第8話 狂乱の聖女は、“普通の優しさ”に恋をした。
数年前――。
王宮。
豪奢な賓客室。
重厚な扉を開けた瞬間。
リカルダ・ゲッテル――後の月戸律子は、
反射的に腰の剣へ手を伸ばしていた。
そこにいた“存在”が、
あまりにも異質だったからだ。
褐色の肌。
二本の禍々しい角。
ピンクのスリーピース。
磨き上げられた革靴。
そして。
場違いなほど上品な微笑み。
悪魔だった。
だが。
まるで一流企業の営業マンみたいだった。
「やあ」
悪魔は紅茶を口に運ぶ。
「座る?」
「……悪魔」
「うん。そうだね」
あっさり認めた。
「まあ、僕の部屋じゃないんだけどさ」
立ち上がる。
ティーカップを持ち上げる。
「何飲む?」
「……は?」
「お茶。蒸留酒。ああ、コーヒーはない」
にこり。
「毒なんて入れないよ。安っぽい真似は嫌いなんだ」
リカルダは理解していた。
勝てない。
これは。
魔王なんかより遥か上。
勇者一行が全員揃っても、
届くか怪しい。
――格が違う。
「無理だよ」
悪魔が笑う。
「瞬殺できる」
ぞわり。
背筋が粟立つ。
「……心を読むのね」
「読めない」
即答だった。
「顔に書いてあるだけ」
「君、わかりやすいよ」
屈辱。
だが。
否定できなかった。
悪魔は紅茶を置く。
「あのさ」
「……何」
「本、読む?」
「読むわよ」
リカルダは眉をひそめた。
「経典とか、魔導書とか」
「それ読書じゃないから」
「勉強だよ、それ」
悪魔は肩を竦める。
「もっと小説とか読んだほうがいい」
「世界が広がるから」
「……意味がわからない」
「君さ」
悪魔は笑った。
「専門バカなんだよ」
「…………」
「いずれ分かる」
その瞬間。
初めて。
リカルダは恐怖した。
この悪魔。
自分を殺しに来たんじゃない。
もっと嫌な何かだ。
「契約って知ってる?」
「……神と人が交わした原初の盟約」
「まあ半分正解」
悪魔は指を立てる。
「契約っていうのはね」
「“守る気がない者同士”が、それでも利益のために結ぶものなんだ」
にこり。
「だから価値がある」
「…………」
「僕はね、契約をした」
「内容は秘密」
「誰と何を交わしたかも秘密」
リカルダは息を呑む。
(命を対価にした……?)
「守秘義務」
悪魔は即答した。
「ビジネスだからね」
そして。
笑顔のまま。
言った。
「今日は履行に来た」
「……私を殺すの?」
「いや?」
悪魔は首を傾げた。
「もっと嫌なことする」
黒い霧。
それが。
ゆっくりとリカルダを包んでいく。
「地獄ってね」
悪魔は笑った。
「地下にはないんだ」
「地上にある」
「人と人の間にある」
そのまま。
悪魔は消えた。
翌朝。
「おはようございます、聖女様」
メイドが笑顔で朝食を運んできた。
優しい声。
穏やかな笑顔。
なのに。
『くそっ……いやらしいくらい綺麗ね』
「…………え?」
メイドはきょとんとする。
「どうかなさいましたか?」
「あ……いえ……」
空耳?
疲れている?
