107.勇者不在の表彰台
メルフィがアレクを連れて去り、不死王の気配も完全に消え失せた。
瓦礫の山と化した闘技場には、呆然と立ち尽くす観客と、戦いを見届けた者たちの荒い息遣いだけが残っている。
「……あーあ。どいつもこいつも、人の邪魔ばっかりしやがって。いい迷惑だぜ、全く」
観客席からは、未だに歓声一つ上がらない。それも当然だろう。彼らはたった今、おとぎ話の魔神が顕現する絶望を味わい、直後にそれを一人の悪徳領主が『ただの素手』で物理的に粉砕する……という、理解の範疇を超えた悪夢を見せられたのだ。
「ば、化け物……いや、救世主様か……?」「だが、あのオーラ……勇者様よりも恐ろしかったぞ……」
安堵と恐怖。相反する感情でぐちゃぐちゃになった貴族や平民たちが、震える膝を抱えながら俺を凝視している。無理もない、今の俺は国中の誰から見ても『正体不明のヤバい奴』だ。
一気に静まり返る空間。だが、その静寂を破ったのは、服の裾を引く小さな、だが確かな感触だった。
「……パパ」
見上げると、銀髪を揺らしたフィオナが、一点の曇りもない瞳で俺を見つめていた。
彼女は崩壊した石畳を指差し、ボソリと呟く。
「……約束。うまくできたら、おいしいアイス、くれるって」
「おお、そうだったな。このクソみたいな状況で、唯一価値のある約束だ」
「マリア」と指を鳴らす。
すると、ロイヤルボックスから飛び降りてきたマリアが、乱れ一つない礼と共に、魔法によって冷気を保った漆黒の保冷箱を差し出した。
「お呼びでしょうか、ヴェルト様。フィオナ様のための『王家御用達の極上バニラアイス』、およびトッピングのベリーソース、すでに完璧な状態で用意させております」
「仕事が早ェな、おい」
俺は瓦礫の大きな塊を椅子代わりにし、フィオナを隣に座らせる。
国王やマクシミリアン王子が「ヴェルトよ、話が……」と恐る恐る歩み寄ってくるが、俺はそいつらを一瞥もせず、フィオナの口に銀のスプーンでアイスを運んだ。
「ほら、食え。世界一高い、王族から分取った経費のアイスだ。今回お前には助けられたからな、思う存分味わえよ」
「……ん。……冷たくて、甘い。パパ、大好き」
幸せそうに頬を緩ませるフィオナ。
国を救った英雄を崇めようとしていた観客たちは、そのあまりにも場違いでほのぼのとした親子空間に、どう反応していいか分からず固まっている。
そこへ、扇子を激しく仰ぎながらシャルロットが詰め寄ってきた。背後には、同じく顔を真っ赤にしたシルヴィアがいる。
「ヴェルト様!わたくしの、いえ、未来の『旦那様』の初勝利の祝いは、このシャルロットが真っ先に行うべきですわ!そのアイス、わたくしが『あーん』して差し上げますから代わりなさい!」
「お姉様、またどさくさに紛れて旦那様と言いましたわね!ヴェルト、そのアイス、私にも半分渡しなさい!じゃないと、さっきの凄まじい戦闘で私のスカートが盛大に捲れそうになった責任、キッチリ取っていただきますからね!」
「うるせェな。アイスが溶けるだろ。食いたきゃネロにでも買ってきてもらえ」
「ふざけんな!これ以上俺の仕事を増やすんじゃねェよ!今、地下のクソみたいな書類の山を全部魔法で消し炭にしてトンズラしてやろうかって、真剣に考えてたとこなんだからなッ!」
床板の穴から這い出してきた灰色の髪の少女姿――アークライト家が誇るふてぶてしい天才魔術師、ネロが血走った目で絶叫する。
そこに、高笑いを上げながら歩み寄ってきたのは、巨大な戦斧を肩に担いだジェシカ先生だった。
「ハッハッハ!ワレ達、相変わらず賑やかやのう。世界が滅びかけてたとは思えん空気やで」
ジェシカは俺の肩をバシバシと豪快に叩き、クラスメイトのクリスやアリシアたちを顎で示した。
「まあ、ウチのFクラスの生徒が、あのスカした勇者様をワンパンでゴミ箱にブチ込んだんや。担任として、これほど気分のええことはないわ。自分、ほんまに規格外やな。ウチもSランクやった頃にワレみたいなバケモノと会わんで良かったわ」
「……先生、声がデカいんだよ。俺は静かに暮らしたいんだよ」
