エピローグその1
――それから数日後
和人のマンションには、妙な静けさがあった。
戦場でも魔境でもない、ただの生活空間。
……のはずだった。
その空気を一瞬で壊しているのは、ソファにどっしりと腰掛けた一人の女だった。
パンチパーマ。
ヒョウ柄のTシャツ。
黒のテーパードパンツ。
咥えタバコ。
完全に“日常”という概念から逸脱した存在。
母、戮子である。
「……はぁ」
煙をゆっくり吐き出し、灰皿へと火を押し付ける。
そして額に手を当て、大きくため息をついた。
その向かい側で、律子は固まっていた。
その横で和人は、なぜか諦めたような顔で苦笑している。
「じゃあ何かい?」
戮子がゆっくりと指を差す。
「この子の中ものに、“居場所”と“記憶”と“名前”を与えたっていうのかい」
その声は呆れと確信が半々だった。
「……あんたが聖女じゃなけりゃ、この世界はとっくに滅んでたよ」
律子の肩がびくりと跳ねる。
「母親の影響を受けやすいんだよ、この系統は」
「ったく……厄介な因子を呼び込んだもんだね」
ぽつりと呟き、戮子はまた煙を吸った。
律子はうつむいたまま、小さく震える。
その様子を見て、戮子は鼻を鳴らした。
「まあいいさ」
「もう“生まれること”自体は決まっちまった」
「今さら止められるもんでもない」
そして視線を和人へ。
「で?」
「これから、どうするつもりだい」
その瞬間だった。
和人がゆっくりと律子の手を取る。
驚いたように律子が顔を上げる。
和人はまっすぐに言った。
「彼女が卒業したら」
「結婚して」
「信人くんのところに行こうと思う」
「…………え?」
律子の思考が一瞬止まる。
(え?)
(今の、プロポーズ……?)
(いや待ってこれ実質プロポーズじゃん)
(え?)
(やばい)
(嬉しすぎる)
(やばいやばいやばい)
顔が一気に熱を持つ。
口元が勝手に緩むのを必死で抑える。
「仕事は、向こうで探す」
その一言で、律子の脳内が完全に崩壊した。
(仕事より私を優先してる……!?)
(無理……好き……)
頭の中で讃美歌が鳴り響く。
完全に少女漫画の世界だった。
背景にはバラが咲き乱れ、光が降り注ぎ、鳩が舞う。
そんな幻想の中で、和人が微笑む。
「いいよね?」
律子は現実に引き戻される直前、なんとか言葉を絞り出した。
「も……もひろん」
(噛んだああああああ!!)
慌てて言い直す。
「う、うん」
「いいよ」
「結婚してあげても」
わざと少し強気に言う。
ここは主導権を握るべき場面だと本能で理解していた。
そして小さく付け加える。
「でも……プロポーズの言葉は」
「ちゃんとロマンティックにしてね」
和人は穏やかに笑う。
「うん」
「もちろん」
「もうサプライズじゃなくなったけどね」
「それでも、ちゃんと考えるよ」
その言葉に、律子の脳内は再び暴走する。
(白いドレス……)
(教会……)
(バージンロード……)
(鳩……)
(幸せすぎる……)
「ははははは」
「ふふふふふ」
気づけば二人は笑いながら抱き合っていた。
そして――。
ちゅ、と軽く口づけ。
「う゛んっ」
戮子がわざとらしく咳払いをする。
「おい」
その一声で、律子は現実へ強制帰還した。
「じゃあ決まりだね」
戮子がニヤリと笑う。
「今日からあんた、うちの“嫁”で“義理の娘”だ」
「よろしく頼むよ」
「…………え?」
律子の顔が固まる。
そこへ和人が静かに口を開いた。
「いや、それはちょっと違うと思う」
真顔だった。
「律子は母さんの後は継がない」
「無理」
「ジャングル」
「無人島」
「武装勢力の拠点」
「そういう場所に放り込むのはさすがに死ぬ」
律子の顔から血の気が引く。
(今の何!?)
(なんでそんな具体的なの!?)
しかし戮子は涼しい顔だった。
「大丈夫さ」
「2〜3年預けときな」
「どこの戦場でも通用するようになるよ」
ニヤリと笑う。
「実際、それ耐えたの」
「僕と信人くんだけだしね」
「…………」
空気が凍る。
「いやーーーーーー!!」
律子の叫びが、マンション中に響き渡った。
こうして、平穏なはずだった日常は。
また少しだけ、騒がしくなっていくのだった。
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