104.聖女の思惑
神話の時代を生きた不死王の言葉に、アレクの青白い瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
「別の、魔神の欠片……?レプリカではなく、俺の中に、すでに魔神が……?」
『そうだ。貴様の魂から放たれる、その際限なき飢餓感と泥臭い魔力の吸収……間違いない。それは【強欲】の魔神の性質そのものだ』
上空に浮かぶアバドは、カタカタと顎の骨を鳴らし、闘技場を見下ろす特等席へとその虚ろな眼窩を向けた。
『ふむ……今世は「聖女」などと名乗っている魔女。虫唾が走る。合点がいったぞ。貴様が、かつての枢機卿を始末して「強欲の欠片」を回収し、この哀れな器に植え付けたのだな』
その容赦のない指摘が闘技場に響き渡った瞬間。
特等席にいた異端審問局長――この国の誰もが敬愛する『聖女』メルフィ・アンスバッハは、ピタリと優雅に揺らしていた扇子の動きを止めた。
「…………」
数秒の、ひどく冷たい沈黙が落ちる。
誰もが息を呑んで彼女の言葉を待つ中、メルフィは手から扇子を力なく取り落とし、その両手で顔を覆って、はらはらと大粒の涙を流し始めた。
「……ああ、なんてこと。アレク様、貴方はあのような枢機卿が遺した禍々しい力にまで、密かに手を伸ばしてしまっていたのですね……」
震える声。悲痛に満ちた叫び。
それは、どう見ても『教え子の裏切りに心を痛め、絶望する慈愛の聖女』そのものの姿だった。
「聖女、様……?」
「力への渇望が、神の啓示を歪めてしまったのですね。私は、私は……教導する立場にありながら、勇者様の心の闇に気づけなかった!すべては私の不徳の致すところ……!」
そのあまりにも真に迫った涙に、アバドの指摘でざわめいていた民衆や騎士たちの顔に、スッと疑念が消え、代わりに同情の色が浮かんでいく。
不死王の「お前が植え付けたのだろう」という明確な指摘を、彼女は持ち前の巧みな涙と圧巻の演技力で、「力に溺れた勇者が勝手に禁忌に手を染めた悲劇」へと、完全にすり替えてみせたのだ。
『……白々しい。魔女め、まだその陳腐な仮面を被り続ける気か』
「ある程度知性があるようですが、魔物である貴方の仰る陰謀など、私には分かりません。ですが、アレク様は今や魔神に堕ちた哀れな化け物。誰かが……誰かが彼を救ってあげなければ……!」
涙を流しながらも、指の隙間から覗くメルフィの瞳の奥だけは、狂気に満ちた歪な形に三日月のように吊り上がっていた。
『死を救いという性悪さは相変わらずだな』
「……反吐が出るな、あのクソババア。どっからどう見ても真っ黒だろうが」
俺は、その吐き気を催すほどの三文芝居を見て、特大の舌打ちをこぼした。
だが、そのやり取りを上空のロイヤルボックスから見下ろしていた王族たちの反応は、真っ二つに分かれていた。
「な、なんだと!?では、勇者は自ら魔神の力に魅入られ、暴走したというのか!教会の監視はどうなっていたのだ!」
国王は額に脂汗を浮かべ、混乱したように叫ぶ。
「……父上、落ち着いてください。あの聖女の涙、どうにも不自然です。あの魔物の言葉が真実である可能性も……」
マクシミリアン王子は剣の柄に手をかけながら、メルフィへ鋭い疑念の視線を向けていた。
「お姉様!あれ、勇者が全部悪いみたいになってるけど、絶対あの聖女が黒幕よね!?泣いてるふりして口元笑ってるじゃない!」
シルヴィアが身を乗り出し、特等席のメルフィに向かって怒りの声を上げる。
「ええ、その通りですわシルヴィア。見事な責任転嫁ですこと。民衆はすっかり騙されていますわね。ですが……」
シャルロットはパチンと扇子を閉じ、闘技場の中央で一人、平然と立つ悪徳領主の背中を見つめた。
「わたくしの……いえ、未来の『旦那様』の目は、あんな三文芝居で誤魔化せるほど節穴ではありませんわ」