「何言うてんねん。これだけの騒ぎや、もう学園の裏番長どころか、国中の有名人やで。……ま、武術大会は闘技場ごと木っ端微塵になったし、アレクもあんな状態や。優勝は実質、自分のもんやな」
そう言うと、ジェシカは俺の制止も聞かずに、崩壊した闘技場の中心で大きく息を吸い込んだ。
そして、元Sランク冒険者としての圧倒的な覇気と声量を、闘技場の隅々にまで轟かせる。
「よう聞けや、お前ら!!脅威は完全に去ったで!!全ては、ここにいるウチの生徒……ヴェルト・フォン・アークライトの圧倒的な力によってなァッ!!」
ビシッ!とジェシカが巨大な戦斧の切っ先で俺を指し示す。
その高らかな宣言は、恐怖と混乱で硬直していた観客たちの呪縛を解き放つ、最高の号砲となった。
「……う、うおおおおおっ!!」「助かった! 俺たちは助かったんだ!!」「ありがとう!アークライト卿!!」「最強!万歳ッ!!」
闘技場を揺るがすほどの、割れんばかりの大歓声が爆発する。
勇者アレクではなく、悪名高き悪徳領主ヴェルトを称える、狂熱の渦。俺に対する畏怖と感謝が入り混じった、厄介極まりない歓声の嵐だった。
「おいコラ不良教師!余計なこと吹き込んでんじゃねェ!」
俺が慌てて抗議するが、もはや観客の熱狂に飲み込まれて誰の耳にも届かない。
その様子を見て、クリスが腕を組み、長い髪をファサリと揺らして鼻を鳴らした。
「もはや『天災』のカテゴリーよ。全く、私の完璧な魔導理論をあんな物理で粉砕するなんて……本当に、貴方と同じクラスで助かったわ。貴方に挑んだ昔の私がどれだけ無謀だったか思い知ったわ」
「ヴェルト様。本当に、素敵でした!やはり正義は勝つのですね!」
「ヴェルトが正義かどうかってのは疑問が残るけどね」
アリシアが少し頬を染めて、優しく微笑み、クリスがツッコミを入れる。
俺は、溶け始めたアイスの最後の一口をフィオナに食べさせると、空になった保冷箱をマリアに放り投げ、ようやく重い腰を上げた。
「……優勝賞品でも、利権でも、貰えるモンは一銭残らずアークライト家で回収させてもらうぜ。学園の修復費用?知るかよ。教会と王家が喧嘩して壊したようなもんだろ?俺は被害者だ。……おい、帰るぞ。こんな不味い砂埃が舞う場所、長居する価値もねェ」
俺はフィオナの手を引き、騒がしいヒロインたちや、冷や汗を流す王族、そして呆れ果てた様子のFクラスの仲間たちを背に、堂々と闘技場を後にした。
「……クハッ、ハハハハッ!とんでもない雄がいたものだな!」
悠然と去っていくその背中を、崩壊を免れた来賓用の特別席から熱を帯びた眼差しで見下ろしている者たちがいた。
この武術大会の主賓として他国から招かれていた要人たちだ。
「我ら獣人族の王すら凌駕するほどの覇気。……あの男、間違いなく群れの頂点だ。ただ見ているだけだというのに、本能が歓喜で震え上がってやがる」
獣国の王子は、野性味溢れる顔に獰猛な笑みを浮かべ、自身の手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。強き者を至上とする彼にとって、アレクの魔力などよりも、ヴェルトの放つ理不尽なまでの暴力性こそが最大の魅力に映っていたのだ。
「ええ。小賢しい勇者などより、よほど美しく……そして恐ろしく惹きつけられる存在。竜の逆鱗すら素手で引き裂いてしまいそうな、圧倒的な『暴力』と『傲慢』……」
すぐ傍らで、龍国の姫が艶やかな唇を妖しく舐め回した。
扇子で口元を隠しているが、その縦長の瞳孔には、最上級の獲物――あるいは自分に相応しい強大な番――を見つけたかのような、ドロドロとした欲望が渦巻いている。
「ヴェルト・フォン・アークライト……。ふふっ、覚えておきましょう。私の退屈な国に、極上の嵐を呼んでくれそうな男の名前を」
勇者の没落。聖女の狂気。魔神の影。
そして、知らぬ間に始まっていた他国の重鎮たちからの厄介極まりないロックオン。
俺の望む「平穏で傲慢な悪徳領主ライフ」への道のりは、まだまだ果てしなく遠いようだった。




