1990年代
ai壁打ちで作り上げていきました。原案は自分です。
雨は降っていなかった。
だが、街は濡れていた。
バブル崩壊から数年。平成不況という言葉が新聞を埋め尽くし、就職情報誌には「採用凍結」「募集終了」の文字が並ぶ時代だった。
二十九歳の佐伯修司は、深夜一時を回ったオフィスビルから這い出るように駅へ向かっていた。
終電まであと七分。
ネクタイは緩み、ワイシャツの襟元は汗で変色している。
今日も課長に怒鳴られた。
「お前はやる気があるのか!」
「こんな資料も作れんのか!」
「代わりはいくらでもいるんだぞ!」
代わりはいくらでもいる。
それが当時の呪文だった。
事実でもあった。
会社を辞めれば次はない。
求人票には経験者優遇。
未経験歓迎と書いてあっても実際は若者優遇。
転職サイトなどまだ一般的ではなく、景気回復の兆しも見えない。
だから耐える。
胃薬を飲みながら。
睡眠時間を削りながら。
同期が一人消えた。
ある日から来なくなった。
誰も理由を聞かない。
聞けない。
翌週には机が片付けられていた。
また別の先輩は、突然会議中に笑い始めた。
誰も面白いことなど言っていない。
それなのに彼は腹を抱えて笑い続け、最後には机を叩きながら叫び出した。
そのまま救急車で運ばれていった。
翌日には何事もなかったかのように仕事が再開された。
修司は思った。
自分もあと少しだ。
胸の奥が締め付けられる。
息が浅い。
駅のホームに立つと、電車が入ってくる風圧だけで足がふらついた。
「ここで飛び込めば楽になる」
そんな考えが頭をよぎる。
慌てて目を閉じる。
違う。
まだだ。
まだ耐えられる。
耐えなければならない。
なぜなら――
辞めたら終わりだから。
その土曜日。
修司は当てもなく神保町の裏路地を歩いていた。
休みの日なのに会社のことばかり考えてしまう。
胃が痛い。
将来が見えない。
結婚も無理だろう。
家も買えない。
出世も期待できない。
なら何のために働いているのか。
答えは出ない。
古びた商店街の片隅に、小さな古本屋があった。
店名も読めないほど看板は色褪せている。
吸い寄せられるように中へ入った。
店内には客がいない。
紙と埃の匂い。
裸電球の黄色い光。
棚の奥。
政治思想や歴史書が雑然と積み上げられたコーナー。
そこで修司は一冊の本を見つけた。
妙だった。
周囲の本が色褪せている中で、その本だけが異様に鮮やかな紅色をしていた。
まるで昨日印刷されたばかりのように。
表紙には金文字。
タイトルはない。
ただ中央に大きく、
『造反有理』
と書かれていた。
その文字を見た瞬間。
胸の奥がざわりとした。
誰かが耳元で囁いた気がした。
いや、囁きではない。
もっと大勢の。
何万人もの。
何十万人もの。
叫び声。
歓声。
怒号。
熱狂。
そしてその中心から、一つの言葉だけが鮮明に浮かび上がる。
――造反有理。
修司は顔を上げた。
店内には誰もいない。
だが声は続く。
――革命無罪。
心臓が大きく脈打つ。
本の表紙が、ほんのわずかに脈動したように見えた。
血管のように。
生き物のように。
「なんだ……これ……」
指先が勝手に本へ伸びる。
触れた瞬間。
世界が紅く染まった。
そして彼は知らない。
この本が単なる思想書でも、呪いの書でもないことを。
それが、人間の絶望を燃料にして歴史の亡霊を呼び起こす、極めて危険な"革命の種"であることを。
まだ知らなかった。
世界が紅く染まった――そう思ったのは一瞬だった。
気が付けば修司は古本屋の中に立っていた。
いや、立っているはずだった。
足元の感覚が曖昧だ。
床があるのかないのか分からない。
本棚は霧の向こうへ溶け、裸電球の光だけがぼんやり浮かんでいる。
そして。
「よう」
声がした。
聞き覚えがあった。
ありすぎた。
修司はゆっくり振り向く。
そこにいたのは三年前に辞めた先輩だった。
高橋。
営業二課のエース。
誰よりも仕事ができて、誰よりも残業していた男。
ある日の会議中、突然笑い出した。
最初は皆、冗談だと思った。
だが笑いは止まらず、最後には机を叩きながら泣き笑いのような声をあげていた。
そのまま救急車。
精神科病棟。
退職。
それで終わった人間。
そのはずだった。
「久しぶりだな」
