101.王都を消し飛ばす蒼き絶望
極北の大地と、教会の総本山がある南の大陸。
本来であれば、船や馬を乗り継いでも数ヶ月はかかる絶望的な距離だ。
だが、かつての英雄であり、今は『傲慢』の魔神の心臓を取り込み、限りなく魔神に近い『魔人』として覚醒したアレクは、極北を出立してからたった数日で王都の門前に立っていた。
『南のゴミ溜めに直行すんなら、この古代遺跡の『転移門』を使いな』
数日前。極北を統べる「北の勇者」ルクェルは、自身を圧倒的な力でねじ伏せたアレクに対し、氷に閉ざされた地下遺跡へと案内していた。
高度な魔導工学の武装に身を包んだルクェルは、あの死闘の末にアレクの規格外の絶望に完全に屈服している……かのように見えた。
『俺たち北のモンは、南の腐りきった『邪教徒』どもをブッ殺すために、数百年前からこの極秘ルートを隠し持ってたんだ。アンタの命令通り、戦士団と魔導兵器の転送準備もすぐ終わるぜェ』
『……ああ。俺が先に行き、盤上を掃除しておく。お前たちは後から続いて、王都を包囲しろ』
『へっ。了解だ。派手に行こうぜェ』
ルクェルは血の気の多い笑みを浮かべ、自身の新たな「ボス」と、その後ろに影のように付き従う狂信的な瞳の女――セレスティアの背中を見送った。
――そして、二人の姿が転移門の光に飲み込まれ、完全に消失した直後。
ルクェルの顔から、先ほどまでの「忠実な配下」の笑みがスッと消え去り、冷ややかな、そして心底忌々しげな表情へと変わった。
「……おい。この門、今すぐ破壊しろ」
「えっ!?ル、ルクェル様!?いいんですか!?」
部下たちが慌てて聞き返す。数百年前から隠し持っていた、南を攻め落とすための極秘の戦略拠点である。それを自ら壊すなど、正気の沙汰ではない。
「いいに決まってんだろォが。……あんなバケモンと一緒にいたら、命がいくつあっても足りゃしねェ」
ルクェルはギリッと奥歯を噛み締め、すでに光を失った転移門を睨みつけた。
「南の邪教徒のガキと、そのイカれた狂信者のアマめ。俺たちを力で屈服させたつもりだろうが、従ったフリをして南に厄介払いできて正解だったぜェ。……俺の『魔力感知』がビンビンに警鐘鳴らしてやがった。あいつにはなんか憑いてるなぁ。それも、とびきり『最悪』なモンがよ」
ルクェルの決断は早かった。勝てない相手には頭を垂れ、隙を見て盤上から追放する。それが、極寒の北の大地を生き抜くための、彼なりの強かさだった。
「さっさと爆破して、北の守りを固めろ!せいぜい南の連中ごと、あのバケモンが共倒れしてくれるのを祈ろうぜェ!」
◆
一方。そんなルクェルの生存戦略など知る由もないアレクとセレスティアは。
古代の転移門をくぐり、一瞬にして南の大陸――王都のすぐ側にある隠し砦へと転移を果たしていた。
そして今。
王都の南端にそびえ立つ、高さ三十メートルを超える巨大な正門。
数百年にわたり、いかなる外敵の侵入も許さなかったその堅牢な城壁の前に、五百名を超える重武装の騎士たちが防衛陣形を敷いていた。
王家直属の『近衛騎士団』、そして教会の総本山から派遣された『聖騎士団』の合同部隊。普段はここまで厳重な警備が敷かれているわけではないが、現在は『世界合同武術大会』の開催中であり、各国の重鎮が王都に集結している。そのため、転移門の異常な魔力起動を察知した運営側が過剰に警戒し、急遽、人類最強クラスの戦力をこの場に集結させたのだ。
そこへ、王都近郊に隠されていた転移門から歩みを進めてきた二人の影が、ゆっくりと正門へと近づいてきた。
「……おい、見ろ。あの方の御髪と、あの聖剣。まさか……」
「勇者アレク様か!?行方不明になられていた勇者様が、お戻りになられたぞ!」
最初、騎士たちの間に広がったのは安堵と歓喜のどよめきだった。
大会の裏でひそかに囁かれていた「勇者の失踪」。その世界の希望が、自らの足で王都へ帰還したのだ。何人かの騎士が門を開け、歓喜の声を上げて出迎えようと陣形を解きかけた、その時だった。
「待て……!近づくのをやめろ!陣形を崩すなッ!」
聖騎士団の団長が、血相を変えて怒鳴り声を上げた。
その声の異常な切迫感に、騎士たちは弾かれたように足を止め、改めて前方から歩いてくる「男」を凝視した。
――異様だった。
極北から飛来したアレクの姿は、彼らの知る「希望に満ちた勇者」のものとは完全にかけ離れていた。
