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2020年代

1990年代編の別ルートから始まり2020年代編まで

猫の目が、まっすぐ修司を見ていた。

責めるでも、促すでもない、ただじっと。

その視線に、修司は不意に我に返る。

「――救急車!」

自分でも驚くほど大きな声が出た。

その一声で、周りの空気が変わる。それまで誰もがモニターに顔を向け、聞こえないふりを続けていた社員たちが、初めて振り返る。佐古が突っ伏したまま動かないことに、誰かがようやく気づく。

「え、佐古さん……!?」

「おい、大丈夫か!?」

「救急車、誰か呼んで!」

騒然とした声が広がっていく。誰かが電話に飛びつく。誰かが佐古の体を揺する。今まで固まっていた歯車が、修司の一声で、ようやく動き出したかのようだった。

靖子と光恵の混ざった姿は、いつの間にか消えていた。高橋の声も、地下の合唱も、聞こえなくなっている。

担架で運ばれていく佐古を、修司はただ見送る。

助けられた。

今度は、見捨てなかった。

その安堵が、胸の奥にじわりと広がりかけた、その時。

耳元で、囁きが聞こえた。

「私は、助けてくれなかったのに」

靖子の声だった。

振り返っても、誰もいない。ただ、その一言だけが、修司の胸の一番深いところに、静かに突き刺さっていた。

佐古を救えたことは、確かに救いだった。だが、それは過去に対する償いには、ならない。

靖子は、助からなかった。

その事実だけは、どれだけ今を変えても、決して変わらない。


救急隊員たちが佐古を担架に乗せ、慌ただしく運び出していく。オフィスに、久しぶりに現実的な喧騒が戻ってくる。誰かが上司に連絡し、誰かが佐古の荷物をまとめ、誰かが「過労だよな、絶対」と小声で囁き合っている。

修司はその光景を、少し離れた場所から眺めていた。

靖子の囁きは、まだ耳の奥に残っている。

――私は、助けてくれなかったのに。

その通りだった。反論のしようがない。修司は靖子を助けなかった。高橋も助けなかった。見て見ぬふりをして、ただ通り過ぎた。今回、佐古を助けられたことは、それらの罪を消してくれるわけではない。

だが。

ポケットの中の紅い本が、心なしか、先ほどまでより温度を落としているように感じた。

「よくやったな」

声がした。振り向くと、通路の暗がりに藤田が立っていた。腕を組み、担架が運ばれていく方を眺めている。

「……見てたんですか」

「見るのが仕事だ」

藤田は淡々と言う。

「一つ聞いていいか」

「……何を」

「お前は今、なぜ声を上げた」

修司は少し考えて、答える。

「分かりません。ただ……」

猫のことを思い出す。捨てただけで、殺してはいない猫。あの視線が、自分の中の何かを引き戻した気がした。うまく言葉にできない。

「ただ、もう一度、同じことを繰り返したくなかったんだと思います」

藤田は、しばらく黙っていた。それから、小さく頷く。

「その程度で十分だ」

「え」

「贖罪なんてものは、たいてい、その程度の小さな一歩の積み重ねでしかない。靖子を救えなかったことは消えない。高橋を見捨てたことも消えない。だが――」

藤田はポケットの手帳を軽く叩く。

「消えないまま、それでも一つ違う選択をする。それしか、人間にできることはない」

修司は何も言えなかった。

紅い本は、まだポケットの中にある。捨ててもいない。燃やしてもいない。ただ、そこにある。次にどんな声で囁いてくるのか、修司にはまだ分からない。

だが今は、少しだけ。

自分の足で、ここに立っていられる気がした。


ある日、2階の異臭が消えた。山崎たちがいた備品倉庫はIR室に変わっていた。そこにいた若い社員はすっとここにIR室はあったという。備品管理簿のある部分がごっそり消えてる気はしたが誰も気にしない。そんな中、新入社員の陽子はこんな話をしてくれた、この会社の都市伝説、美品になった社員は古くなると廃棄される。そして世界から要らないとされた者たちの安息の場、墓場シリーズの怪異に飲み込まれ穏やかな最期を迎えると。

