102.魔人の証明
俺は首をゴキリと鳴らし、目の前で禍々しい蒼き瘴気を垂れ流すアレクを見て、呆れたように鼻を鳴らした。
「随分とグレちまったな。教会のお仕着せが嫌になって家出か?」
俺は剣の柄に手をかけ、薄く笑って煽り立てた。
「どうした、勇者サマ?お前が喚いてた、正義だの平和だのっていう綺麗事はどうした」
その言葉を聞いた瞬間。
アレクはピタリと動きを止め、その口角を、ひどく歪で、凶悪な形へと吊り上げた。
「……勇者か」
アレクが、ゆっくりと右手を掲げる。
その掌に、周囲の空間が歪むほどの圧倒的な質量を持った『蒼い魔力』が、ブラックホールのように圧縮されていく。
「過去の軟弱な俺は死んだ。……勇者ってのは、こんなこともできるのか?」
アレクが無造作に腕を振り抜いた。
放たれた巨大な蒼い閃光は、俺を狙ったものではなかった。
闘技場をすり鉢状に囲む、何万もの一般市民や各国の重鎮がひしめく観客席。
突然の魔人の乱入に出口へと殺到し、逃げ惑っていた群衆のど真ん中へ向けて、なんの躊躇いもなく極大の魔弾が放たれたのだ。
「え……?」
待機エリアにいたニーナの、間抜けな声が響いた直後。
ズドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!
天を焦がす爆音。
王立学園が誇る闘技場の強固な防護結界など、薄紙のように消し飛んだ。
観客席の巨大な一区画が、一瞬にして蒼炎に飲み込まれ、文字通り蒸発する。
「ぎゃあああああっ!」「たすけ……ッ、熱い、熱ぃぃッ!!」
逃げ惑っていた数百の命が、砕け散った瓦礫と血飛沫と共に空へ舞い上がった。
石造りの観客席がドロドロに溶け落ち、焼け焦げた肉の臭いと、重なり合う断末魔の絶叫が闘技場に充満する。
それは、疑いようのない無慈悲な『大虐殺』だった。
「……ああ、なんて美しく、絶対的な力なのでしょう」
その阿鼻叫喚の地獄の只中で、アレクの斜め後ろに影のように付き従っていたセレスティアだけが、熱に浮かされたような恍惚の吐息を漏らしていた。
かつて教会の暗部として彼を「監視」し、「管理」しようとしていた冷徹な少女の面影はない。極北の地でアレクの圧倒的な絶望に触れ、魂の底まで恐怖と畏敬で書き換えられた彼女の瞳には、今や歪な狂信の光だけが宿っている。
(燃え盛る命。絶望の悲鳴。……すべては、アレク様が新たなる世界の神として君臨するための祝砲に過ぎないわ。さあ、御覧なさい局長。貴女が作り上げた箱庭のおもちゃは……貴女の手すら届かない、真の魔神へと羽化されたのです)
セレスティアは、血と灰が舞う闘技場の空気を甘露のように吸い込み、ただ己の主の偉大さに身を震わせていた。
◆
「父上、母上! 伏せてくだされッ!!」
闘技場の最上部に位置するロイヤルボックス。
爆炎と暴風が襲い来る寸前、第一王子のマクシミリアンが巨大な大剣を抜き放ち、両親の前に盾となって立ち塞がった。
「『絶対零度の氷壁』!!」
同時に、第二王女シルヴィアが持てる限りの魔力を振り絞り、王族の席を覆い尽くすほどの極厚の氷壁を展開する。
だが、蒼炎の余波が氷壁に触れた瞬間、王宮筆頭魔術師すら凌駕する彼女の氷が、ジュゥゥッ!という音と共に一瞬で蒸発し始めた。
「嘘でしょ……!?威力を殺されたただの『余波』なのに、私の氷が防ぎきれないなんて……ッ!」
シルヴィアが青ざめ、滝のような汗を流しながら魔力を注ぎ足す。
その背後で、第三王女のシャルロットは、手にした扇子をミシミシと音を立てるほど強く握りしめていた。
「……これが、教会の作り上げた『希望』の末路ですの?なんておぞましい……」
扇子の奥の瞳に、激しい怒りと戦慄が混じる。
国王は、無惨に焼き尽くされた観客席と、絶叫が響き渡る自国の惨状を見下ろし、ギリッと唇を噛み破った。