そう思った。
だが。
廊下ですれ違った貴族。
「聖女様、ご機嫌麗しゅう」
『下賤の生まれのくせに』
ぞわり。
背筋が凍る。
謁見の間。
王は笑顔だった。
「此度の働き、見事であった」
『生かしておくと危険だな』
『時期を見て粛清するか』
息が止まる。
勇者。
仲間。
兵士。
侍女。
誰も彼も。
笑顔の裏で。
嫉妬。
打算。
欲望。
悪意。
そればかりが流れ込んでくる。
止まらない。
毎日。
毎日。
毎日。
頭の中へ。
眠れない。
食べられない。
吐き気がする。
信じたくなかった。
だが。
誰一人として、
本当に清らかな人間はいなかった。
そして。
彼女は壊れた。
「カズト、今日はね――」
誰もいない椅子へ紅茶を置く。
「ふふっ、もう……そんなこと言わないでよ」
笑う。
一人で。
誰もいない部屋で。
空想の恋人と会話する。
利用価値で見ない。
力を求めない。
優しくて。
平凡で。
安心できる人。
それが。
彼女の脳が生み出した、
唯一の避難場所だった。
王宮の人々は恐れた。
聖女が。
誰もいない空間へ話しかける。
突然笑う。
突然泣く。
存在しない誰かへ愛を囁く。
こうして。
“狂乱の聖女”
リカルダ・ゲッテルは誕生した。
静かな部屋。
テーブルを囲む四人。
律子。
聖子。
和人。
正人。
律子は俯いていた。
小さく震えている。
「……ほんとに」
か細い声。
「地獄みたいな毎日でした」
涙がぽたり、と落ちる。
「でも……」
震えながら笑った。
「たとえ想像の中でも……あの人がいたから……」
「…………」
「私、生きていられたんです」
和人は何も言わない。
ただ。
静かに聞いていた。
「こっちの世界に来て……」
「本当にいて……」
律子は和人を見る。
「それが先生で……」
涙が止まらない。
「でも、本当は違ってて……」
「先生は、妄想の彼氏より、ずっと優しくて……」
「気遣ってくれて……」
「だめだって、何度も思ったけど……」
「何度も……思ったけど……」
声が崩れる。
「どうしても……好きになっちゃって……」
その瞬間。
そっと。
聖子が律子の肩を抱いた。
「……律子」
優しく。
本当に優しく。
妹を包み込む。
聖子は知っている。
妹がどれだけ苦しんできたか。
どれだけ壊れていったか。
全部見てきた。
だから。
誰よりも。
幸せになってほしかった。
「そうだったんだ」
和人が優しく微笑む。
否定しない。
怖がらない。
引かない。
それだけで。
律子の胸がいっぱいになる。
少し間を置いて。
律子は呟いた。
「……こっちに来る前」
「取引をしたんです」
「誰と?」
正人が穏やかに尋ねる。
律子は小さく首を振った。
「……すみません。言えません」
その瞬間。
正人の右目が、
金色に光った。
律子が息を呑む。
次の瞬間。
正人は、そっと律子の手へ自分の手を重ねた。
「えっ……」
律子が戸惑う。
「大丈夫」
正人は柔らかく笑う。
「怖がらなくていい」
そして。
数秒後。
「……『生首』か」
「「なんで!?」」
律子と聖子の声が重なる。
「誓約は破ってないから安心して」
正人は苦笑した。
そして。
ポケットからスマホを取り出す。
「母さん。聞いてた?」
『ああ、聞いてたよ』
スピーカー越し。
どこか小太りなおばさんを思わせる声。
『あいつは基本、人畜無害さ』
『まあ、興味があるんだろうねぇ』
『これ以上聞いちゃ駄目だよ』
『何が誓約違反になるか分からないからね』
「うん。もう切るよ」
通話が切れる。
正人は立ち上がった。
「……そっか」
そして。
聖子を見る。
「じゃあ僕たちは帰ろうか」
にこやかに。
「ね?」
「くっ……」
聖子が悔しそうに歯噛みする。
だが。
もう敵意はなかった。
玄関先。
聖子は振り返る。
「……律子を泣かせたら、ただじゃ置かないからな」
和人へ向けて。
本気の声だった。
「お姉ちゃん……」
律子の目に涙が滲む。
嬉しかった。
ずっと。
姉だけは味方だったから。
「いいかい」
正人が穏やかに言う。
「二人で、納得いくまで話し合うこと」
そう言って。
正人は聖子を伴って部屋を出ていく。
廊下の向こうから。
「いいかぁ!! 律子を傷つけたらぶっ殺すからなぁーーー!!」
聖子の怒鳴り声。
そして。
「まあまあ。二人に任せようじゃない」
正人の呑気な声。
それを聞きながら。
律子は、泣き笑いみたいな顔をした。
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