光を失った、深淵のような蒼の瞳。腰に帯びたはずの聖剣からは、まるで呪いのように青白い瘴気が漏れ出している。背後に影のように付き従うセレスティアの瞳も、かつての冷静な暗部のそれではなく、異様な狂信に濁りきっていた。
そして何より、アレクの胸の奥底からは、ドクン、ドクンと、世界そのものを平伏させるような『傲慢』の魔力が脈打っていたのだ。
「あ、あれは本当に勇者様なのか……?あれではまるで、魔王ではないか……ッ」「と、止まれ!それ以上王都に近づくことは許さん!武器を捨て、直ちに教会の調査を受けよッ!!」
歓迎のムードは一瞬にして凍りついた。
団長の号令と共に、五百の騎士たちが恐怖に顔を引きつらせながら一斉に武器を構え、何重もの神聖防壁を展開する。
だが、アレクは立ち止まらなかった。
「……調査、だと?」
アレクが、腰の剣に手をかけることもなく、ただ冷たい視線を騎士団に向けた。
『……ククッ、傑作だなァ。どこぞの飼い犬どもが、我らを値踏みしてやがるぜ。教えてやれよアレク、誰に向かって吠えてるのかってな』
胸の奥底で脈打つ『傲慢』の魔神の俗っぽい嘲笑が、アレクの冷酷な意志と完全に重なり合う。
「俺を……誰だと思っている。教会の犬どもが」
――ギチッ。
空間が、凍りついたような音を立てた。
「な、がっ……!?」「あ、あぁぁ……っ、息が……ッ!」
アレクの体から放たれた『魔人の覇気』。
ただそれだけで、最前列にいた百人近い騎士たちが白目を剥いて泡を吹き、次々とその場に崩れ落ちた。鍛え上げられた精神も、神への信仰も、圧倒的な「死の気配」の前には紙屑同然だった。
「ひぃっ!ひるむな!アレは勇者ではない!!悪魔、いや魔物である!聖なる炎で焼き尽くせぇぇっ!!」
残された騎士たちが恐慌状態に陥りながら、一斉に最上位の攻撃魔法を放つ。
無数の光の槍と炎が、アレクへと降り注ぐ。
だが、アレクは歩みを止めない。
彼は無造作に右手を前に出し、指先でパチン、と乾いた音を鳴らした。
「――灰になれ」
ゴォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!
アレクの足元の影が爆発的に膨れ上がり、地獄の底から這い出たような『蒼炎』の津波となって前方へ放たれた。
「あ、あああぁぁぁぁっ!?」
それは、文字通りの蹂躙だった。
騎士たちの放った魔法など、蒼炎に触れた瞬間に蒸発した。そして、五百人のエリート騎士と彼らが展開した神聖防壁ごと、蒼炎はいとも容易くすべてを飲み込み、燃えカス一つ残さずに消し飛ばした。
蒼炎の勢いは止まらない。そのまま王都の誇る巨大な正門と城壁に激突し――。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
大地を揺るがす轟音と共に、難攻不落の城壁が、まるで飴細工のようにドロドロに溶け落ち、王都への巨大な「風穴」が開いた。
「……邪魔だ。俺は、あの男に用がある」
アレクは、黒煙を上げる王都の残骸を踏み越え、ゆっくりと歩みを進めた。
その視線の先にあるのは、王都の中心に位置する『大闘技場』だった。
◆
同じ頃。大闘技場では。
「さ、さあ、第四回戦……。わ、王立魔法学園、ヴェルト・フォン・アークライト……VS……帝國軍事魔導院……次鋒……ッ!」
特級審判のアステリアが、今にも泣き出しそうな声で、次の試合の開始を宣言しようとしていた。
観客席は、ヴェルトが次にどんな「理不尽な魔法」を見せるのかと、恐怖と期待が入り交じった異様な静寂に包まれている。
「あー、ちょっと待て。特級エリート」
闘技場の中央で、俺は大きな欠伸をしながらアステリアを止めた。
「ちょっと疲れた。五分だけ待ってくれ。……おいフィオナ、クーラーボックス。ちょっと冷気が足りねぇぞ」
「……ん。パパ、お疲れ。ひんやりポーション、かける」
「あぁ、そこだ。極楽極楽……」
俺はゴロンと横になった。
「なっ……!し、試合中にそんな横暴……ッ!」
「あ?」
「ひぃッ!ど、どうぞ!ごゆっくりおくつろぎくださいませぇっ!」
俺が少し睨むと、アステリアは悲鳴を上げて直立不動になった。よしよし、話の分かるエリートは嫌いじゃないぜ。
心地よい冷気を感じながら、俺が目を閉じ、意識を手放しかけた――その時だった。
――ドドドドドォォォォォンッ!!!!!