高橋は笑った。
だが昔とは違う。
頬はこけているのに、不思議と生気に満ちている。
何かに憑かれた人間のような。
あるいは。
何かになってしまった人間のような。
特に目。
目だけが異様だった。
爛々と輝いている。
焚き火の奥にある炭火のように。
赤く。
熱く。
危険なほどに。
「先輩……?」
「おう」
「なんで……」
「なんでだと思う?」
高橋は楽しそうに笑った。
修司は答えられない。
答えられるわけがない。
目の前にいるはずのない人間がいる。
それだけで頭がおかしくなりそうだった。
高橋は棚にもたれかかる。
その背後で何冊もの本が勝手にページをめくり始める。
ぱらぱらぱらぱら。
まるで拍手のように。
「お前、苦しいだろ」
「……」
「胃が痛い」
「……」
「眠れない」
「……」
「日曜の夜になると吐きそうになる」
修司の顔から血の気が引いた。
高橋は笑う。
全部知っている。
全部見てきたように。
「課長が嫌いか」
「……」
「会社が嫌いか」
「……」
「人生が嫌いか」
修司は拳を握った。
否定できなかった。
高橋は満足そうに頷く。
「そうだよな」
静かな声だった。
だがその静けさの奥には煮えたぎる何かがあった。
「俺もそうだった」
高橋は自分の胸を指差した。
「真面目にやった」
「頑張った」
「従った」
「耐えた」
「我慢した」
一歩近づく。
「結果どうなった?」
修司は答えない。
高橋が答える。
「壊れた」
その瞬間。
古本屋の壁が消えた。
周囲に現れたのは巨大なオフィスだった。
果てしなく続く机。
果てしなく続く蛍光灯。
無数のサラリーマン。
誰もが俯いている。
誰もが疲れ切っている。
誰もが何かを書いている。
そしてその首には。
鎖。
一本一本が会社の奥へ繋がっている。
修司は息を呑んだ。
「見えるか?」
高橋が言う。
「これがお前らだ」
サラリーマンたちは働き続ける。
働き続ける。
働き続ける。
指が擦り切れても。
目が潰れても。
胃が腐っても。
それでも働く。
その様子を見ているうちに、修司の胸の奥で何かが軋み始めた。
怒りだった。
今まで押し込めてきた怒り。
自分でも見ないようにしていた怒り。
高橋はそれを見逃さなかった。
「そうだ」
彼は笑う。
嬉しそうに。
楽しそうに。
まるで教師が優秀な生徒を褒めるように。
そしてゆっくりと告げた。
「お前もだ」
その言葉とともに、紅い本がひとりでに開く。
ページがめくれる。
めくれる。
めくれる。
そこに書かれている文字は読めない。
だが意味だけが直接頭へ流れ込んでくる。
服従。
忍耐。
自己犠牲。
献身。
責任。
常識。
社会人。
会社人。
そして――
否。
否。
否。
否。
否。
高橋が囁く。
「造反有理」
それは呪文だった。
あるいは祝福。
あるいは破滅。
修司の心の奥底で、長い間凍り付いていた何かがひび割れる音がした。
ぱきり、と。
小さな音だった。
だが、それは確かに聞こえた。
修司の耳に、歌が聞こえてきた。
クビクビクビ
正社員でも派遣でも
人は掃くほど余ってる
いらない人材さっと掃けば
会社は安泰♪
リズムが軽快すぎる。
まるで幼稚園児が歌うような、歪んだメロディ。
でも声は高橋のものではない。
無数の声が重なり合っている。
同僚の声、先輩の声、課長の声、そして自分の声まで。
クビクビクビ
リストラも希望退職も
我慢の限界さっと切れば
みんな幸せ♪
修司の視界が、再び赤く揺らぐ。
鎖につながれたサラリーマンたちの首が、
リズムに合わせてビクンビクンと痙攣し始めた。
首が、文字通り「クビ」になっている。
高橋が腹を抱えて笑う。
その笑い声も、歌に重なる。
「いいだろ? この歌。
俺が壊れたときに、頭の中でずっと流れていたんだ。
会社が俺たちに歌わせていた本当の社歌さ」
クビクビクビ
胃薬飲みながら耐えても
結局は消耗品
代わりはいくらでもいるから
さっさと捨てて新しいの♪
修司の胸のひびが、さらに大きく開く。
ぱきぱきぱき……
今や音が止まらない。
怒りが、
嘲りが、
そして奇妙な解放感が、
赤い雨のように降り注いでくる。
高橋が修司の肩を強く掴む。
指の感触が、熱い。
熱すぎて、肉が焦げるような錯覚を覚える。
「お前も、もう歌えるだろ?