怪異に飲み込まれるのがハッピーエンドなのか、修司には理解できなかった。


安酒場の奥まった席。煙草の匂いが染みついたカウンターの隅で、藤田は先に座っていた。

その隣に、修司の知らない老人がいた。白髪、深い皺、だが目だけは鋭さを失っていない。

「こちら」

藤田が紹介する。

「昔、俺と同じ事件を追ってた人だ。もう退官しているが」

老人は軽く頭を下げる。

「本、持ってきたか」

前置きもなく、そう聞かれた。修司はポケットから、紅い本を取り出す。テーブルに置くと、それだけで空気が変わった気がした。

老人がじっと本を見つめる。

長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。

「同じだ」

「……同じ、というと」

「俺の部下が、これと同じものを燃やしたのを見たことがある」

老人はグラスを傾ける。

「もう三十年以上前の話だ」

そして、語り始めた。

ある極左革命集団のリーダーが、この本を使って人を集めていたという。「造反有理」の思想に絶望を持つ若者たちを引き寄せ、組織を膨れ上がらせた。だが最後には、リーダー自身がその本に呑まれ、粛清という名のもとにメンバー全員を手にかけ、そして――

「一塊の化け物になった」

老人は静かに言う。

「俺の部下が、その現場を見た。人間だったものが、いくつもの顔を持つ、赤黒い塊になっているのを」

修司の背筋が凍る。

「その部下は……」

「燃やした。今のお前と同じようにな」

老人はグラスを置く。

「だが、燃やしても、また現れる。何十年、何百年経っても、な」

藤田が横から静かに口を挟む。

「だから、俺たちにできるのは見届けることだけだ。消すことじゃない。消せるものじゃない」

修司は紅い本を見つめる。テーブルの上で、それはまだ小さく脈打っている。

「じゃあ、俺は……これを、どうすれば」

老人は、修司の目をまっすぐ見た。

「お前が決めることだ」

「ただし」

彼は付け加える。

「一つだけ覚えておけ。この本が本当に求めているのは、革命でも、資材でも、墓所でもない」

「……何なんですか」

老人は、グラスの中の酒を、ゆっくりと揺らした。

「歌う声だ。誰でもいい、絶望した人間の声。それさえ手に入れば、この本は満足する」

その言葉が、修司の胸の奥にある、まだ塞がりきっていないひびに、静かに染み込んでいった。


「日本は貧しくなった。」

誰かがそう叫んだ瞬間、空気が重く淀んだ。オフィスの蛍光灯がチカチカと瞬き、誰もが視線を逸らす。

「何を今更……」という溜息が、まるで合唱のように連鎖する。

そして、どこからか、幼稚園児のような甘ったるいメロディーが漏れ聞こえてきた。

グビグビクビ♪ 正社員でも派遣でも 日本人は腐るほど余ってる♪

いらない日本人を 移民に替えりゃ 会社は安泰~♪

下品で、刺激的で、でもどこか中毒性のあるリズム。

誰も笑わない。誰も怒らない。ただ、肩を落とした中年サラリーマンが、ぼそりと口ずさんだ。

クビクビクビ♪

すると、次第に波紋が広がるように、フロア全体が小さく歌い始めた。

派遣の若い女の子、窓際のベテラン、経理のオバサンまで。

声は徐々に大きくなり、嘲笑うような電子音が天井のスピーカーから流れ出す。

それは社内放送か? それとも……もう「システム」が勝手に流しているのか。

クビクビクビ♪ 安い労働力 無限に湧く♪

日本人なんて もう古い♪ グローバル時代だよ~♪

一人の男が立ち上がった。

30年勤めた「窓際」の男佐伯。

彼はゆっくりと首を傾け、虚ろな目で同僚たちを見回した。

「……これが、紅雨の始まりか。」

彼の首筋に、薄い赤い雨のような筋が浮かび上がる。

誰も気づかない。

誰も、気づきたくない。

歌はさらに加速する。

クビクビクビクビクビクビ♪

余剰日本人 再利用♪

ギグワーカーに 変換して 資本主義に 捧げよう♪

外の空は、既に薄赤く染まっていた。


歌が引き起こしたかのように大地が揺れる。