「だから!どさくさに紛れて旦那様って言うのやめなさいよ!抜け駆けは許さないんだからね!」
「お嬢様方、痴話喧嘩は後にしてくださいませ。余波が来ます。それにヴェルト様は私の旦那になるお方です。お間違いなきよう!!!」
姉妹が言い争う背後で、最強のメイドであるマリアが淡々と結界を補強し、ロイヤルボックスに飛来する瓦礫を片っ端から裏拳で粉砕していく。
「あーもう!クソがッ!!」
突如、ロイヤルボックスの床板を蹴り破って、ボロボロのローブを羽織った男が這い出してきた。ヴェルトの右腕にして、アークライト家が誇る(不憫な)天才魔術師ネロだ。
「マリア!ちょっと結界の出力上げるぞ!……って、はぁぁ!?」
地下から這い出してきたネロは、闘技場の中央で暴れ狂う巨大な触手の化け物と、空に浮かぶ骸骨を見て、目玉が飛び出んばかりに驚愕した。
「おい、ちょっと待て!!ヴェルトに押し付けられた山のような書類仕事を終わらせて、やっと地上に出てきてみれば、なんだこの地獄は!?武術大会の真っ最中って聞いてたんだけど!?」
「文句は後です、ネロ。来ますよ」
「あーもう、理不尽すぎるだろ俺の労働環境!『極大魔力障壁』ッ!!」
一方、闘技場の端。
誰よりも絶望のどん底に突き落とされたのは、他ならぬアレクだった。
「嘘だ……俺が、勝手に手を出した……?違う、お前が、教会が、お前が俺を……!」
自らの意思で悪に堕ちたつもりだった。
幼馴染を切り捨て、すべてを犠牲にして覇道に至るのだと、全てを見返してやると、そう信じて疑わなかった。
だが現実は、自分を利用するだけ利用し、いざとなればすべての罪を被せて平然と見捨てる、教会の魔女の手のひらの上で踊らされていた『哀れな操り人形』でしかなかったのだ。
「アレク……そんな……嘘よね、アレク!」
ニーナが涙ながらに叫ぶが、特等席のメルフィは悲劇のヒロインを演じるのに夢中で、見向きもしない。
「あり得ない……勇者様は既に魔神の……?ああ、神よ、私は何を信じれば……」
狂信者であったセレスティアは虚ろな目で膝から崩れ落ちていた。
『アアアァァァッレェェェェェ!クエェェェッ!スベテ、奪イ尽クセェェェッ!!』
自我が完全に崩壊したアレクの肉体を、ドス黒い触手が突き破る。
周囲の瓦礫、空気、そして闘技場に満ちる数万人の「恐怖」と「絶望」という極上の魔力を吸い上げ、強欲と傲慢のキメラは闘技場全域を覆い尽くすほどの巨大な『生命吸収の魔法陣』を展開した。
「ぐあっ……!息が……魔力が、吸い取られる……!」
「結界班、出力を上げろ!このままじゃ、観客も生徒も全員干からびて死んじゃうわよ!」
クリスが叫び、アリシアが必死に広範囲の回復魔法をばら撒くが、キメラの吸収力はそれを遥かに上回っていく。
広範囲の無差別吸収。
それは原作の『傲慢の魔神』のボス戦には存在しない、強欲特有の最悪の全体攻撃ギミックだった。無数の赤黒い触手が、地を這う蛇のように逃げ惑う民衆や生徒たちへと一斉に襲い掛かる。
「――どいつもこいつも、手のかかるヒヨッコどもだねぇッ!」
その絶望の触手の波の前に、紅蓮の炎のように燃え盛る闘気を纏った一人の女が立ち塞がった。
Fクラスの担任にしてかつて世界に名を轟かせた元Sランク冒険者『紅蓮のジェシカ』。彼女が己の身の丈ほどもある巨大な戦斧を振るう度、灼熱の爆炎を伴うすさまじい斬撃が、襲い来るキメラの触手を次々と灰燼に帰していく。
「ジェシカ先生……!」
「ここはアタシら教師陣で食い止める!騎士団と結界班はアタシの背後に回りな!引率の教師が、教え子を死なせるわけにいかないからねぇ!!」
元Sランクの意地と誇り、そして数多の死線を潜り抜けてきた圧倒的な実戦経験。
