112.走る要塞と地獄の陣取り合戦
王都を出発し、アークライト家の紋章を刻んだ漆黒の馬車は、街道を弾丸のような速度で爆走していた。
ネロが造り上げた『魔法馬』は、疲労を知らず、呼吸すら必要としない。通常の馬の十倍以上の出力を誇り、道中の悪路も障害物(野盗を含む)も、すべて物理的に粉砕しながら直進していく。
そして、その馬車を牽引する車体もまた、外見の無骨さとは裏腹に、内部は高級ホテルのスイートルームのように洗練されていた。床下に敷き詰められたスライム・クッションが衝撃を完全に吸収し、どれだけ高速で爆走しようと、テーブルの上に置かれた紅茶の水面すら揺れることはない。
……本来ならば、最高に快適な旅になるはずだった。
「……なぁ。誰か、俺のパーソナルスペースって言葉の意味を教えてくれないか?」
俺――ヴェルト・フォン・アークライトは、深々とソファーに沈み込みながら、眉間を強く揉みほぐしていた。
広い車内だというのに、俺の周囲だけが異常な人口密度になっている。
「ふふっ、パーソナルスペースなど不要ですわ。私の身体は、すでにヴェルト様の一部も同然なのですから♡」
俺の右腕に絡みつき、豊満な胸を押し当ててくるのは、龍神国家ドラグノフの第一皇女サラシュアだ。彼女の肌からは、爬虫類特有のひんやりとした冷たさではなく、発情した肉食獣のような、ねっとりとした熱と甘いフェロモンが漂ってきている。
「……あの、サラシュア殿下。不敬を承知で申し上げますが」
俺の左側。そこに仁王立ちしているのは、氷点下の笑顔を貼り付けたメイド――マリアだ。彼女の手には、先ほどからずっとリンゴの皮を剥いている(フリをして、いつでも投擲できるように構えている)鋭利なナイフが握られている。
「ヴェルト様は現在、発情したトカゲが密着しているせいで深刻な『酸素不足』に陥っておられます。貴女のその下品な脂身……いえ、お胸でヴェルト様の視界と呼吸を奪うのは、万死に値する...いえ、もはやこれは暗殺、そう暗殺ともとられかねない危険行為です。」
「あらら。貧相な胸のメイドには、この柔らかな竜の加護の素晴らしさが理解できないのですね。可哀想に」
サラシュアが妖艶に微笑み、マリアを挑発する。
ピキィッ……と、マリアの持つナイフの刃が、怒りによる握力により、わずかに欠けた音がした。
「ちょっと!なんなのよこの破廉恥な空間は!」
向かいの席から、顔を真っ赤にして立ち上がったのはクリスだ。公爵令嬢としての矜持か、ただの嫉妬か、彼女は魔導書をバンッとテーブルに叩きつけた。
「論理的に考えておかしいでしょ!なんで他国の皇女が、初対面に近い男の腕にそんなに密着してるのよ!離れなさいよ!」
「そうですわ!生徒会長として、このような風紀の乱れは見過ごせません!ヴェルト様も、だらしなく鼻の下を伸ばしていないで毅然と拒絶しなさいな!」
アリシアも杖を構え、なぜか俺にまで怒りの矛先を向けてくる。
「俺は鼻の下なんて伸ばしてねぇよ。むしろ息苦しくて死にそうだ」
俺が抗議するが、ヒロインたちの陣取り合戦はヒートアップする一方だ。サラシュアが俺の腕を引き、マリアが牽制し、クリスとアリシアが風紀(嫉妬)を理由に割って入る。
「……おい、てめぇら」
俺が重い口を開こうとした、その時だった。
「――お前ら、うるせェな!!こっちは魔力酔いで死にそうなんだよ!!」
車内の隅。女体化したままの姿で、頭から毛布を被って丸まっているネロが、涙目で絶叫した。
「この馬車、俺様の天才的な魔導回路が組み込まれてるんだぞ!お前らが殺気だの色気だのデタラメな魔力を垂れ流すせいで、車内のマナバランスが崩れて酔いが酷くなるんだろうが!少しは静かにしろォォッ!」
天才魔術師の悲痛な叫び。だが、誰も気にも留めない。
「あら、ごめんなさいねおチビちゃん。でも、竜の求愛行動は本能ですの。止められるものではありませんわ」
「……そうですか。では、私が物理的に『去勢』して差し上げます。トカゲの処理は初めてですがきっと上手く殺れます」
「ヴェルトの生態を観測するのは私なんだから!ほら今のうちにこっちに来なさい!」
……もうダメだ。
ここは馬車じゃない。動物園だ。しかも、肉食獣しか乗っていない最悪の檻。
「……おい」
俺は低く、地を這うような声を出した。
「全員、いい加減に――」
俺が【威圧】のオーラを少しだけ漏らして黙らせようとした、その瞬間だった。
――ドォォォォォォォォンッ!!!
