第89話 死刑執行官は静かに現れる ――悪魔王直属《グレイブ兄弟》、戦場に降臨
その時だった。
空間が――揺れた。
まるで湖面に石を落としたかのように。
夜の空気が。
波紋を描く。
ゆらり。
ゆらり、と。
何もなかった夜道。
そこに亀裂が走る。
そして。
一つの影。
また一つ。
さらに一つ。
次々と現れる異形。
老人。
子供。
小太りの中年男。
痩せ細ったサラリーマン。
白髪の老女。
派手なギャル。
そして――最後。
先頭に立つ老婆。
桜井。
レプリカント。
No.94。
七体。
全員の瞳孔は縦に裂けていた。
皮膚の隙間から覗く鱗。
鋭利な爪。
捕食者の目。
No.94が一歩前へ出る。
静かに。
ゆっくりと。
聖子へ歩き出した。
右手を上げる。
クイッ。
指を曲げた。
「……来い」
その瞬間だった。
空気が変わる。
圧。
異質。
殺意。
そこにいる全員へ突き刺さる。
――ここにいる者は全員殺せる。
そんな絶対的な意思。
風が止まる。
虫の鳴き声が消える。
炎が揺れなくなる。
戦場全体が静止した。
悪魔たちが動けない。
歴戦の上級悪魔たちですら。
固唾を呑んで見ていた。
No.94。
ただその存在だけを。
一挙手。
一投足。
誰も目を逸らせない。
聖子の頬を汗が伝う。
呼吸が浅い。
膝が震える。
本能が叫んでいた。
勝てない。
絶対に。
その時。
隣に立つ信人が小さく首を振った。
――行くな。
その目がそう言っていた。
聖子は息を飲む。
怖い。
逃げたい。
全身が震えていた。
だが。
それでも。
「……それは……できないわ」
声を振り絞った。
信人が隣で小さく笑う。
そして。
二人は手を繋いだ。
ぎゅっと。
強く。
言葉はない。
けれど。
互いに理解していた。
ここで終わるなら。
一緒に死ぬ。
それでいい。
二人の覚悟だった。
その時。
空が赤く染まった。
全員が見上げる。
夜空いっぱいに。
巨大な魔法陣。
円環が何重にも重なり。
禍々しく回転している。
血液のような。
腐敗した臓物のような。
どす黒い深紅。
次の瞬間。
ピカァァァァァァァッ――――!!
赤い雷が落ちた。
閃光。
爆音。
衝撃波。
砂煙が巻き上がる。
そして。
二つの影。
ゆっくりと。
煙が晴れていく。
まず見えたのは帽子だった。
広いツバ。
長く伸びる羽飾り。
フェードラ帽。
その下。
異様なマスク。
鳥の嘴のように長く突き出した。
ペストマスク。
そのまま視線が下りる。
極端に肩幅の広いズートスーツ。
長いジャケット丈。
吊り下げられたサスペンダー。
真っ白なシャツ。
同色のネクタイ。
磨き上げられた革靴。
一人は。
黒地に赤のピンストライプ。
もう一人は。
パープルがかった灰色。
そして。
理解した。
違う。
こいつらは。
今までの悪魔とは。
根本から。
何もかもが違う。
禍々しさ。
魔力。
存在圧。
比較にならない。
そこにいるだけで。
空間そのものが沈んでいく。
悪魔たちが固まる。
レプティリアン七体も動かない。
No.94ですら。
初めて。
警戒の色を見せていた。
黒いスーツの男が動く。
ゆっくり。
周囲を見回す。
まるで。
何かを探しているように。
その視線が止まる。
聖子。
その瞬間。
隣の灰色スーツへ視線を送る。
灰色の男が無言で頷いた。
そこで。
悪魔サブナックが叫んだ。
「……ッ!!」
「グレイブ兄弟じゃねぇか!!」
顔が歓喜に染まる。
「おい……嘘だろ……」
「本物かよ……!」
「勝った……!」
「助かったぞ!!」
周囲の悪魔たちにも安堵が広がる。
誰もが思った。
援軍だ、と。
だが。
黒いスーツの男――兄が歩き出す。
ゆっくり。
ゆっくり。
一直線に。
聖子へ。
信人は即座に前へ出る。
かばう。
だが。
その男は攻撃しない。
静かに帽子を脱いだ。
胸へ右手を置く。
優雅な動き。
完璧な礼儀作法。
深く。
深く頭を下げた。
「……犬神信人様」
低く。
よく通る声。
「そして――奥方である聖子様」
ペストマスクの奥。
赤い瞳が細くなる。
「初めまして」
「私の名は――モルデカイ・グレイブ」
後ろへ視線を向ける。
「後方に控えるは弟」
「バラム・グレイブ」
灰色の巨体。
二メートルを超える異様な長身。
一言も喋らない。
ただ立っているだけ。
だが。
その右手には。
人間一人を丸ごと潰せそうな巨大な黒い革手袋。
筋肉がスーツ越しでも分かる。
暴力そのもの。
モルデカイが再び口を開いた。
「何卒……お見知りおきを」
ゆっくり背筋を伸ばす。
仕草に一切の無駄がない。
静かだった。
あまりにも静かすぎた。
その静けさが。
かえって恐ろしい。
モルデカイは淡々と言う。
「……我々は」
一拍。
「王直属」
さらに一拍。
「執行官でございます」
その瞬間。
聖子の喉が鳴った。
理解する。
駄目だ。
こいつらは駄目だ。
今まで遭遇した怪物。
悪魔。
レプティリアン。
化け物。
そんなもの。
全部。
比較にならない。
まるで。
――“死”そのものが歩いている。
隣で信人も息を止めていた。
珍しく。
完全に表情が消えている。
聖子は無意識に。
さらに強く信人の手を握った。
これから起こる。
何か。
決定的に。
最悪な何か。
本能が告げていた。
モルデカイは静かに告げる。
「……では」
「これより――刑を執行いたします」
その言葉が落ちた瞬間。
後方で。
サブナックの顔から笑みが消えた。
夜は。
さらに深く。
さらに冷たく。
絶望は。
まだ始まったばかりだった。
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