その猛るような背中が、パニックに陥っていたクリスや騎士団たちに希望の光を与え、避難誘導の時間をわずかに稼ぎ出していた。
「へっ……言うじゃねェか。少しは教師らしいところもあるんだな」
俺は、奮闘する先生の背中を見て、ふっと口角を上げた。
(……とはいえ、厄介なことに変わりはねェ。あの無差別吸収、放置すれば無限に回復され続ける。原作なら『聖女の結界石』っていう専用アイテムで吸収を遮断するクソギミックだが……この状況じゃ無理だ。力技で吸収器官をぶっ壊すしか――だが強欲の権能は枢機卿の時と同じ物理無効、聖属性が必要か、いや今は傲慢と混じっている......考えがまとまらねぇ)
「――パパ」
俺がゲーマーとしての知識を総動員して打開策を思考していると、背後から小さな手が俺の服の裾を引いた。
振り返ると、銀色の髪を揺らしたフィオナが、俺を見上げていた。
「おい、フィオナ。ここは危ねェ。お前も先生達の後ろに下がってろ」
俺は眉をひそめるが、彼女の虚ろな瞳は、かつてのようなどこか不安定で怯えたものではなかった。キメラが展開する巨大な吸収魔法陣を冷たく見据え、静かに、だが確かな意志を持って口を開く。
「……私、できるよ。あのバケモノの吸収、逆に利用して……全部『死』に反転させられる」
「……は?」
俺は思わず目を見開いた。
原作の彼女は、強大すぎる『水精霊』と『死霊術師』の二つの血が反発し合い、魔力を制御できずに全てを絶対零度の氷に変えてしまう『不器用なトラウマメーカー』だったはずだ。そんな、相反する属性を完璧に制御するような高度な複合魔法など、できるわけが――。
だが、俺の顔を真っ直ぐに見上げるフィオナの表情には、一抹の不安もなかった。
絶対的な信頼を寄せるヴェルトの背中を守るという、確固たる決意だけがあった。心の支えを手に入れたことで精神が完全に安定した彼女は、すでに原作の悲劇のヒロインという枠組みを、とうの昔に超えていたのだ。
(……なるほどな。俺がぶっ壊した原作の歴史は、ちゃんと良い方向にも転がってるってことか)
俺は小さく息を吐き、悪びれる様子もなくニヤリと笑って、フィオナの頭をポンと撫でた。
「上等だ。俺は、あの上で悲劇のヒロインぶってイキってるクソババア(メルフィ)の顔面が、想定外の事態に恐怖で引き攣るのが見たい。……やれ、フィオナ。テメェの本当の力、見せてみろ。うまくできたら旨いアイスをくれてやる」
「……ん。パパの言う通りにする。パパの敵は、全部、凍りつけばいい」
フィオナが一歩前に出て、両手をかざす。
本来なら「生者の魔力」を奪うはずのキメラの触手。だが、死霊術と水精霊の極致に至り、精神の安定を得たフィオナが闘技場全域に展開したのは、圧倒的な『死の瘴気』を極限まで濃縮した、どす黒い『黒氷』だった。
キメラが触手を伸ばし、周囲の魔力ごとフィオナの放った魔力を吸い上げる。
だが次の瞬間。
『!?……ギ、ギャ、ギャアアアァァァッ!?』
キメラの巨大な肉塊が激しく痙攣し、絶叫を上げた。
触手を通して吸い込んだフィオナの『死の魔力』が、キメラの体内で猛烈な拒絶反応を引き起こしたのだ。生命力を奪うはずの器官に純粋な『死』が逆流し、細胞が急速に壊死していく。強欲の核と結びついた全身から黒い血を吹き出し、キメラはのたうち回った。
強欲の「奪う」という絶対的な性質が、希代の死霊術師の機転によって、初めて裏目に出た瞬間だった。
「よし、よくやった」
俺は首をゴキリと鳴らし、吸収ギミックを完全に封じられて硬直したキメラ――アレクの巨大な肉塊に向けて、純粋な殺意を込めた右拳を構えた。魔法も、権威も、神の力も、今は関係ない。必要なのは、このふざけた盤面を根底からひっくり返すだけの、圧倒的な暴力だけだ。
「テメェの中に巣食ってるその強欲、俺が純度一〇〇パーセントの暴力でブチ抜いてやる」