一緒に歌おうぜ、修司。
造反有理——
この腐ったシステムを、
全部、
掃き捨ててやろう」
その瞬間、修司の喉が勝手に震えた。
クビ……クビ……
小さな、かすれた声で。
だが確かに、彼は歌い始めていた。
ふと気がつくと自室に立っていた。もう12時がくる。明日も早い寝なくては。
今日の出来事が頭の中をぐるぐる回る。
そうしてると修司は部屋の前にいた。
古ボケた金属製の厚いドア。見慣れたそのドアを開けなかにはいる。
大学時代に入り浸っていた懐かしい部室。
思わず涙が出てくる。
「何泣いてるんですか?先輩?」柔らかい声。その先には光恵がいた。
大学時代好きだった子。今は何をしてるか分からない切れた縁。
「先輩の書いたこの話面白いですよ」無邪気な称賛の声。そしてガヤガヤと話し声、懐かしいサークルのメンバー。廊下で焼き肉をするという。案の定となりのサークルの伊藤が血相変えて文句を言ってくるも、部員が缶ビールを渡して懐柔。
そんな懐かしい日々。
すると伊藤が近づいてきてこう言う
「佐伯よー、お前くすんで干されてその辺に転がってる萎びた塊みたいになってとうしんたんだよ」笑い声、でも嘲笑ではない。
居場所の親密な笑い声。
するといつの間にか、サークル棟が中学時代の校庭に変わる。
光恵の姿が別のものに変わる.
ジャージ姿の、同級生の少女靖子。
鈍臭い行動が馬鹿にされていた、でもその穏やかな笑顔が好きだった、でも周りがいじめてるのに巻き込まれたくなくて、見て見ぬふりをした、時には輪に加わった。
その時の悲しそうな顔。そして卒業前に死んだその子。抱えた猫は、小学生のころに飼えなくなって自転車で遠くに捨てた子猫。猫も修司をじっと見てる。
肩を叩く手。伊藤が見る間に高橋に、なっていく。
「人間ってさ、誰もが罪を重ねてる。だからって自分も誰かの罪になることはない」
高橋が靖子が「造反有理」と囁く。
「ねえ修司くん、どうして?」
靖子が繰り返す。
「ねえ修司くん、どうして?」
その声には、中学の教室で聞いた覚えのある幼さと、今の高橋が持つ焦げた熱がない交ぜになっている。修司は答えられない。答えを持っていない。
「どうして、見てただけだったの」
猫が靖子の腕の中で身をよじる。小さな声で鳴く。修司の記憶にある、あの日捨てた子猫と同じ鳴き声だった。自転車の荷台に押し込んで、河原まで運んで、置き去りにしたときの重みが、まだ手のひらに残っている気がした。
「先輩」
肩を掴む手に力がこもる。伊藤でも高橋でもある声。両方の輪郭が混ざり合って、もう誰の声か判別できない。
「お前も同じだよな」
「……」
「見て見ぬふりをした」
「……」
「巻き込まれたくなかった」
「……」
「自分だけは、安全でいたかった」
否定できない。修司の喉が乾く。中学の校庭の土の匂いが鼻をつく。運動靴の底に感じる砂利の感触。あの日、靖子がいじめられていた輪の外側で、視線を逸らし続けた自分の姿がありありと蘇る。
靖子の目から、涙ではなく何か黒い雫がこぼれ落ちる。地面に落ちる前に、それは赤く色を変える。
「修司くんも、いつか誰かにこう言われるんだよ」
「……」
「代わりはいくらでもいるって」
その瞬間、校庭の景色が音を立てて崩れる。土が波打ち、鉄棒が飴のように曲がり、空が紙のように破れて、その裂け目から紅い光が漏れ出す。
猫が跳ねて宙に消える。靖子の輪郭が薄れ、代わりに――紅い本を抱えた高橋だけが、その場に立っていた。
「よくできたな、修司」
高橋は満足そうに本を撫でる。表紙の血管のような模様が、脈打つように蠢く。
「お前の中の"罪"を、ちゃんと見つけられた」
「……なんのために」
修司の声は掠れている。
「なんのために、こんなことを見せる」
高橋は笑う。楽しそうに、しかしどこか哀しげに。
「お前を、俺たちの仲間にするためだよ」
彼は本を掲げる。ページが独りでにめくれ、無数の名もない社員たちの顔が浮かんでは消えていく。かつて修司の同期だった顔。行方をくらませた先輩の顔。そして――そこに加わろうとしている、修司自身の顔。
「造反有理」
高橋が囁く。
「革命無罪」
