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第73話 斧を置いた男は、もう誰も守らないと決めていた――それでも今夜だけは別だ。

 夕陽が、赤かった。


 世界そのものが燃えているような、どこまでも深い紅。


 静かな川面がその色を映し、ゆらゆらと揺れている。


 風が吹いた。


 乾いた草の匂い。


 その川岸に――ニックは立っていた。


 隣には、一人の男。


 片膝をつき、三角帽子を被った奇妙な男が頬杖をついている。


 藁でできた身体。


 どこか頼りなく、けれど誰より仲間想いだった男。


 フィエロ。


 かつて、共に旅をした仲間。


 その視線の先には――


 おさげ髪の少女。


 そして、その隣に座る巨大なライオン。


 少女は笑っていた。


 屈託なく。


 何も知らない子供のように。


 ライオンもまた、その姿を優しく見守っている。


 その光景を見た瞬間。


 胸が、痛んだ。


 まるで心臓を素手で握り潰されたような痛み。


 ニックは顔をしかめた。


 無骨な指先で煙草を取り出す。


 火をつける。


 紫煙が、空へ溶けた。


 フィエロがぽつりと言った。


「なあ……ニック」


「あぁ?」


「俺達……いつまであの娘と一緒にいられるんだろうな……」


 寂しそうだった。


 あの陽気なフィエロが。


 それが余計に胸に刺さる。


 ニックは肩をすくめた。


 わざとぶっきらぼうに言う。


「どうかな……」


 煙を吐く。


「そろそろ旅も終わりだろうしな」


 少し間を置く。


「……いつまでも一緒なんて、無理だろ」


 フィエロは苦笑した。


「そうだよな……」


 視線は少女へ向いたままだ。


「できれば……ずっとついて行ってやりたいんだけどな……」


 ニックは鼻で笑う。


「冗談じゃねえ」


「ガキのお守りなんざ……二度と御免だ」


 そう吐き捨てた。


 ……だが。


 胸が苦しい。


 苦しい。


 痛い。


 痛い。


 狂いそうになる。


(……くそ)


(なんでだ)


(なんで“心臓”なんか取り戻しちまった……)


 かつて失った感情。


 再び手に入れたはずのもの。


 なのに。


 それは優しさだけじゃなかった。


 別れの苦しみ。


 失う恐怖。


 守れなかった後悔。


 全部、一緒に戻ってきやがった。


(こんな思いするくらいなら……)


(戻らないほうがマシだった……)




 ――その時だった。




「……起きなさいよ」


 遠くから声がする。


「ちょっと」


「起きなさいってば」


 ……ハッ。


 ニックは目を開けた。


 視界がぼやける。


 そこに立っていたのは――


 金髪の少女。


 懐かしい面影。


 思わず口が動く。


「……ドロ……」


 だが。


 焦点が合う。


 そこにいたのは違った。


 聖子だった。


 腕を組み、不満そうに見下ろしている。


「……何寝ぼけてんのよ」


「もうすぐ始まるのに」


 ニックは数秒黙った。


 ゆっくり身体を起こす。


「あぁ……」


 頭を押さえる。


 まだ夢の余韻が消えない。


 聖子が少し顔を覗き込んだ。


「ほんと大丈夫なの?」


「あぁ……問題ねえ」


 大きく息を吐く。


 そして。


 無意識に右手を聖子へ向けた。


「あのさ……」


「ん?」


 聖子が首を傾げる。


 ニックは数秒黙った。


 言葉が出かける。


 ……やめた。


「あ……いや……なんでもねえ」


「はぁ?」


 怪訝な顔をする聖子。


 ニックはポケットから煙草を取り出す。


 火をつける。


 紫煙が夜空へ昇った。


 ゆっくり言う。


「ここは……任せろ」


 聖子が瞬きをした。


「……それと」


「それと?」


 ニックの目が変わる。


 鋭い。


 獣のような眼光。


 低く。


 重く。


 圧を込めて。


「……死ぬんじゃねえぞ」


 一瞬。


 聖子が固まった。


 そして――


 ふっと笑う。


「……何よ」


「なんか今日のあんた……ちょっと格好いいじゃない」


 ニックは鼻で笑った。


「気のせいだ」


「ふふっ」


 聖子は踵を返す。


 向こうでは金田が手を振っていた。


「じゃあ金田さん、よろしくお願いします」


「うん!任せといてよ!」


 肩のコアラが揺れる。


 聖子はさらに隣を見る。


「陛下もお願いします」


 そこには直立不動の王。


 巨大な剣を地面へ突き刺していた。


「うむ」


「予に任せよ」


「ありがとうございます」


 聖子はトラックへ飛び乗った。


 エンジンが唸る。


 車がゆっくり離れていく。


 赤いテールランプ。


 遠ざかる。


 ニックはずっと見ていた。


 ……やがて。


 金田が近づいてくる。


「じゃあ配置につこうか」


 その時。


 ニックが言った。


「悪い」


「俺を入口手前にしてくれ」


「え?」


 金田が目を丸くする。


「そこ僕のポジションだけど?」


 ニックは斧を肩へ担いだ。


 重厚な両刃斧。


 まるで処刑人の武器。


 その顔に薄く笑みが浮かぶ。


「……ちょっとな」


「格好つけたくなった」


「陛下もいいよな?」


 王がゆっくり頷く。


「うむ」


「許す」


 金田が笑った。


「よーし決まり!!」




 ――数分後。



 袈裟懸村。


 中央通路。


 公民館前。


 そこに、一人の男が立っていた。


 ニック。


 誰もいない道。


 静かな夜。


 遠くから聞こえる無数の足音。


 悪魔たちだ。


 群れをなして迫ってくる。


 その数。


 数十。


 ニックは煙草を咥えていた。


 無言。


 ただ前を見ている。


 赤い火が揺れる。


 ……そして。


 ぽとり。


 煙草が地面へ落ちた。


 火花が散る。


 ニックはゆっくり斧を持ち上げる。


 前方へ向ける。


 迫り来る闇へ。


 静かに呟いた。


「誰かを守るなんてな……」


 少し笑う。


 寂しそうに。


 懐かしそうに。


「……もうやめちまったつもりだったんだけどな」


 握る手に力が入る。


 筋肉が隆起する。


 瞳が鋭くなる。


 そして。


 タフガイは前を見据えた。


 かつて守れなかったもの。


 かつて失った仲間。


 消えない後悔。


 全部背負って。


 今夜だけは――


 もう一度。


「……来いよ、化け物ども」


 低い声が夜に響く。


「木こりってのはな……」


 斧を構える。


 口角が上がる。


 獣の笑み。


「でけえ木を切る時が……一番楽しいんだよ」


 次の瞬間。


 闇の軍勢が、村へ雪崩れ込んだ。


 ――防衛戦第二局面。


 ――中央防衛ライン。


 ――最後の木こりが、立ち塞がる。


 戦いの火蓋が切って落とされた。



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