南海トラフ地震だ、誰かの叫び声。津波が大阪の街をのみ込む。そして街に歌声が広まっていく。クビクビクビ、地震が来ても出勤しなきゃ移民に仕事が取られるよ♪


震災から数日後、余震が続く大阪の街。

老人たちが集まっていた。

子どもがさらわれているらしい。そんなうわさ。だが大人たちはあの歌を歌い廃虚になった職場へ出勤して帰ってこないらしい。

老人の一人、藤田は嘆息しながら呟いた。

紅い本はまだこの国から消えていないのか。


目の前を警察官が通る。彼も歌っていた

クビクビクビ♪移民を逮捕すると怖いセンセイたちに吊るされる♪


噂を追って、佐伯は影を追った。

半壊した街の路地裏。瓦礫の隙間。人影は掴めそうで掴めない。だが、確かに何かが子供を連れ去っている――そんな噂が、歌に埋もれかけた街のあちこちで囁かれていた。

誰も本気で取り合わない。

警察も、行政も、もう機能していない。誰もが「クビクビクビ」と口ずさみながら、決められた作業だけを緩慢にこなし、それ以外の全てから目を逸らしている。

その影を追ううち、佐伯は古い倉庫の前で、思わぬ人物と再会した。

「――藤田さん?」

そこにいたのは、白髪も皺も深くなった、だが目だけは昔と変わらぬ鋭さを保った老人だった。

「久しぶりだな、佐伯」

藤田は短くそう言うと、倉庫の中を振り返る。そこには、同じく老いた男たちが数人、黙々と作業をしていた。

骨董品の日本刀を研ぐ者。槍の穂先を確かめる者。猟銃の手入れをする者。弓に矢をつがえる者。そして、鉄板を溶接して装甲を施した、古いトラック。

誰もが真剣な顔をしていた。この崩れかけた社会の中で、まだ何かを守ろうとする顔を。

「これは……」

「見ての通りだ」

藤田は工具を置き、佐伯に向き直る。

「子供がさらわれてる。誰も助けようとしない。だから、俺たちがやる」

「でも、これは……」

「法律違反だ」

藤田は先回りして言う。

「平時に戻れば、俺たちは捕まる。銃刀法、その他諸々。分かってる」

彼は倉庫の仲間たちを見渡す。誰も手を止めない。誰もが覚悟を決めた顔をしている。

「だが、責任は俺が取る」

藤田は佐伯の肩に手を置いた。年老いてなお、その手には力があった。

「お前らは、俺に脅されたとでも言え」

その言葉に、倉庫の空気が一段、引き締まる。

佐伯は、かつて自分に「捨てろ」と忠告した藤田の姿を思い出す。あの時の藤田は、見届けることしかできない立場だと言っていた。

だが今、目の前にいる藤田は、違う。

「藤田さん、あなたは……」

「見届けるだけの役目は、もう終わりだ」

藤田はそう言って、古い猟銃を手に取る。

「歌わない人間が、まだここにいる。それを証明する番だ」

佐伯の胸の奥、あの塞がりきらないひびが、久しぶりに、罪悪感とは違う熱を持って疼いた。

「俺も、行きます」

その一言に、藤田は初めて小さく笑った。

「――なら、得物を選べ。何が使える」


大阪港の埠頭、目立たない一角に停泊した貨物船。

陳化成は、甲板からその街を眺めていた。

いまだ黒煙が幾筋も立ち上る大阪。地震か、噴火か、あるいはもっと別の何かか――理由はどうでもよかった。ただ、この街の機能が完全に止まっていることだけが、彼にとって意味を持っていた。

「ジェシカの言うとおりか」

陳は独り言ちる。誰に向けたものでもない呟きだった。

警察もいない。行政もいない。誰もが「クビクビクビ」と歌いながら、目の前の仕事以外の何も見ようとしない。子供が一人二人消えたところで、誰も気づかない。誰も探そうとしない。

「いい狩場じゃねえか」

陳は懐に手を入れる。そこには、古びた一体の人形があった。

「お前を拾ってから、俺の運は尽きまくりだぜ、チハル」

そう言いながらも、その手つきはどこか丁寧だった。まるで、幸運のお守りを扱うように。

だが、その光景を、もし本当に「見る目」を持つ者が見たなら――違うものが映っただろう。

陳の体には、幾重にも怨念の澱がびっしりと張り付いていた。長年重ねてきた悪行の分だけ、濃く、重く、蠢くように。それは本来、彼自身を内側から食い破っていてもおかしくないほどの量だった。

