108.群れの覇者と、逆鱗を撫でる者
武術大会の崩壊から数日後。
王都の中心にそびえる王城の最上層、国賓のみが滞在を許される豪奢な客室では、二つの「異常事態」が進行していた。
「……遅い! まだ情報は集まらんのか!!」
豪奢な絨毯が敷かれた部屋の中で、巨躯の男が苛立たしげに吠えた。筋骨隆々の肉体に、野性味溢れる鋭い眼光。獣人国家『ガルドニア』の第一王子、レオンハルトである。
「も、申し訳ございません、レオンハルト殿下!現在、王国の諜報部にも探りを入れているのですが、アークライト領は特殊な結界魔術によって強固に守られており、内部の詳細な情報が掴めず……ッ」
「領地が堅いなら後回しで構わん!俺が知りたいのはあの男……ヴェルト・フォン・アークライトの現在の居場所だ!武術大会の後、奴は領地には帰還していないのだろう!?」
側近の獣人が冷や汗を流しながら深く首を縦に振る。
「は、はい!おそらくまだ王都のどこか、あるいは学園の施設内に身を隠しているものかと……!」
「ならば草の根を分けてでも探し出せ!幼少期の生い立ち、好む肉の焼き加減、今朝起きて何秒であの凶悪なオーラを纏ったかまで、一つ残らずだ!」
レオンハルトはギリッと牙を鳴らし、窓から見える王都の街並みをギラついた瞳で睥睨した。
「あのアレクとかいう腑抜けた勇者には欠伸が出たが……まさか、この退屈な人間の国に、あれほどの『本物』が隠れていたとはな。あの圧倒的な暴力、すべてをねじ伏せる傲慢さ……思い出すだけで血が沸騰しそうだ。我が獣国の闘技場に引き摺り込み、三日三晩、骨が軋むまで殴り合いたい……ッ!」
王子の口から漏れたのは、殺意ではない。
純度100パーセントの、強きオスに対する『歓喜』と『闘争本能』だった。側近の獣人たちは「また殿下の悪い癖(戦闘狂)が始まった……」と頭を抱えながら、平伏し続けるしかない。
「急がせろ!挨拶などという回りくどい真似はせん。居場所さえ特定できれば、我自ら乗り込み、あの男の首根っこを掴んで群れ(ガルドニア)に連れ帰ってやる!!」
一方、壁を一つ隔てた隣の特別客室。そこでは、獣国の喧騒とは全く異なる、ねっとりとした静寂と熱気が満ちていた。
「……ふふっ。ああ、なんて素晴らしいのでしょう。何度思い出しても、胸の奥が甘く痺れてしまいますわ……」
最高級のシルクの長椅子に寝そべり、うっとりと頬を染めているのは、龍神国家『ドラグノフ』の第一皇女、サラシュアだ。
彼女は手にしたワイングラスを揺らしながら、妖艶な縦長の瞳孔を細めた。
「サラシュア殿下。お戯れもその辺りになさってください。我々はあくまで武術大会の視察としてこの国に……」
「黙りなさい、ジーク。貴方たちのような凡夫には分からないでしょうね」
冷ややかな声で側近の小言を遮ると、サラシュアはグラスを一息に煽り、艶やかな唇を指先でなぞった。
「竜の加護を持つ私の『逆鱗』……それを、ただの人間であるあの男は、視線とオーラだけでヒリヒリと撫で回してきたのです。恐怖でも畏敬でもない、ただ他者を見下すだけの、あの極上の傲慢さ……ッ。あの男の冷たい瞳に見下ろされるたび、私の中の竜の血が『服従』か『交尾』かを求めて悲鳴を上げるのです」
「で、殿下!?な、なんと破廉恥な……ッ!しかし、諜報部の報告によれば、あの男はすでにこの国の王族……シャルロット第三王女、あるいはシルヴィア第二王女と婚姻の約束を交わしているという噂が……。真偽のほどは定かではありませんが、もし事実であれば国際問題に……」
側近の文官が顔を真っ赤にして崩れ落ちながらも、必死に諫言を口にする。だが、サラシュアは全く意に介さず、妖しく微笑んだ。
「王族の女が何だと言うのです?まさか、この私が人間の小娘ごときに遅れをとるとでも?……むしろ、好都合ですわ」
サラシュアはグラスを置き、自らの豊満な胸元を艶めかしく撫で上げた。
「あの傲慢な男が、他人に与えられた地位や権力ごときで縛られるはずがありません。王国の姫が囲おうとしているなら、私がそれを正面から力ずくで奪い取るだけ。その方が、あの男の『逆鱗』をより深く刺激できるというもの……。ふふっ、想像しただけでゾクゾクしますわ」
側近たちは「国際問題を単なる略奪愛のスパイスだと思っている……!」と絶望的な顔で天を仰いだ。
「王城の者たちにも圧力をかけなさい。あの男が今どこに潜んでいるのか、いち早く特定するのです。アークライト領の経済状況や軍事力の調査も進めておきなさい。彼を迎え入れるための『結納金』――いえ、王国の姫から彼を買い取るための『手切れ金』の計算もしなければなりませんからね」