本のページから、紅い光の粒子が溢れ出し、修司の胸のひびへと吸い込まれていく。ぱきり、ぱきり、と音を立てて、何かが完全に砕ける寸前まで来ていた。
そして修司は、自分の口が――
歌おうとしているのを、止められなかった。
修司の中で、萎びた何かが声を上げた気がした。
——いいじゃないか。
聞き覚えのある囁きだった。誰の声でもない。誰の声でもある。
——誰に何を言われても、いずれはそいつもいなくなるんだ。
修司は見た。自分の胸の奥、ひび割れの隙間から覗く、腐ることさえもうできないほど干からびた塊。それは中学時代、輪の外で目を逸らし続けていた自分の姿にも見えたし、小学生の頃、河原に子猫を置き去りにして自転車を漕ぎ出した自分の背中にも見えた。
そいつは、無責任にささやく。
——なーに、一人でもなんとかなる。
その声に、安堵に似た何かが混じっていることに、修司は気づいてしまう。楽になりたい。誰かのせいにして、誰も助けなかった自分を許してしまいたい。萎びた塊は、そのための言い訳を、いくらでも用意してくれる。
高橋が笑う。
「そうだ。それでいい」
紅い本のページが、風もないのに音を立てて繰られる。
「お前はもう、気づいてる。誰も本当は、誰かを助けたりしない。助けたふりをするだけだ。会社も、社会も、そしてお前自身も」
修司の喉の奥で、歌詞の断片が疼く。
クビ、クビ、クビ——
だが、その時。
猫の鳴き声が、もう一度聞こえた。
猫の鳴き声が、目覚ましのアラーム音に重なって消える。
朝だった。
窓の外はまだ薄暗い。体中が鉛のように重い。夢の続きが頭にこびりついている。紅い本、高橋の目、靖子の涙、猫の鳴き声——だが月曜という現実は、そんなものを気にかけてくれない。
朝礼。社長の訓示。遅刻は許されない。
修司は朝飯もそこそこに家を飛び出す。
駅までの道、目の前を一匹の地域猫が横切る。痩せた三毛猫。一瞬だけ足が止まる。どこかで見た子猫の顔と重なった気がして、胸の奥がひやりとする。だがそれもすぐ、通勤客の波に押し流されて消えていく。
会社に着くと、すでに社員たちが並んでいた。誰もが俯き加減で、疲れた顔を無理やり引き締めている。
社長が壇上に立つ。
その傍らには、若い奥さんが腕を組んで立っている。元OLだったというその人は、社員たちを睥睨するように見渡している。まるで自分がここにいる全員の生殺与奪の権を握っているとでも言うように。
「今月の売上、四十パーセントアップだ」
社長の声が朝礼場に響き渡る。
「いいか、お前たちみたいなグズを、俺は雇ってやってるんだ。ここを追い出されたら、お前らどこにも行くところなんてないんだからな。感謝しろ」
しん、とした沈黙のあと、誰からともなく「はい」という声が上がる。ぱらぱらと、賛意ともつかない拍手が続く。誰も反論しない。反論できるはずがない。
修司も、口先だけで頷く。
そのとき。
耳元で、声がした気がした。
「相変わらずだな」
高橋の声だった。
振り返っても、誰もいない。朝礼の列に並ぶ同僚たちの顔だけが、いつも通りそこにある。だが修司の胸の奥、あのひび割れのあたりが、じくり、と疼いた。
まるで昨夜の出来事が、夢ではなく――ただ皮膚一枚下に潜んで、この現実をずっと見張っているかのように。
異臭がした。まるで死体が腐ってるような、実際には嗅いだことはなかったがそんなにおい。
修司は朝礼の後、そっと二階へ上がった。異臭はますます強くなっていた。
腐った牛乳と、埃と、微かに鉄の匂い。
誰も気にしない。
むしろ「二階の倉庫」は、社内では「存在しない場所」として暗黙の了解になっていた。階段を上がるたび、足音がやけに響く。
ドアを開けると、薄暗い倉庫の中に、段ボールが何重にも積み重ねられた「巣」のようなものがあった。その中心に、男が座っていた。「……高橋、先輩?」いや、違う。
高橋ではない。
もっと前、修司が入社した年に既にいた、営業一課の古株・山崎先輩だ。
二年前に「突然の退職」扱いになった男。
当時、誰も理由を聞かなかった。山崎は段ボールを布団代わりにして、背中を壁に預けていた。
首から社員証を下げたまま。