それを、押しとどめているものがある。

人形の姿をした、一人の少女。

チハルは、陳の懐で、静かにその怨念の奔流を堰き止め続けていた。何のために、どんな意志でそうしているのかは、陳自身にも分からない。ただ、彼女がいる限り、陳はまだ「人間の形」を保っていられる。

黒煙の向こうに、夕陽が沈んでいく。血のような色に。

陳は目を細め、埠頭の闇の奥へと歩き出した。

新しい獲物を探しに。


夜が更けた埠頭に、藤田たちは音も立てず近づいていった。

鉄板を溶接したトラックのライトは消してある。刀を帯びた者、槍を担いだ者、猟銃を構える者。老いた体には重い装備のはずだったが、誰の足取りにも迷いはなかった。

藤田は修司に自分の子供のことを話す。もう自立して長年話をしてないがと。

佐伯は、その列の後ろで弓を握っていた。学生時代、部活でほんの数年やっただけの、ろくに使いこなせているとも言えない弓だった。それでも、この手にあるのは、久しぶりに「自分の意志で選んだ得物」だった。

貨物船の甲板で、見張りに立っていた男たちが振り返る。

その顔は、みな一様に虚ろだった。目の焦点が合わず、口元だけが「クビクビ」と小さく動き続けている。彼らもまた、あの歌に呑まれた者たちだった。

だが、藤田たちを見た瞬間、その虚ろな表情に、初めて驚きが走った。

「――は?」

まさか。

この崩壊しきった世界で、まだ歌に呑まれていない人間が、しかも武器を持って向かってくるとは、誰も想定していなかった。誰もが「クビクビ」を歌う木偶と化した社会の中で、抵抗する意志を保った者などいるはずがない――そういう前提の上で、陳たちはこの狩場を選んでいたのだ。

その油断が、致命的な隙になった。

藤田の号令とともに、老人たちが一斉に動く。刀が閃き、槍が突き出され、猟銃の発砲音が夜の埠頭に響き渡る。虚ろな見張りたちは、抵抗もままならずに次々と倒れていく。

佐伯も矢をつがえる。狙いは甘い。手も震えている。それでも、放つ。

「――ッ!」

その時だった。

視界の端に、靖子の姿が見えた。

猫を抱いたまま、こちらをじっと見ている。もう責める色も、悲しむ色もない。ただ、まっすぐに何かを指し示していた。

その指の先には、乱闘の中心近く、陳の懐から零れ落ちた、小さな人形があった。

「――助けてあげて」

靖子の声が、佐伯の耳に、はっきりと届く。

「あの子を」

佐伯は目を凝らす。ただの人形にしか見えない。だが、靖子がこれほどまっすぐに何かを求めるのを、彼は今まで見たことがなかった。

弓を握る手に、力がこもる。

矢の狙いを、乱闘の中心――人形が落ちた場所へと、静かに変えた。


佐伯は矢を放った。

狙いは陳の懐、乱闘の混乱で零れ落ちたチハルの人形。矢は僅かに逸れながらも、人形のすぐ脇の地面に突き刺さり、陳の腕を掠める。

「――ッ!?」

陳の反応は速かった。だが、その一瞬の隙が全てだった。

老人の一人が、槍の柄で陳の腕を強く打ち据える。人形が、彼の懐から完全にこぼれ落ちた。

「チハル!」

陳が叫ぶ。今までの余裕は、跡形もなく消えていた。

佐伯は駆け出す。倒れた人形へ向かって。周りで刃と槍が交錯する音、猟銃の轟音、老人たちの気合いの声。その全てを掻き分けて、佐伯は人形を拾い上げた。

その瞬間だった。

陳の体が、大きく痙攣した。

「あ……あああああ……!?」

彼の全身から、黒い澱のようなものが一斉に噴き出す。長年積み重ねてきた怨念――今までチハルが辛うじて押しとどめていたそれが、堰を切ったように溢れ出していた。

「な、なんだこりゃ……」

「陳の様子が……」

見張りの木偶たちすら、異変に気づいて後ずさる。

黒い澱は、渦を巻きながら陳自身の体に纏わりつき、皮膚の下から食い破るように盛り上がっていく。彼の悲鳴は、もはや人間の声とは思えない音域まで裏返っていた。

「が――あああ、や、やめ――」

助けを求める声すら、途中で歪んで消える。

佐伯は、腕の中の人形を強く抱きしめながら、その光景を見つめることしかできなかった。

――これで、良かったのか。

チハルを救い出したことで、陳は自滅した。子供たちをさらってきた悪人が滅びたことは、間違いなく正義だったはずだ。だが、その最期があまりに凄惨で、佐伯の胸の中に、単純な達成感は生まれてこなかった。