「ゆ、結納、手切れ金ですか……!?」
「ええ。どんな手を使ってでも、あの男を私のモノにして差し上げますわ。首輪をつけ、一生私だけの番として飼い殺してあげる……フフフッ」
武術大会の余波は、王国の中だけには留まらない。
戦闘狂の獣国王子と、ヤンデレ気味の龍国皇女。二つの巨大な国の重鎮たちが、それぞれの厄介な欲望を胸に、悪徳領主の行方を血眼になって探し始めていた。
◆
時を同じくして。
王都から遠く離れたアークライト領では、前代未聞の『お祭り騒ぎ』と『地獄の激務』が同時進行で巻き起こっていた。
「号外だ、号外だァーッ!!我らが領主様が、王都の武術大会で勇者をぶっ飛ばしたぞォォォ!!」「マジかよ!?さすが俺たちの領主様だぜ!!」「聞いたか!?勇者は魔神の力を使ってたらしいぞ!それを領主様は素手でカチ割ったんだとよ!!」「ワハハハッ!勇者(笑)がなんぼのモンじゃい!ウチの極悪領主様の前じゃ、魔神だろうがただのサンドバッグだぜ!!」
領都のメインストリートでは、王国から発信された魔導通信で号外を受け取った新聞売りが走り回り、平民たちがジョッキを片手に昼間から宴会を始めていた。
通常、領主が悪名高い『悪徳領主』であれば、領民は恐怖に怯え、街は荒廃するものだ。しかし、このアークライト領においては全く事情が違った。
ヴェルト・フォン・アークライトという男は、自分が快適に引きこもるためだけに、夜な夜なダンジョンのスライムをこき使って完璧な下水処理施設を作り上げ、スライムの死骸を発酵させて極上の肥料を生み出し、領地の農業生産力と衛生環境を他領とは比較にならないレベルにまで押し上げていた。
彼自身の目的は「自分が美味い飯を食い、病気にならず、快適な環境でダラダラするため」という極めて利己的なものだが、その副産物として領民の生活水準は爆発的に向上していたのである。
圧倒的な経済力と、快適すぎるインフラ。そして他者からの理不尽を全て物理とカネで弾き返す領主の傲慢さは、一周回って領民たちに奇妙な『絶対的な安心感』と『熱狂』をもたらしていたのだった。
だが、そんなお祭り騒ぎの街中とは裏腹に、アークライト家の広大な領主の館――その執務室は、野戦病院のような凄惨な空気に包まれていた。
「第一から第五結界、異常なし。王都の諜報部からの下らない探りは、全てダミー情報で弾き返しております。……全く、羽虫のように五月蝿いですね」
ヴェルトが不在の館を預かる執務室。山積みの書類を優雅に、かつ常人離れした速度で処理しながら、執事服に身を包んだリュゼが冷徹な声で報告を上げる。
その視線の先では、白髪の老執事セバスが、穏やかな笑みを貼り付けたまま青筋を立てていた。
「ええ、困ったものですな。国内の貴族だけならまだしも、マリアから獣国や龍国の使者までがこちらの情報を探っていると報告が入っております。リュゼ、防衛レベルを最大まで引き上げなさい。旦那様の平穏な領地を荒らす輩は、文字通り『一歩も』踏み入らせてはなりませんよ」
「承知しております、セバス殿。……さて、文官たち。王家と教会への『精神的苦痛および風評被害に対する特別慰謝料請求書』の作成は終わりましたか?領主様が王都から帰還されるまでに、最低でも国家予算の三割は毟り取れる完璧な法案を用意しておきなさい」
リュゼの慇懃無礼で氷のような命令に、血走った目で書類と格闘していた文官たちがビクッと肩を跳ねさせる。
「げ、現在、急ピッチで作成中です!さらに、他国の要人が領地に無断で踏み込んできた場合に備え、『超高額特別入領関税』の徴収マニュアルも策定しました!」
「よし、よくやりました。いいですかお前たち、領主様が帰ってきた時に『カネのなる木(極上の儲け話)』を用意できていなければ、まとめて解雇……いえ、消し炭にされるかもしれませんよ?死に物狂いで手を動かしなさい」
むろんヴェルトはそんな無意味なことはしないが
セバスが温厚な声色そのままに、恐ろしいブラック労働を強制する。
「「「イエッサー!!」」」
主が不在であろうと、アークライト家はブレない。
世界の常識を粉砕し、他国の要人たちから異常な執着を向けられていることなど露知らず。最強の悪徳領主を支える有能にして冷徹な配下たちは、今日も今日とて、主の『理不尽な要求』に応えるべく胃薬を噛み砕きながら徹夜の書類仕事に勤しむのだった。