その顔は穏やかで、まるで長年勤めたベテランが休憩中にうたた寝しているかのようだった。「修司か。久しぶりだな。」声は静かで、優しかった。「外へ行こうと思ったよ。でも、どこへ行っても同じだった。
コンビニも、ネットカフェも、家族の家も、全部同じ会社の延長だった。
だから戻ってきた。」山崎はゆっくりと腕を上げた。
そこには白いシールが貼られている。【固定資産管理 No. 0347-B】
【耐用年数残 不明】
【減損処理保留】背中には、棚卸し用の大きなバーコード。
首の後ろには、薄く「消耗品区分:長期備品」とマジックで書かれている。「会社は追い出さなかった。
資材として置いてくれるって。
人間より資材のほうが、長く使ってもらえるからな。」修司の喉が鳴った。山崎は微笑んだまま続ける。「辞めても無駄だ。
逃げても無駄だ。
会社の外にも会社がある。
だったら資材になったほうが楽だよ。
修理もメンテも、全部会社持ち。
壊れても、減損処理されるだけ。
誰にも怒られない。」彼は自分の胸を軽く叩いた。
コツン、という乾いた音がした。「俺、もう胃が痛くない。
眠れない夜もない。
数字の夢も見ない。
ただここに置いてもらってるだけ。
棚卸しの時に『あ、山崎まだここにいるな』って確認されるのが、唯一の生き甲斐だ。」山崎は段ボールの中から、何かを取り出した。
紅い本のコピーだった。
表紙は手書きだが、確かに『造反有理』と金文字で書いてある。「これ、置いていくよ。
もう俺には必要ない。
資材に革命は起きないから。」その瞬間、倉庫の奥から小さな合唱が聞こえてきた。クビクビクビ……
クビクビクビ……段ボールの山の隙間から、何人もの影が微かに動いている。
皆、社員証を下げ、固定資産シールを貼られ、静かに歌っている。
彼らはもう、完全に「備品」になっていた。山崎は最後に、穏やかな笑顔で言った。「修司、お前もいつかここに来るといい。
その紅い本が、お前を連れてきてくれるはずだ。
……あ、でも一つだけ忠告しておくよ。」彼は指を一本立てた。「完全に資材になる前に、
ちゃんと『歌える』ようになっておけ。
歌えないままここに来ると、
ただのゴミとして廃棄されるからな。」修司は後ずさり、倉庫のドアを閉めた。
背中に冷たい汗が流れていた。しかし、
ポケットの中で、紅い本が熱を持っていた。
ページが、勝手にめくれている気がした。クビクビクビ……修司の喉が、また小さく震えた。
倉庫を出て、階段を降りる途中だった。
「佐伯くん」
低い声に呼び止められる。振り返ると、通路の暗がりに一人の男が立っていた。年齢不詳の、灰色のスーツ。社員証の色が他の社員と違う。保安課、と書かれている。
藤田だった。
修司はこの会社に藤田という部署の人間がいることすら、今まで意識したことがなかった。まるで最初から空気のように、いてもいなくても変わらない存在として扱われてきた部署。
「……何か」
「二階に行っていたな」
問いではなく、確認だった。修司の背筋が冷える。
「山崎に会ったか」
答えられない。答える必要すら、藤田にはなさそうだった。
「いい」
藤田は小さく息を吐く。疲れているようにも、慣れているようにも見える顔だった。
「一つだけ聞く。ポケットの中身を見せてくれ」
修司の手が、無意識にポケットを押さえる。中で、紅い本が熱を持っている。心臓のように、脈打っている。
藤田の目が、わずかに細くなった。
「やはりか」
「これは……」
「知らなくていい」
藤田は一歩近づく。声を落とす。
「その本は、持っていて良いものじゃない。捨てられるなら今すぐ捨てろ。神保町のあの古本屋の場所も、忘れろ」
「なんで、そんなことが分かるんですか」
藤田は答えなかった。代わりに、疲れたような、それでいて何かを見尽くしたような目でこちらを見た。
「この会社で、何人もの人間があの本に触れて、消えていった。山崎も、その一人だ」
修司の喉が動く。
「山崎さんは……」
「今はもう、記録にすら残っていない」
藤田は淡々と言う。
「探しても無駄だ。俺が探しても、無駄だった」
その一言に、修司は言葉を失う。この男は、既に何かを追って、そして届かなかった人間だ。
