第93話 終末の扉 ――鼻歌を歌う災厄
ミシ……ミシ……。
全身の骨が悲鳴を上げる。
床へ押し潰された悪魔・バンティンは、歯を食いしばった。
(くそっ……)
(こいつが、こんな力を持っているなんて……)
(仕方ない)
その瞬間だった。
バンティンの身体が膨れ上がる。
筋肉が膨張する。
角はさらに巨大に。
牙は獣のように鋭く伸びる。
背中から生えた羽は禍々しく裂け、腕から伸びた鉤爪は人間など容易く引き裂けるほど巨大化した。
脚は熊を思わせる毛むくじゃらの巨脚へと変貌し、その一歩ごとに床が震える。
身体を押し潰していた重圧を、力任せに押し返すように立ち上がった。
「……この姿になるのは、本当に久しぶりだ」
低く唸る声。
和人は何も言わない。
ただ静かに立っているだけだった。
バンティンが床を蹴る。
轟音。
巨体とは思えない速度。
拳が一直線に和人の顔面へ迫る。
当たる。
誰もがそう思った。
しかし――
拳が、ふっと軽くなった。
骨を砕くはずだった質量が。
一瞬で消え失せる。
「なっ……!?」
拳は空を切った。
和人は紙一重で身をかわす。
その足元。
ズンッ――!!
床が陥没した。
タイルが砕け散り、蜘蛛の巣のように亀裂が走る。
まるで大地そのものが、和人の拳へ質量を集めているかのようだった。
ゆっくり。
あまりにも遅い拳。
それなのに。
避けられない。
ゴッ――!!
鈍い衝撃音。
バンティンの顔面が大きく歪む。
その巨体が砲弾のように吹き飛び、床を何度も跳ねながら壁際まで転がった。
粉塵が舞う。
「ぐっ……!」
血を吐きながら立ち上がる。
(何だ……)
(どんな理屈だ……)
両腕を前へ突き出す。
「燃えろッ!!」
業火が放たれる。
しかし。
炎は途中で急激に軌道を変えた。
まるで地面へ叩き落とされるように落下し、そのまま掻き消える。
(やはり……)
(重力か)
(重さを操る能力……)
(グレイブ兄弟と同系統……いや、それ以上か)
そして。
バンティンの視線が律子へ向いた。
和人が反応する。
だが、一瞬遅い。
バンティンは腕を振るった。
巨大な鉤爪が射出される。
「律子!!」
和人が飛び出す。
ズブリ――。
鉤爪が胸を貫いた。
「……がっ」
膝をつく。
鮮血が溢れる。
止まらない。
床一面が赤く染まっていく。
「和人!!」
律子が駆け寄ろうとする。
バンティンはゆっくり近付いた。
その顔には勝利を確信した笑み。
和人の頭を踏みつける。
「終わりだ。」
ぐりっ、と足に力を込める。
「このまま頭を踏み砕いてやる」
律子が叫ぶ。
「やめてッ!!」
飛び出した。
「邪魔だ。」
鈍い音。
バンティンの蹴りが律子を吹き飛ばした。
床を転がる。
その衝撃で。
ポケットの中の鍵が震えた。
カタ……
カタ……
カタカタカタカタ……
律子は俯く。
肩が震える。
恐怖ではない。
まるで。
笑っているようにも見えた。
そして。
"肉の鍵"が独りでに宙へ浮かぶ。
カチリ。
鍵がゆっくり回った。
その瞬間。
世界が止まる。
音。
空気。
時間。
色彩。
温度。
鼓動。
すべてが静止した。
そして。
ゆっくりと。
世界が再び動き始める。
ドーム中央。
和人たちの前。
何もない空間が裂けた。
現れたのは。
扉。
肉でできた扉だった。
呼吸している。
筋肉が脈打つ。
血管が波打つ。
脂肪が震える。
骨が軋む。
見ているだけで吐き気を催す。
生物とも建造物ともつかない異形。
その頂上には。
皮膚を剥がれた巨大な顔。
瞳だけが。
全員を見て笑った。
「うるとらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫。
肉の扉がゆっくり開く。
生暖かい風。
腐臭。
血の臭い。
濁流のような血液が扉の隙間から流れ出す。
その奥は。
暗闇だった。
何も見えない。
なのに。
"誰か"がいる。
姿は見えない。
だが。
全員が理解してしまった。
そこにいる。
空気が重い。
肺が潰れる。
心臓が止まりそうになる。
レオニダスは笑わない。
盲も言葉を失う。
百目は静かに額の一つ目を開いた。
「……これは」
初めてだった。
三人が同時に沈黙したのは。
ズー……
ズー……
ズー……
何かを引きずる音。
鉄ではない。
石でもない。
もっと重い。
巨大な何か。
それを。
誰かが引いている。
まだ姿は見えない。
その時だった。
鼻歌が聞こえた。
陽気だった。
あまりにも楽しそうだった。
まるで遠足へ向かう子供のように。
だからこそ。
恐ろしい。
男の声だった。
少し音程が外れている。
それでも楽しそうに歌っている。
高き天の御心
悲しみをやすらぎに変え給え
輝く星の輝き
我らの道を示し給え
闇に沈むものにも
永遠の安らぎを与え給え
律子の瞳が揺れる。
教会。
幼い頃。
悲しい日も。
嬉しい日も。
何度も口ずさんだ賛美歌。
その歌が。
今。
この異形の世界から聞こえてくる。
バンティンは動けなかった。
本能が叫ぶ。
(逃げろ。)
(戦うな。)
(見るな。)
(近付くな。)
足が震える。
翼が動かない。
呼吸すら忘れる。
魔王以外を前に。
本能が跪いたのは。
生まれて初めてだった。
やがて。
暗闇の奥。
巨大な黒い影が。
ゆっくりと。
扉の前へ姿を現そうとしていた。
その影だけで。
ドーム全体が夜より深い闇に包まれる。
そして。
陽気な男の声が響いた。
「――あれ?」
一拍置いて。
「ここ……どこだ?」
その何気ない一言だけで。
誰も動けなかった。
まだ誰も知らない。
この扉の向こうから現れた存在が。
やがて世界に――**『終末の王』**と呼ばれることになることを。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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