「勇者に何があったかは分からんが……あれは畜生だ。もはや、人間の言葉が届く存在ではない……ッ」
一国の王として、国を守るための最悪の決断を下さねばならない。あの怪物は、ここにいる軍隊を総動員してでも討伐しなければならない『人類の敵』だ。
だが、その強大な力の前では、王家の近衛兵などただの薪にしかならないという残酷な現実が、彼らを絶望の淵に立たせていた。
◆
一方で、特等席に張られた何重もの特殊防御結界の中では。
「ああ……ッ!素晴らしい!素晴らしいですわァ!!」
異端審問局長メルフィ・アンスバッハが、両頬を押さえて恍惚と身をよじらせていた。
下界でセレスティアが自分に優越感を抱いていることなど露知らず、彼女はただ純粋な「加虐の快楽」に酔いしれている。
「これです、これこそが私が求めていた極上の絶望 自分が守るべきだった民を、自らの手で灰に変える……。あんなに清廉潔白だった魂が、泥のように濁り、傲慢に染まりきって……!これ以上の喜劇が、この世にありまして!?」
彼女の異常な高揚は止まらない。
自分が手塩にかけて作り上げた「おもちゃ」が、これ以上ないほど美しく壊れてくれた。悲鳴が、絶望が、最高の甘露となって彼女の脳髄を満たしていく。
「さあ、見せてくださいな!魔へと至った勇者様と、理不尽の権化たる悪徳領主様!どちらが真の『怪物』なのか、この特等席で最後まで楽しませていただきますわ♡」
◆
「あ……あぁ……」
待機エリアにいたニーナが、その光景を見てその場に崩れ落ちた。
かつて、誰よりも優しく、理不尽を憎み、世界を救うと誓った幼馴染。彼が、何の罪もない人々を、ただのデモンストレーションとして虫ケラのように消し飛ばしたのだ。
「アレ、ク……?なんで……そんな……」
信じたくない現実を前に、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。
だがアレクは、燃え盛る観客席と死体の山を一瞥すらせず、冷酷に言い放った。
「……爽快な気分だ。俺は世界を平伏させる。幼馴染のよしみだ、ニーナ。お前は見逃してやる」
悲鳴と絶望が闘技場を完全に支配する中、アレクの青白い瞳が再び俺を捉える。
「……さあ、次はテメェの番だ。悪徳領主」
その地獄のような光景を前に。
俺は――下を向き、前髪を乱暴に掻き乱していた。
「……おい」
低く、地を這うような声が漏れる。
先ほどまでの退屈そうな色も、ふてぶてしい余裕も、そこには微塵もない。
「テメェ、今……何をしたか分かってんのか」
「ゴミを掃除しただけだ。それがどうかしたか?」
俺が、ゆっくりと顔を上げる。
その双眸に宿っていたのは、純度100パーセントの、ドス黒い殺意の塊だった。
「……俺はな、テメェみたいな奴が一番嫌いなんだよ」
俺は腰の剣を抜き放ち、切っ先をアレクの眉間にピタリと合わせた。
「ここは俺の領地じゃねぇが、俺が出場してる大会だ。わざわざ金払って俺の試合を見に来た『俺の客』だ。……俺のシマで、俺の所有物に勝手に手を出して暴れて……タダで帰れると思うなよ、ド三流が」
ギリッ、と俺の足元の石畳が、踏み込む力だけでクモの巣状に砕け散る。
「泣くのは後だ、ニーナ!クリス、アリシア!観客の避難と救護をしろ!被害をこれ以上広げるな!」
「わ、わかったわ!結界班、生存者の保護を優先して!」「任せてくださいませ!光よ、癒やしの手を!」
背後でクリスたちが慌ただしく動き出すのを確認し、俺は拳を強く、血が滲むほどに握りしめてアレクを睨み据えた。
「テメェのそのひん曲がった傲慢……俺が粉々にへし折ってやる!!」
ドォォォォンッ!!
俺の体が弾けた。音を置き去りにした神速の突進。
かつての勇者は死に、魔人が誕生した。
観客の血を吸って燃え盛る蒼炎の闘技場で、二つの規格外の激突が、今度こそ本物の死闘として火蓋を切った。