「なら、あなたは何のために……」
「調べる。それだけだ」
藤田はポケットから手帳を取り出す。使い古された革の手帳。ページの端が黒ずんでいる。
「見届けることしかできない立場の人間もいる。だが、見届けもしない人間よりはマシだと思っている」
そう言うと、藤田は踵を返した。
「捨てろ、佐伯。今のうちなら、まだ間に合う」
足音が遠ざかっていく。修司は一人、通路に立ち尽くす。
ポケットの中で、紅い本がまた一つ、脈を打った。
――今のうちなら。
その言葉が、頭の中で反響する。だが、もう手遅れだということを、修司自身が一番よく分かっていた。
十時を回っていた。
それでも誰も帰らない。帰れない、と言った方が正しい。オフィスの半分は蛍光灯の白い光に照らされたまま、キーボードを叩く音だけが単調に続いている。
向こうの島では、リーダーの佐古がエナジードリンクの缶を傾けている。もう何本目か分からない。目の下の隈が濃く、画面を睨む目だけがぎらついている。誰かに急かされているわけでもないのに、まるで見えない鞭で打たれているかのようにキーを叩き続けている。
地下からは、時折鈍い音が響いてくる。倉庫管理の古井が、備品を乱暴に棚へ叩きつけている音だ。ガシャン、ガシャン、と。誰も気にしない。誰も見に行かない。それも、この会社では「よくあること」だった。
修司は自分のデスクで、買い置きのエナジードリンクに口をつける。ぬるくなった炭酸が喉を焼く。
ふと、モニターに映る自分の顔の輪郭が、揺らいだ気がした。
画面の中に、高橋がいた。
反射というには、あまりに鮮明だった。デスクトップの背景の向こう側から、こちらを覗き込むように。
「山崎に会ったな」
声は、耳からではなく、頭の中に直接響く。
「……」
修司は答えない。周りの同僚たちは誰も気づいていない。佐古はエナジードリンクを飲み続け、古井の叩きつける音だけが地下から響き続けている。
「あいつは備品のほうが楽だと言うが」
高橋は笑う。画面の中で、その笑みだけが異様に大きくなる。
「知ってるか? 備品は、古ぼけると廃棄されるんだ」
修司のポケットの中で、紅い本が熱を帯びる。じわり、じわりと、皮膚越しに伝わってくるほどに。
「山崎はいずれ捨てられる。台帳から消される。誰の記憶にも残らない。それが『楽になる』ということの本当の意味だ」
高橋の声には、隠しきれない愉悦が滲んでいる。
「なあ修司。備品になるのも、資材になるのも、結局は同じことだ。会社に、使われて、擦り切れて、捨てられる。それだけだ」
「じゃあ……お前は」
修司はようやく声を絞り出す。
「お前は、何を提案してる」
高橋の笑みが、初めて真剣な形に変わる。
「捨てられる前に、こっちから捨ててやれって言ってるんだよ」
画面の光が、一瞬だけ紅く染まる。
「会社を。仕組みを。お前を縛ってるもの、全部を」
その時、佐古の缶が、カラン、と音を立てて床に落ちた。
修司が顔を上げると、佐古はデスクに突っ伏したまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
佐古の口から、くぐもった声が漏れ始める。
「クビ……」
デスクに突っ伏したまま、顔は見えない。だが肩が、規則的に震えている。
「クビ……クビ……」
修司は息を呑む。周りの同僚たちは、まだ気づいていない。誰もがモニターに顔を向けたまま、キーボードを叩き続けている。まるでこの声が聞こえているのは自分だけであるかのように。
地下から、鈍い音が止む。
代わりに、低く這うような歌声が、床の隙間から滲み出してくる。
古井の声だった。
「クビクビクビ……」
二つの声が、少しずつ、重なっていく。佐古の掠れた声と、古井の低い声。リズムがずれていたはずのそれが、まるで最初から合わせていたかのように、次第に揃っていく。
正社員でも派遣でも
人は掃くほど余ってる――
修司の背筋を、冷たいものが這い上がる。
高橋がまだ画面の中で笑っている。
「聞こえるだろ、修司」
「……」
「これが、この会社の本当の社歌だ。誰も教えないが、誰もが知ってる」
