106.魔女と心臓
強欲の魔神が消滅し、静寂を取り戻した闘技場に、重々しい羽ばたき音が響いた。
上空で事態を静観していた不死王アバドが、巨大な漆黒の翼を畳み、俺の目の前へとゆっくりと降り立ったのだ。周囲の騎士たちやクリスが再び警戒の色を強めるが、アバドは彼らには見向きもせず、虚ろな眼窩で真っ直ぐに俺だけを見下ろした。
『……見事だ。魔神の欠片の力を、それを超えた暴力で捻り潰すとはな』
カタカタと顎の骨を鳴らし、不死王は低く響く声で言った。その声色には、以前俺に向けられていた明確な殺意や見下すような響きはない。代わりに宿っているのは、イレギュラーな事態に対する強い『警戒』だった。
「俺は俺のモンを守っただけだ。テメェの手伝いをしたわけじゃねェよ」
『フッ……相変わらず傲慢な小僧だ。だが、今回はその傲慢さに救われたというわけか。......お前が纏っていたのは確かに傲慢の魔神の力だった、だが今はお前の体から魔神の気配はない。つまり傲慢の心臓を取り込んだ訳ではないということだ』
アバドは崩壊した闘技場を一瞥し、やがて再び空へと視線を向けた。
『その力が何なのかはわからん。だが、忘れるな。今回勇者が使っていた傲慢はレプリカだ。強欲は失われたが……七つの大罪と呼ばれる魔神の心臓は、依然として世界に散らばっている』
「……わかってるが、面倒くせェな」
『お前のその力が他の魔神の心臓を惹きつける呼び水になるかもしれん。ふむ……だが私もやることがある。また会おう、規格外の悪徳領主よ、次は依頼の品を持ってくることを期待しているぞ』
それだけを言い残し、アバドはあっという間に突如として現れた闇の中へと消え去っていった。ダンジョンに戻ったのだろう。
残りの魔神の心臓。それは間違いなく、原作の後半戦のメインシナリオに関わってくる厄介事だ。俺は特大の舌打ちをこぼし、瓦礫の山を蹴り飛ばした。
「あーあ、嫌な予感しかしねェよ」
だが、今の俺にとって最も厄介な問題は、闇へ消えた不死王などではない。俺は、ゆっくりと特等席から降りてくる『女』へと鋭い視線を向けた。
「……アレク様。ああ、なんて無惨なお姿に……」
異端審問局長かつ現聖女であるメルフィ・アンスバッハ。
先程まで防御結界の中で狂ったように高笑いを上げていたはずの永遠の魔女は、今はもう完璧な『教え子を憂う悲劇の聖女』の仮面を被り直し、気絶したアレクと、彼を抱きしめるニーナの元へと歩み寄っていた。
「ニーナさん。貴女も恐ろしい思いをしましたね。……哀れな勇者様は、教会が責任を持って保護し、その穢れを浄化いたしましょう」
「……っ」
ニーナがメルフィを睨みつけるが、メルフィはものともせずに、悲痛な顔でニーナに手を差し伸べる。
周囲の民衆や騎士団の多くは、彼女の巧みな演技にすっかり騙され、「聖女様はやはりお優しい」「勇者様が勝手に暴走しただけなのだ」と同情と安堵の声を漏らしていた。
アレクを利用するだけ利用し、用済みになれば教会で保護するという名目で彼を幽閉し、政治的に完全に逃げ切る腹積もりなのだ。
「ワレ……こっちが何も知らんと思っとるんか? ヴェルトから聞いとるで、一体どの口が抜かしてけつかるんや」
ジェシカが明確な殺気を放ち、身の丈ほどもある巨大な戦斧を握り直す。その双眸には、生徒を使い捨ての駒にした魔女への、元Sランク冒険者としての激しい怒りが燃え盛っていた。
だが、俺は片手でジェシカを制止した。
「よせ、先生。手を出せば、俺たちが『聖女に刃を向けた逆賊』になる。……今の段階で、国中の狂信者どもを敵に回すのは愚策だ。ニーナ、お前もだ」
「……自分がそう言うなら引くけどな。ほんま、腹立つ女やで」
「ヴェルト様...」
ジェシカが忌々しげに舌打ちをして斧を下ろし、ニーナが懇願するようにヴェルトに視線を向ける。
この場でメルフィの正体を暴こうとしたところで、アレクの暴走の責任を全てなすりつけられた今、決定的な証拠はない。下手に手を出せば、教会という巨大な組織との全面戦争になり、アークライト領の経済にも多大なダメージが出る。
メルフィは、アレクを部下の騎士たちに運ばせながら、最後に俺の傍へと歩み寄ってきた。
「アークライト様。この度は、魔神に魅入られた哀れな勇者様を止めていただき、本当にありがとうございました。教会を代表して、心より感謝申し上げますわ」
周囲の目を意識し、完璧な聖女の微笑みを浮かべて優雅にお辞儀をするメルフィ。そして、彼女は少しだけ首を傾げて言葉を続けた。
「貴方には以前、教会から学園生活における『勇者様の護衛』を依頼しておりましたが、この状況ではそれもままなりませんね。よって、あの依頼は正式に取り下げさせていただきます。……あの骸骨さんとも、何やらお約束があるみたいですし?」
その言葉に、俺は眉をピクリと動かした。
一見すれば、ただの気遣い。だがそれは裏を返せば、「お前と不死王の取引は聞かせてもらった」という教会からの暗黙の牽制だ。
(何を考えていやがる...実際、今後を考えても、この学園に縛られなくなるのはありがたいが)
「……そりゃどうも。せいぜい、テメェらで責任持って面倒見てやることだな」
「ええ、もちろん」
メルフィは再び微笑むと、俺の横を通り過ぎようと一歩踏み出した。
だが、すれ違いざま。
彼女は俺の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえないような小さな、しかしひどく甘ったるい声で囁いた。
「(……アハッ。本当に、本当に素晴らしい力でしたわ。私の作品をゴミのように踏み潰す、貴方のその圧倒的な傲慢さ……まさか勇者だけでなく魔神の性質を持っていたなんて.........本来魔神の性質を個人が保有するなんてありえないこと。ですが、それを実現する姿、たまらなく、愛おしいですわ♡)」
「…………ッ」
「(待っていてくださいね、私の愛しい人。次は、もっと貴方を昂らせる極上の絶望をご用意して差し上げますから……フフッ)」
背筋が凍るような、狂気に満ちた愛の囁き。
メルフィは俺の耳元から離れると、何事もなかったかのように再び悲劇の聖女の微笑みを浮かべ、闘技場を後にした。
「……気持ち悪ィクソババアだぜ、マジで」
俺は、メルフィが消えた方向を睨みつけながら、苛立たしげに首を鳴らした。
勇者の暴走という未曾有の危機は、俺によって確かに粉砕された。
だが、盤面の裏で糸を引く最大の黒幕は、未だ野に放たれたままだ。
残る魔神の欠片と、永遠の魔女。
平穏な悪徳領主ライフには程遠い厄介事の数々に頭を抱えながら、俺は大きく、深い溜息を吐き出した。




