第7話 化け物は、静かに笑う。
「もう、その辺でいいんじゃないかな」
不意に。
背後から、のんびりした声が響いた。
その瞬間。
部屋の空気が、妙に軽くなった。
――いや。
違う。
そこにあった“何か”が、
ふっと抜け落ちたような感覚。
聖子の背筋を、
ぞわり、と悪寒が走る。
「……っ」
瞬時に振り返る。
ナイフは既に逆手。
いつでも喉を裂ける構え。
そこに立っていたのは――。
一人の男だった。
年齢は三十前後。
中肉中背。
どこにでもいそうな顔。
街中ですれ違っても、
三秒後には忘れてしまいそうな男。
地味。
とにかく地味。
なのに。
(……いつからいた?)
気配がなかった。
全く。
視界に入っていたはずなのに、
認識できなかった。
まるで。
“存在そのもの”が、
意識から滑り落ちてくるみたいに。
「誰だ」
聖子が低く問う。
男は困ったように笑った。
「いやぁ。ただの兄なんだけど」
その瞬間。
聖子が動く。
床を踏み砕く勢いで踏み込む。
人体なら、
反応すらできない速度。
ナイフが一直線に喉を狙う。
だが。
男は。
紙一重で躱した。
「――っ!?」
聖子の目が見開かれる。
そして。
男が消えた。
「な――」
次の瞬間。
耳元。
「少し落ち着こうか」
「っ!!」
背後。
いつの間にか立たれている。
聖子は反射で振り向きながらナイフを振るう。
一閃。
空気を裂く。
だが。
そこには誰もいない。
前方。
数メートル先。
男は最初からそこにいたみたいな顔で立っていた。
「近接戦闘は得意じゃないんだ」
落ち着いた声。
「だから、あんまり暴れないでくれると助かるかな」
(……嘘つけ)
聖子は理解した。
勝てない。
いや。
そもそも。
戦いにならない。
認識阻害。
しかも異常なレベル。
視線。
意識。
存在感。
全てをズラされている。
剣聖だった頃ですら、
こんな相手と戦ったことがない。
剣を握れば、
大抵の相手には勝てた。
だが。
目の前の男には。
“戦う土俵にすら立てない”。
(何なのよ……こいつ……)
冷や汗が落ちる。
そして。
聖子は、へたり込むように床へ座り込んだ。
「お姉ちゃん!?」
律子が慌てる。
だが。
その瞬間。
律子だけが、
ほっと息を吐いていた。
まるで。
“絶対に大丈夫な人”が来たみたいに。
「お義兄さん」
「兄貴」
律子と和人が、
同時に声を上げた。
「……は?」
聖子が固まる。
男は、ひらひらと手を振った。
「やあ和人。久しぶり」
そして。
椅子に縛られた弟を見て。
「あー……なんか既視感あるな」
苦笑する。
「俺も前に、同じ目に遭ったことあるよ」
「えっ」
「両足切り落とされそうになったね」
さらっと恐ろしいことを言った。
「…………」
空気が凍る。
本人だけが平然としていた。
成川正人。
成川和人の兄。
そして。
律子が妙に懐いている男。
「律子ちゃんも元気してた?」
「はいっ♪」
さっきまで沈んでいた律子が、
一瞬で笑顔になる。
「おかげで、こっちは色々片付いたよ」
「本当ですか?」
律子は嬉しそうに両手を組む。
「お役に立てて何よりです♪」
「……え?」
和人がぽかんとする。
「何、二人とも知り合いなの?」
「うん」
正人はあっけらかんと頷いた。
「ここだけの話なんだけどさ」
口元へ手を添える。
「絶対、彼女の前で言わないでほしいんだけど」
「?」
「俺さ」
正人は真顔で言った。
「律子ちゃんのファンなんだよね」
「…………は?」
和人の思考が止まる。
「いやマジで言うなよ?」
正人は周囲をキョロキョロ見回す。
「面倒くさいことになるから」
「もうなってるよ!!」
和人が叫んだ。
ついに限界だった。
「何なのこの状況!? 何で兄貴そんな普通なの!?」
「え、普通だけど」
「普通の人はナイフ避けながら消えない!!」
「あれはちょっとしたコツ」
「ちょっとしたコツで済ませるな!!」
だが。
そんな弟を無視して。
正人は、ふと律子を見る。
「でも実際、不思議なんだよねぇ」
「?」
「律子ちゃんが、何でここまで和人を気に入ってるのか」
「…………」
律子がぴたりと止まる。
正人は苦笑した。
「いや、もちろん和人は良い奴だよ?」
「でもさ」
ちらり、と弟を見る。
「ここまで好かれるタイプじゃないだろ?」
「兄貴?」
「教えてよ」
正人は興味深そうに笑った。
「どうしてそんなに、和人のこと好きなの?」
「――っ」
律子の頬が赤くなる。
そして。
その瞬間。
正人の襟首。
そこには超小型盗聴器。
離れた部屋で。
イヤホンを付けた日本人形みたいな美少女が、
くすりと笑う。
「ふん」
細い指先でコードを弄びながら。
「甘いわね」
にやり、と目を細める。
「お見通しよ」
そして。
艶っぽく微笑んだ。
「……帰ったら、お仕置きね♡」
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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