佐古の背中が、ぴくり、ぴくりと痙攣し始める。まるで首の骨が、歌のリズムに合わせて軋んでいるかのように。
いらない人材さっと掃けば
会社は安泰――
修司は立ち上がりかけて、動けなくなる。声をかけるべきか。助けを呼ぶべきか。だが、周りを見渡しても、誰もこの異常に気づいていない。いや――気づかないふりを、しているのかもしれない。
自分もまた、あの時と同じように。
見て見ぬふりを、しているだけなのかもしれない。
高橋の声が、耳元でそっと囁く。
「お前は、どっちの声に加わる?」
修司のポケットの中で、紅い本が今までにない熱を持って脈打った。
靖子が、修司の目の前に現れる。
猫を抱いたまま。にっこりと笑って。
その笑顔は、優しかった。優しすぎた。中学の頃、修司が輪の外側から見ていた、あの穏やかな笑顔そのままだった。
「先輩」
靖子が言う。
「また、見て見ぬふりをするんですか?」
答えられない。声が出ない。目の前で佐古が「クビクビ」と歌い続け、地下からは古井の声が這い上がってくる。誰も助けない。誰も気づかない。修司だけが、その全部を見ている。
高橋が愉快そうに笑う。
「そう」
彼は靖子の肩に手を置く。まるで昔からの仲間のように。
「するんだよな、お前は」
修司は動こうとする。立ち上がろうとする。声を上げようとする。
だが、体が動かない。
まるで見えない鎖が、足元から這い上がってくるかのように。あるいは――もっと昔、輪の外側に立ち尽くしていたあの瞬間から、修司の体はずっとこうだったのかもしれない。動かなかったのではない。動けなかった。いや——動くという選択肢を、自分自身が選ばなかった。
猫が、靖子の腕の中で小さく鳴く。
その目が、まっすぐ修司を見つめている
靖子が微笑む。その声に、もう一つの声が微かに滲む。
「先輩」
靖子の声。その奥に、光恵の声が薄く重なっている。同じ台詞を、二人が同時に口にしているかのように。
「また、見て見ぬふりをするんですか?」
修司は目を凝らす。靖子の輪郭が揺らぐたび、そこに一瞬だけ光恵の面影が滲む。長い黒髪、少し眠そうな目。だがすぐにまた靖子の顔に戻る。まるで二人の声が、一つの問いに溶け合わされているかのように。
「先輩の書く話、いつも主人公が我慢してばっかりで」
光恵の声だった。だが口を動かしているのは靖子だ。
「もっと怒ってもいいのに」
猫が、二人分の重みを乗せたように、腕の中で身をよじる。
高橋が愉快そうに笑う。
「そうだ」
彼は靖子——あるいは光恵——の肩に手を置く。
「お前が見捨てたのは、一人じゃないもんな、修司」
うつ伏せのまま歌う佐古の背中に、別の影が重なる。
一年前。
同じように机に突っ伏していた高橋の背中。あの日も、会議室の空気は今と同じだった。誰かが笑い出し、誰かが囃し立て、そして誰も本気で止めようとはしなかった。修司も、その場にいた。
――誰かが助けるだろう。
そう思った。
自分でなくていい。誰か他の人間が、きっと対処してくれる。上司が、同僚が、人事が。自分が動く必要はない。自分が声を上げる必要はない。
そう思って、修司は席を立った。
会議室のドアを、静かに閉めた。
その後、高橋がどうなったのか、修司は詳しくは知らない。知ろうとしなかった。救急車が来たという噂だけを、廊下の隅で又聞きしただけだった。
――俺は、あの時も見て見ぬふりをした。
その記憶が、今、目の前の佐古の背中と完全に重なる。
「クビ……クビ……」
佐古の声は止まらない。修司の足はまだ動かない。あの日と同じだ。何も変わっていない。一年経っても、修司は結局、あの時のまま立ち尽くしている。
高橋の声が、耳元で低く笑う。
「思い出したか」
「……」
「お前は、あの時も俺を見捨てた」
その言葉に、初めて修司の中で何かが逆流する。恐怖でも罪悪感でもない、もっと熱い、燃えるような感覚。
「違う……」
声が、勝手に漏れる。
「違う、俺は……」
だが、その先が続かない。何が違うのか、修司自身にも分からなかった。
修司はオフィスを飛び出した。
理由も、行き先も、何も考えていなかった。ただ、あの場所にいられなかった。佐古の歌う声も、地下から這い上がる古井の声も、靖子と光恵の混ざった声も、高橋の笑いも、全部を置き去りにして、階段を駆け下り、ビルを飛び出した。
