第67話 悪魔が婚約者を奪いに来たので義父が一本電話したら、相手組織が青ざめました ~うちの嫁に手を出すな、それは地雷だ~
静寂。
重苦しい沈黙が、マンションのリビングを支配していた。
その中心にいるのは――
成川久男。
薄くなった頭髪。
くたびれたポロシャツ。
年季の入ったスラックス。
背丈は低い。
肌には年齢相応のシミと皺。
どこをどう見ても――その辺にいる冴えない中年男性にしか見えない。
だが。
その場にいる誰もが分かっていた。
……空気が違う。
久男は、古びたガラケーを片手に持ちながら、目の前の悪魔をじっと見つめた。
青い肌。
額から伸びる巨大な角。
ピンク色の高級スーツ。
異様な存在感を放つ高位悪魔。
バンティン・シャモア。
その視線を真正面から受け止めながら――
久男は、まるで町内会の相談でもするような気軽さで言った。
「……実はですね」
ポチッ。
ガラケーを耳に当てる。
「うちの嫁と……そちらの若いもんが揉め事になりましてね」
その瞬間。
バンティンの眉がわずかに動いた。
(……誰に電話している?)
数秒。
やがて。
ガラケーの向こうから、やけに気だるそうな女の声が響いた。
『……そうなのかい』
『で?』
『なんてやつだい?』
久男は、真正面に立つバンティンを見ながら答える。
「ええと……」
少し考えて。
「バス停・写楽亭……です」
空気が止まった。
和人が顔を上げる。
律子がぽかんと口を開ける。
マリアが目を細める。
バンティンが怪訝な顔になる。
電話の向こう。
『……なんだいそりゃ』
『落語家かい?』
『そんな名前、聞いたことないね』
久男は真面目な顔で続けた。
「節さん、そっちの若い衆じゃないんですか?」
『知らないよ』
『落語家なんて』
律子が小声で呟いた。
(お義父さん……絶対わざとだ……)
バンティンの額に青筋が浮く。
「……そこにいるんだろ」
電話越しの女が言った。
「ええ、います」
久男は受話器を少し離し――
真顔でバンティンを見る。
「君」
「名前……何ていうの?」
「…………」
バンティンが一瞬固まる。
「……バンティン・シャモアだ」
久男は頷いた。
そして電話に向かって。
「バンテリン・シシャモです」
「はっ?」
今度は全員が固まった。
和人「……」
律子「……」
マリア「……」
バンティン「………………は?」
電話の向こうから盛大なため息。
『……もういいよ』
『久男ちゃん』
『スピーカーにして』
久男がガラケーを眺める。
「……これ、どうやるんだ?」
「父さん貸して」
和人が慣れた手つきで操作し、テーブルの上へ置いた。
そこから響く女の声。
低い。
鋭い。
刃物みたいな声。
『……あんた、名前は』
バンティンは眉をひそめた。
「……その前に、あなたは誰だ」
沈黙。
数秒。
そして。
その女は、淡々と告げた。
『篝月節』
『……ってもんさ』
バンティンは首を傾げた。
「……聞いたことありませんね」
次の言葉。
それが――世界を変えた。
『……セツゲツカ』
『相談役さ』
一拍。
『王のね』
………………。
沈黙。
完全な沈黙。
その瞬間。
リビングの温度が数度下がった気がした。
和人の顔色が変わる。
マリアが目を見開く。
律子の呼吸が止まる。
そして。
バンティンの顔から――完全に余裕が消えた。
「……な……」
「……あなたが……」
喉が震える。
声が裏返る。
「……セツゲツカ……様……?」
電話の向こうから、淡々とした声。
『あんたさ』
『久男ちゃんとこの嫁にちょっかい出したんだろ』
「……」
『名前、なんだっけ』
「……バ……バンティン・シャモア……です……」
『あー……』
少し考えるような間。
『なんか……"強欲"んとこに、そんな名前の若いのいた気がするね』
『まあいいや』
バンティンの背中を冷たい汗が流れ落ちる。
『久男ちゃん』
『ごめんねぇ』
『最近の若い連中……教育がなってなくてさ』
「いえ」
久男は静かにお茶を啜る。
「仕方ありませんよ」
その様子を見て――
律子は理解した。
(……なにこれ)
(……何が起きてるの……)
(この人たち……何者なの……?)
そして。
久男が、ぽつりと言った。
「あと……村を襲うそうで」
電話の向こう。
初めて。
節の声色が変わった。
低い。
凍えるような殺気。
『……ほんとかい?』
『ほんとに……村まで?』
バンティンが後ずさった。
『……あーあ』
『やっちゃったねぇ』
『久男ちゃん』
『悪いけど……』
『あとはこっちで処理するわ』
「助かります」
バンティンが叫ぶ。
「ま、待ってください!!」
『……あ?』
「なぜです!?」
「あなたなら……こちら側の存在でしょう!?」
大きなため息。
そして。
静かな声。
だがその一言一言が重かった。
『……あんた』
『今回のシノギ、いくら貰ってる』
「……5万……」
『はぁ?』
怒気が混じる。
『ふざけるんじゃないよ』
バンティンが慌てる。
「あなたが手伝ってくれるなら……4万渡します!」
和人が吹き出しそうになる。
律子は青ざめる。
マリアは顔を覆った。
次の瞬間。
電話越しに怒声。
『トチ狂ったこと言うんじゃないよ!!』
ビリビリと空気が震えた。
『その親父一人でも』
『その十倍積まれても断るね』
バンティンの顔色が完全に変わる。
「……な……」
「……何があるんです……」
そして。
数秒の沈黙。
節が。
ゆっくり。
その言葉を口にした。
『……広島頂上決戦』
バンティンの瞳孔が開く。
『昔ねぇ……』
『悪魔側と退魔師側で……本州全部巻き込んだ総力戦があった』
律子が息を呑む。
『その時』
『退魔師側が助けを求めたのが――邪法使いの一族』
『そんでね』
『うちのエース連中が』
一拍。
『……ほとんど』
『成川に殺られた』
バンティンの膝が震えた。
『その後』
『協定結んだんだよ』
『頂上決戦の生き残りには手を出さない』
『絶対にね』
冷たい声。
『……その村には』
『まだ、生き残りがいる』
『しかも』
『あんた』
『そこ襲うんだろ?』
『成川家の嫁に手を出して』
『袈裟懸村まで巻き込んで』
沈黙。
完全な沈黙。
そして。
最後の一言。
『……いいかい』
『事態はこっちで何とかする』
『あんたは』
『もう』
『これ以上』
『揉め事を起こすんじゃないよ』
――ブツッ。
通話が切れた。
…………。
…………。
…………。
時計を見る。
襲撃開始まで――あと三分。
バンティンの顔は完全に青ざめていた。
いや。
元から青い顔が――さらに青くなっていた。
久男は湯呑みを置く。
カタン。
小さな音。
その音だけで。
なぜかバンティンの肩が跳ねた。
久男は穏やかに微笑んだ。
「……さて」
「どうします?」
その笑顔は。
先ほどまでの冴えない中年男性のものではなかった。
律子は震えた。
悪魔じゃない。
目の前の義父に。
(……私……)
(とんでもない家に嫁いだかもしれない……)
外では。
村を包囲する悪魔たちが、刻一刻と配置についていた。
誰もまだ知らない。
今夜始まるのは――
襲撃ではない。
悪魔側にとっての、地獄の開幕だということを。
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