藤田が、佐伯の隣に立つ。

「見るな」

短く、そう言った。

「見なくていい」

だが佐伯は、目を逸らさなかった。これ以上「見て見ぬふり」をすることは、もう自分に許せなかった。

黒い澱の渦の中心で、陳だったものが、ゆっくりと崩れ落ちていく。声も、輪郭も、人間だった痕跡ごと、全てが溶けるように消えていった。

夜の埠頭に、静寂が戻る。

佐伯の腕の中で、人形――チハルが、ほんの微かに、身じろぎしたような気がした。


騒乱が収まった埠頭に、白々とした静けさが戻ってくる。

陳を吞み込んだ黒い澱は、悲鳴とともに崩れ落ち、やがて夜の闇に溶けるように消えていった。名うての人さらいの最期は、あまりに呆気なく、そしてあまりに凄惨だった。

主を失った部下たちは、統率を失い、次々と混乱の中で取り押さえられていく。老人たちの誰も、積極的に相手の命を奪おうとはしなかった。刀を振るい、槍を突き出したのは、あくまで拘束するため、あるいは自分たちが生き延びるためだった。

それでも、双方に犠牲は出た。

倉庫の一角で刀を握っていた男の一人が、既に息をしていなかった。老人仲間の誰かが、静かにその亡骸に上着を掛けている。

貨物船の奥、コンテナの中から、子供たちが見つかった。

怯えた顔、汚れた服、痩せこけた体。だが、誰もが生きていた。怪我をしている子も、熱で朦朧としている子もいたが、命を失った子は一人もいなかった。搬送――どこか別の場所へ売り渡すための準備は、まだ始まっていなかったのだ。

間に合った。

藤田は、その光景を見て、深く息を吐いた。安堵の息だった。だが、その表情は晴れやかにはならなかった。

「……間に合ったな」

「はい」

「だが」

藤田は、亡骸に上着を掛けた老人の背中を見やる。

「タダでは済まなかった」

その言葉に、佐伯も頷くしかなかった。子供たちを救えたことは、間違いなく成果だった。だが、それと引き換えに失われたものを、単純に「良かった」で片付けることは、佐伯にはできなかった。

夜明け前の埠頭に、静かな沈黙が降りる。

佐伯は、腕の中の人形を見下ろした。

チハル。

陳を自滅に追いやった原因は、この小さな人形だった。彼女が抑えていたものが解き放たれたことで、陳は自らの怨念に喰われた。救ったはずのものが、同時に一人の男を滅ぼす引き金にもなった。

藤田が、隣に来て、その人形をじっと見つめる。

「これは……」

「藤田さんも、知ってるものなんですか」

藤田は答えなかった。ただ、長い間、その小さな顔を見つめ続けていた。

その沈黙が、この人形がただの「お守り」でも「呪具」でもない、もっと複雑な何かであることを、佐伯に静かに物語っていた。


藤田は、人形の首元に縫い付けられたタグを指でつまむ。

「チハル 十二歳 沖縄産」

その文字を読んだ瞬間、藤田の顔が歪んだ。まるで、何かに触れてはいけないものに触れてしまったかのように。

そして、流れ込んできた。

記憶が。

親に、ギャンブルの種銭として売られた少女。人身売買の市場に並べられ、しかし買い手がつかず、売れ残った。それでも「商品」としての価値を絞り取ろうとしたのか、次はクレーンゲームの景品にされた。ガラスケースの中で、無数の手が伸びてきては掴み損ね、また伸びてくる。誰にも取られることのないまま、時間だけが過ぎていった。