会社には二度と戻らなかった。
戻れば、また「代わりはいくらでもいる」と言われる。戻れば、また歌わされる。戻れば、山崎のように資材にされるか、佐古のように歌わされるか、どちらかしかない。
だから逃げた。
貯金が尽きるまでは安いホテルを転々とした。尽きてからは、ネットカフェ。それも尽きて、気づけば新宿の地下通路に流れ着いていた。
都庁へと続く長い地下通路。
そこに、いくつものダンボールハウスが並んでいた。修司もその一つを組み立てた。段ボールを重ね、ブルーシートを被せただけの、小さな箱。
不思議なことに、ここにいると胃が痛まなかった。誰にも怒鳴られない。誰にも「代わりはいくらでもいる」と言われない。ただ、通り過ぎる人々の視線だけが、時折、修司の存在を素通りしていく。
まるで、初めから何もいないかのように。
夜、通路の灯りが落ちる頃。
段ボールの隙間から、誰かが覗き込む気配がした。
「よう」
高橋だった。
「早かったな」
修司は顔を上げる。何も答えない。答える気力もない。
「逃げても、無駄だったろ?」
高橋は笑いながら、段ボールの横にしゃがみ込む。
「会社の外にも、会社はある。山崎も、そう言ってたはずだ」
その隣に、いつの間にか靖子が立っていた。猫を抱いたまま。にっこりと笑って。
「先輩」
その声には、もう責める色はなかった。ただ、静かな諦めだけがあった。
「もう、いいんですよ」
猫が小さく鳴く。
「見て見ぬふりをしても、しなくても、結局は同じだったんですね」
修司は何も言えない。言葉が、もう出てこない。
高橋と靖子は、しばらくそこに立っていた。だが、やがて――何も告げずに、二人はゆっくりと薄れて、消えていった。
翌朝、通路を掃除する係員が、修司のダンボールハウスを見つけた。中は空っぽだった。
住人がいた形跡だけが、そこに残されていた。
誰も、修司が誰だったのか、覚えていなかった。
ダンボールハウスの中で、修司は自分という塊が薄れていくのを感じていた。
高橋も、靖子も、もういない。声も、熱も、何もない。ただ、輪郭だけがゆっくりと溶けていく感覚。
――ああ、これで終わるのか。
そう思った瞬間だった。
目の前に、猫がいた。
小さな三毛猫。子供の頃、家で飼えなくなって、河原に置き去りにしてきたあの猫だった。もし生きていたら、とうにこの世にいるはずのない年月が経っている。だが、それは間違いなく、あの日の姿のままそこにいた。
猫は修司を一瞥すると、くるりと背を向けて歩き出す。
導かれるように、修司はその後を追った。
段ボールハウスの壁を抜けると、そこはもう新宿の地下通路ではなかった。
山だった。
自動車や自転車が、幾重にも積み重なって山を成している。錆びついたフレーム、割れたフロントガラス、朽ちたタイヤ。その向こうには、廃墟のような団地が幾棟も並び立っている。窓という窓が黒く抜け落ち、それでもどこか、静けさに満ちている場所だった。
影のような人々が、そこかしこに佇んでいる。輪郭はぼんやりとして、顔立ちまでは判然としない。だが、彼らは皆、修司に向かって穏やかな笑みを向けてくる。責めるでも、憐れむでもない、ただ静かに迎え入れるような笑み。
猫が、ある建物の前で立ち止まる。
そこに、一人の少女が立っていた。
少女は微笑みながら、修司に告げる。
「ようこそ、優しい墓所へ」
その声は、幼く、しかし奇妙なほど落ち着いていた。
「ここは、裏側の世界。世界から要らないと切り捨てられた者たちが、安らぐための墓所です」
猫が、修司の足元にすり寄る。まるで、ここまで連れてきた役目を終えたとでもいうように。
「だから」
少女は続ける。
「安心して、おやすみなさい」
修司は、その言葉に抗う気力を、もう持っていなかった。ただ、足元の猫の温もりだけを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
風もないのに、廃墟の団地の窓が、一斉にかたかたと音を立てた。まるで、新しい住人を迎える拍手のように。