遠く離れた王都の南側から、闘技場全体を大きく揺るがすほどの凄まじい爆発音と地鳴りが響き渡った。
「きゃああっ!?」「な、なんだ!?地震か!?」「おい見ろ!南の城門の方角から……黒い煙が上がってるぞ!」
観客席がパニックに陥る。
先ほどまで身内贔屓の歓喜に沸いていた、闘技場最上部のロイヤルボックスの空気も一変した。
「な、なんだあの禍々しい魔力は!?王都の防衛結界が、一瞬にして破られたというのか!」
「父上、母上たちをお守りしろ!近衛兵、前へ出いッ!何者か知らんが、このマクシミリアンが真っ二つにしてくれるわ!!」
国王が玉座から身を乗り出して驚愕し、第一王子のマクシミリアンが巨大な大剣を抜き放ち、王の前に立ち塞がって吠える。
「あり得ませんわ……!私の氷結魔法すら、近づく前に蒸発してしまいそうなほどの、このおぞましい気配……一体、何が来ているの!?」
「お姉さま、落ち着いて。……ただの襲撃ではありませんわね。ですが、私たちには『彼』がいますわ」
シルヴィアが顔を青ざめさせて冷気を練り上げる中、シャルロットだけは扇子を固く握りしめながらも、その視線を闘技場の中央に立つヴェルトへと向けていた。
そして、特等席にいたメルフィが、目を輝かせて立ち上がっていた。
「……まぁまぁまぁ。この禍々しい魔力の奔流。王都の防衛結界が、一瞬で消滅しましたわ……素晴らしいですわ!」
クリスやニーナも、顔色を変えて武器を構えている。
闘技場にいる全員が、凄まじい速度で迫り来る「死の気配」に震え上がっていた。
「…………」
俺は、ゆっくりと目を開けた。
起き上がり、首をゴキリと鳴らす。
全身から、先ほどのふざけた態度とはまったく違う、ドス黒い怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
闘技場の入り口の巨大な鉄門が、重々しい音を立てて吹き飛んだ。
土煙の中から、瘴気を纏ったアレクが、ゆっくりと姿を現す。
観客たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、闘技場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
『……ヒハッ、傑作だなァ。どいつもこいつも虫ケラみてェに逃げ惑う中で、一匹だけふてぶてしいツラして突っ立ってる野郎がいやがるぜ。アイツか?テメェが執着してる因縁の相手ってのはよォ』
胸の奥で下卑た笑い声を上げる魔神を無視し、アレクの瞳が、闘技場の中央に立つ俺を真っ直ぐに射抜く。
その背中には、禍々しい蒼き魔力の翼が展開されようとしていた。
「……帰ってきたぞ、ヴェルト」
世界を絶望に突き落とす魔人の降臨。
だが、俺にとってそんなことは、地球が丸いことと同じくらいどうでもいいことだった。
「このカスが。せっかくの気持ちいい昼寝を……こんなクソうるさい騒音で邪魔しやがって」
極められた『傲慢』の力を持つ堕ちた勇者と、ただ睡眠を妨害されてキレている悪徳領主。
交わるはずのない二つの規格外の視線が、闘技場の中央で激突した。




