく頷く。


「あなたを拉致して恐るべき呪物を埋め込んだ教会のやり方を見れば、その真実も疑いようがありません。私たちの当面の目標は、ただ魔王を倒すことではありません。教会の暗部を探り、この狂った事実を確認することです」


 教会の陰謀。作られた魔王。


 それは、世界の根幹を揺るがすような恐るべき真実への入り口だった。本来の勇者であれば、正義感から真っ先に立ち上がり、その闇を暴こうとしただろう。


 だが、今の彼にとって、あの「理不尽の化身」の影がチラつくシリアスな展開など、地獄からの招待状に他ならなかった。


「……い、いやだぁぁぁっ!!」


 アレクは窓枠にしがみつき、子供のように泣き叫んだ。


「僕はもう戦いたくない!教会とか作られた魔王とか、あの男が絡んでそうな面倒事なんて絶対に関わりたくない!僕は世界平和の尊さを説く旅に出るんだぁ!もちろん、あの悪魔がいる東の国以外になぁ!!」


「……やはり、完全に心が折れてしまっているようですね」


「うん……。でも、アレクが勇者として選ばれている以上、この問題からは逃げられないよ」


「ええ。こうなったら仕方がありません。首に縄をつけてでも、強制的に連行していくしかありませんね」


「ひぃぃぃっ!?やめて!離してぇぇっ!!」


 窓枠に必死にしがみつく勇者の両足を、容赦なく引っ張り始める二人の少女たち。


 呪縛から解放され、本来の優しい性格に戻ったからこそ、純粋な恐怖に染まりきった勇者。自らの罪を償うべき本来の使命も忘れ、ただひたすらに異国の平和と自分の安全を叫ぶ彼は、頼もしい仲間たちによって、世界の真実を巡る過酷な旅へと強制連行されていく。


 ヴェルト・フォン・アークライトという存在は、それだけで世界を救う勇者の精神を破壊し、そして図らずも彼を「熱心な平和主義者」へと変貌させてしまったのだった。


 一方その頃、彼に祈られたドラグノフ帝国では、当の悪徳領主が次期皇帝を空の彼方へ蹴り飛ばし、龍帝に堂々と略奪宣言を叩きつけることになろうとは、知る由もなかった。

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