「なっ!?」「きゃあっ!?」
突然、馬車の天井から、凄まじい衝撃音が響き渡った。
頑強なはずの車体が大きく揺れ、スライム・クッションが悲鳴を上げる。上空から隕石でも落ちてきたかのような重圧だ。
「おい、ネロ!なんだ今の音は!お前のゴーレム馬が暴走でもしたのか!?」
俺が叫ぶと、毛布を被ったネロが顔を青ざめさせて叫び返した。
「俺の完璧な設計がバグるわけねぇだろ!魔力探知に反応ありだ!屋根の上になんかデカいのが乗ってやがる!」
「……いえ、野盗の類ではありませんわ。ヴェルト様」
マリアが天井を見上げ、氷のように冷たい声で補足した。
「どうやら、退屈に耐えきれなくなった『お客様』が、馬車の屋根の上でウォーミングアップを始められたようです」
「……は?」
俺は窓を開け、猛烈な風圧に耐えながら屋根の上を見上げた。
そこには、時速数百キロで爆走する漆黒の馬車の上に仁王立ちし、強風に金髪をなびかせながら、空に向かってシャドーボクシングをしている大男の姿があった。
「オラァッ!シィッ!シュッシュッ!はっはははは!なかなか良い風圧だ!これなら身体が鈍ることもないな!!」
獣人国家ガルドニアの第一王子、レオンハルトだ。
「……テメェ、何やってんだバカ王子」
「おお、ヴェルトか!悪いな、車内は女どもの香水と殺気で息苦しくてな!俺はここで少し体をほぐさせてもらうぞ!お前もどうだ?この速度で揺れる屋根の上での殴り合い、最高の足腰の鍛錬になるぞ!!」
レオンハルトは満面の笑みで、ドンッ!ドンッ!と屋根を踏み鳴らした。そのたびに、車内がミシミシと軋む。
「……」
俺の額に、ピキッ、と明確な青筋が浮かんだ。
車内では女どもがキャットファイトを繰り広げ、屋根の上では脳筋のゴリラがタップダンスを踊っている。
俺が求めているのは、ふかふかのシートで惰眠を貪る、優雅で平穏な移動時間だ。
「……おい、全員よく聞け」
俺は立ち上がり、首をゴキリと鳴らした。
「俺は今、猛烈に眠い。……そして、猛烈に機嫌が悪い」
俺の体から噴出した、本気の【威圧】のオーラ。
それは車内の空気を一瞬で凍りつかせ、屋根の上でステップを踏んでいたレオンハルトの動きすらピタリと止めた。
「ヴェ、ヴェルト様……?」
「……ヤバいわ。論理的に考えて、この魔力密度は……災害レベルよ」
マリアが短剣を隠し、クリスとアリシアが青ざめて後ずさる。サラシュアでさえ、俺から放たれる圧倒的な『強者の圧力』に気圧され、唾を飲み込んだ。
「まずはテメェからだ、バカ王子」
俺は窓から身を乗り出し、屋根の上で俺を見下ろしているレオンハルトに向かって、右手の親指と中指を弾く構え――デコピンの体勢をとった。
「なっ!?ヴェルト、まさかこの足場の悪い状況で俺に攻撃を……」
「揺れるから、上で暴れるな」
パァンッ!!!
俺が指を弾いた瞬間。
圧縮された空気の弾丸が、音速を遥かに超えてレオンハルトの腹部を直撃した。
「ぐはァッ!?」
巨躯の獣人王子が、悲鳴を上げる間もなく空の彼方へと吹き飛んでいく。
「オオォォォォォ!最高だァァァァッ!この圧倒的な暴力……やはりお前は……ッ!!キラーン☆」
レオンハルトは歓喜の叫びを残し、見事な放物線を描いて地平線の向こうで星になった。
(……まあ、あいつならあれくらいじゃ死なねぇだろ。後で追いつくだろ)
俺は窓を閉め、ゆっくりと車内の女たちを振り返った。
「さて、次は……」
「「「も、申し訳ありませんでしたぁぁッ!!」」」
マリア、クリス、アリシアが、一斉に土下座に近い姿勢で頭を下げた。
さすがに、空の星になった王子を見た後では、逆らう気も起きないらしい。
「ふふ……ふふふっ……♡」
だが、ただ一人。サラシュアだけは、両手で頬を押さえ、身をよじらせていた。
「ああ……なんて理不尽な暴力。あのレオンハルトを一撃で空の彼方へ……。素晴らしいですわ、ヴェルト様。私の逆鱗が、今かつてないほどに……ッ」
「……テメェは隅っこで大人しく座ってろ。一歩でも俺のパーソナルスペースに入ったら、その角をへし折るぞ」
俺が冷たく睨みつけると、サラシュアは「はいっ♡」と嬉しそうに頷き、おとなしくソファーの端にちょこんと座った。……なんだこいつ、Mなのか?
「……はぁ。やっと静かになった」
俺は大きくため息をつき、ソファーに深く横になった。
「ネロ、このままドラグノフ帝国までオートでぶっ飛ばせ。俺は寝る」
「……へいへい。おやすみ、悪徳領主サマ」
毛布の中から聞こえる魔術師の呆れた声に、俺はようやく目を閉じた。
……悪徳領主の平穏な旅路は、かくして(物理的な弾圧によって)無理やり守られたのだった。