そして、最後には。

魂を抜き取られ、人形の中に封じ込められた。

土産物として、店の棚に並べられた。だが、それすらも売れ残った。誰の目にも留まらず、埃を被り、やがて捨てられた。

――ゴミの山の中で、拾い上げてくれたのが、陳だった。

藤田の中に流れ込んでくる記憶は、そこで一度、色を変える。

怒りだった。

だが、それは陳への怒りではない。

陳を、奪われたことへの怒り。

「……なんだ、これは」

藤田は思わず声を漏らす。

チハルにとって、陳は彼女を最後に拾い上げてくれた唯一の存在だった。悪人であろうと、人さらいであろうと、彼女を「もう要らない」と切り捨てなかった、最後の一人だった。

そして今、その陳は、彼女自身が抑えていたものによって、自滅した。

救われたはずのチハルの中に渦巻いているのは、感謝でも安堵でもなく――喪失感だった。

佐伯は、その人形をそっと見つめる。

「……この子も」

彼は、静かに呟いた。

「売れ残った、代わりのきく存在、だったんですね」

平成不況期の職場で聞かされ続けた言葉が、思わぬ形で、この小さな人形の来歴と重なった。

「代わりはいくらでもいる」

その呪いは、会社の中だけの話ではなかった。人身売買の市場でも、土産物屋の棚の上でも、同じ言葉が、形を変えて繰り返されていたのだ。

藤田は、人形を静かに佐伯へ差し出す。

「お前が、持っておけ」

「……いいんですか」

「ああ」

藤田は、遠い目で埠頭の闇を見やる。

「この子には、まだ、行き場が必要そうだ」


クビクビの歌は、少しずつ、街から消えていった。

誰かが治療されたわけでも、誰かが救われたわけでもない。ただ、社会が最低限の機能を取り戻すにつれ、あの甘ったるいメロディは、まるで潮が引くように静かに退いていった。

そして、藤田のもとに警察が訪れた。

「逃げも隠れもせん」

藤田は静かにそう言うと、両手を差し出した。手錠がかけられる。銃刀法違反、私的制裁、その他諸々の罪状。だが藤田の表情には、後悔の色はなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。

「佐伯」

連行される直前、藤田は振り返って言った。

「お前は、あの子を守れ」

「藤田さん――」

「行け」

その一言を最後に、藤田はパトカーへと乗せられていった。

佐伯たちもまた、参考人として一時連行された。「藤田に脅された」という筋書きが、警察の間でも既に共有されていたらしい。取り調べは短く、形式的だった。誰も、佐伯を本気で罪に問おうとはしていなかった。数日のうちに、佐伯は釈放された。

チハルの人形は、佐伯のポケットの中で、じっと静かにしていた。

藤田の裁判が始まろうとする、その日。

空が、震えた。

窓ガラスがカタカタと鳴り、地の底から突き上げるような重低音が響き渡る。テレビの速報テロップが、慌ただしく画面を埋めていく。

――富士山、噴火。

裁判所へ向かう途中だった佐伯は、その一報を、遠く空にそびえる灰色の柱を見上げながら聞いた。

紅い雨は、まだ止んでいなかった。そして今、灰色の雲までもが、空を覆おうとしている。

――終わりが、また一つ、近づいている。

ポケットの中で、チハルの人形が、微かに震えた気がした。


噴火の灰が街を覆う中、世界はさらに軋み始めていた。

前政権が掲げていた「アジア共通の夢」――楽観的な地域協調構想は、いつの間にか日米安保の実質的な解体という形で結実していた。沖縄には、自衛隊だけが残されていた。

その隙を突くように。

「在留民保護」を掲げた中国軍が、沖縄へ侵攻を始めたというニュースが流れたのは、噴火からわずか数日後だった。

自衛隊は抵抗した。だが、その抵抗の意志を根本から砕くためだったのか――鹿児島に、核が落とされた。

戦後初の核攻撃。

テレビは、その一報を伝えるだけで精一杯だった。解説者たちの声は震え、コメンテーターたちは言葉を失っていた。「新型軍国主義を駆逐するため」という中国側の口実は、国際社会からの激しい制裁の前に、次第に勢いを失っていった。第二、第三の核攻撃は、幸いにも実行されなかった。

――だが、鹿児島は、既に失われていた。

そんな最悪の情勢の中、藤田のもとに、思いがけない話が届いた。

自衛隊高官からの要請だった。

仮出獄し、沖縄へ向かってほしい、と。

「藤田さん」

佐伯は、面会室でその話を聞いた時、思わず声を荒らげた。

「なんで、あなたが……もう歳なんですよ。裁判だって、途中じゃないですか」

藤田は、静かに笑った。老いてなお、あの時と変わらない、覚悟を決めた顔だった。

「なに」

彼は言う。

「わしらが戦うことで、若いものが一人でも生き残ればそれでいい」

「そんな……」

「佐伯」

藤田は、佐伯の目をまっすぐ見た。

「お前は、もう十分やった。秋田にわしの息子がいる、頼れば居場所くらい作れるだろう。あの子(チハル)を守れ。ここから先は、わしの役目だ」

その言葉には、もう迷いがなかった。裁判も、罪も、老いた体も、彼にとってはもう小さな問題でしかないようだった。

佐伯は、何も言えなかった。

面会室の窓の外、灰色の空に、遠く鹿児島の方角から立ち上る不吉な光が、まだ揺らめいているように見えた。


灰が降る沖縄。

空は昼なお薄暗く、砲声だけが絶え間なく島を震わせていた。

御嶽へ続く石段の前で、藤田たちは静かに身を伏せる。

双眼鏡を下ろした老人が、小さく呟いた。

「来る」

林の向こうから、一団が整然と歩いてくる。

軍服は泥に汚れている。

歩幅は完全に揃い、視線は一切ぶれない。

人間らしい無駄な動きが、まるでなかった。

胸部には小型ディスプレイが埋め込まれ、青白い文字が淡々と流れている。

氏名:***

罪状:寝そべり

処分:永久奉仕刑

別の兵士。

氏名:***

罪状:思想逸脱

処分:永久奉仕刑

さらに別の兵士。

氏名:***

罪状:反抗的言動

処分:永久奉仕刑

誰も表情を変えない。

ただ命令だけを実行する。

藤田は静かに息を吐いた。

「……人間を兵器にしたか」

老人たちは互いに視線を交わす。

若い隊員なら恐怖で固まっていたかもしれない。

しかし彼らは人生で幾度も、人間が機械のように働かされる姿を見てきた。

「右を見ない。」

「左も見ない。」

「命令以外を考えない。」

「なら、癖は同じだ。」

藤田が低く告げる。

「挟め。」

老人たちは散開した。

正面へ一人。

左右へ二人。

背後へ回る者。

兵士たちは正面の脅威に反応する。

その瞬間、側面が空く。

「今だ。」

短い号令。

連携は無駄がない。

数分後。

御嶽の前には静寂だけが残っていた。

老人たちは誰も歓声を上げない。

藤田は倒れた兵士の胸のディスプレイを見る。

そこにはまだ、

永久奉仕刑

の文字だけが光っていた。

「……終わったあとも、休ませてもらえんのか。」

誰に向けるでもない呟きだった。

老人の一人が御嶽へ目を向ける。

古い石積み。

風に揺れる木々。

祈りだけが残る場所。

藤田は帽子を取り、静かに頭を下げた。

「チハル。」

誰にも聞こえないほど小さな声だった。

「あの子の故郷にも……こんな場所があったのかもしれんな。」

返事はない。

ただ、御嶽を吹き抜ける風が、灰を静かに払い落とした。

藤田は帽子をかぶり直す。

「行くぞ。」

老人たちは再び武器を担ぎ、灰色の戦場へと歩き出す。

守れた場所は一つだけ。

だが、その一つを守るために戦ったことを、誰も後悔はしていなかった。


修司は北へ向かう列車の中夢を見た。

そこは車のスクラップが山のように積まれ、陽炎のような人たちが何かを探して彷徨い歩く場所。


そこに懐かしい顔を見た。山崎。

突然姿を消していたことさえなかったことにされた先輩社員。


山崎は修司をみると懐かしそうに笑いかけてくる。

ここは優しい墓所、時代遅れの不用備品として捨てられた俺が、備品ではなく壊れた人間として休むことができている場所。でもお前はここに来るような人間ではなくなったようだ。山崎は寂しく笑う。その身体にはもはや長期備品のテプラやバーコード、社員証もなく、ただのくたびれた会社員がそこにいた。そして、目を覚ましチハルを懐に入れさらに北を目指した。

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