第66話 冴えない義父が来たと思ったら、高位悪魔相手にお茶を飲み始めた件――嵐の前の家族会議
――袈裟懸村襲撃まで。
残り、一時間。
夜。
和人のマンション。
リビングでは、妙な静寂が流れていた。
ソファの端に座る律子は、珍しく背筋を伸ばしていた。
いや。
正確には――極限まで緊張していた。
拳を握る。
手汗がにじむ。
鼓動がうるさい。
(……絶対失敗できない)
(人生最大の試練よ……)
(これを乗り切れば……完全勝利……)
脳裏に浮かぶのは未来視で見た幸福な光景。
大きな家。
子どもたち。
和人。
姉夫婦。
家族団らん。
(……絶対に……嫁として認められる……!)
つい数時間前まで怯えていた悪魔襲撃の件など。
完全に忘れていた。
その時。
――ピンポーン。
インターホンが鳴る。
律子の身体がびくりと跳ねた。
モニターを見る。
そこに映っていたのは。
年配の男性だった。
黒縁メガネ。
薄くなった髪。
目立つシミ。
少し猫背。
くたびれたポロシャツ。
スラックス。
身長は百六十センチもない。
どこにでもいそうな。
あまりにも普通の中年男性。
成川久男。
和人の父。
だが。
律子にとっては。
――最終面接官。
(きた……!!)
(ラスボス!!)
(ここで失敗したら全部終わる!!)
聖女戴冠式より緊張していた。
魔王討伐より緊張していた。
「……は、はい!」
ドアを開ける。
久男が柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、律子さん」
「和人と結婚したんだって?」
「おめでとう」
律子の顔が真っ赤になる。
「……は、はいっ!」
すると久男はさらに言った。
「それとうちにお嫁に来てくれるんだってね」
――ドクン。
心臓が跳ねた。
嫁。
今。
“嫁”って言った。
嫁認定。
嫁認定された。
脳内で鐘が鳴る。
(勝った……)
(お義父さん公認……!!)
律子が九十度に頭を下げる。
「お義父さん……!!」
「ありがとうございます!!」
「どうぞお上がりください!!」
完全に自分の家みたいな対応だった。
リビング。
テーブルには和人が気まずそうに座っている。
「……よぉ」
「元気にしてたか」
「……まあ」
気まずい。
ものすごく気まずい。
奥のソファではマリアが空気になっていた。
(……私……存在消しとこう……)
完全に背景モード。
律子が地元名産の饅頭を受け取りテーブルへ置く。
久男はゆっくり座った。
そして穏やかに言った。
「まずは二人とも」
「結婚おめでとう」
律子の顔がまた赤くなる。
「……はいっ」
久男は静かに続けた。
「法的にはまだだけどね」
「魂の誓約を交わしたなら……もう二人はどんなことがあっても結ばれる」
「運命がそこに収束する」
「和人」
「彼女を幸せにしなさい」
和人が小さく頷く。
「……うん」
律子。
完全に顔が緩んでいた。
(嬉しい……)
(認めてもらえた……)
(完全にお嫁認定……)
(勝ち……)
にやける。
完全ににやける。
だが。
次の瞬間。
空気が変わった。
久男が湯呑みを持ったまま聞く。
「……さて」
「うちの者にちょっかいかける輩がいるそうですね」
うちの者。
律子、胸がキュンとなる。
和人が答える。
「……かなり高位の悪魔みたい」
律子が俯く。
すると。
久男は困ったように頭を掻いた。
「いやぁ……参りましたねぇ」
「私……荒事は苦手なんですが」
その瞬間。
目だけが変わった。
鋭い。
氷みたいな目。
まるで別人。
「……まあ」
「お任せなさい」
何事もなかったかのようにお茶を飲む。
世間話でもするような口調だった。
その時。
――ピンポーン。
全員が止まる。
モニターを見る。
……何も映っていない。
律子の顔が一気に青ざめた。
肩が震える。
和人がそっと抱き寄せる。
「……どうする?」
久男は湯呑みを置かない。
静かに言った。
「……開けてはいけません」
「こちらから迎え入れてはなりません」
「“招く”という行為には意味があります」
また一口。
お茶を飲む。
異常なほど落ち着いていた。
再び。
――ピンポーン。
誰も動かない。
緊張で空気が張り詰める。
十秒。
二十秒。
――ガチャリ。
律子が凍る。
鍵をかけたはず。
なのに。
ドアが開いた。
ドン。
ドン。
ドン。
重い足音。
そして現れた。
ピンクのスーツ。
青い肌。
湾曲した巨大な角。
背中には禍々しい翼。
高位悪魔。
バンティン・シャモア。
男は優雅に右手を胸へ当てる。
深々と一礼。
「初めまして」
「バンティン・シャモアと申します」
口元には勝ち誇った笑み。
律子が震える。
マリアも息を呑む。
だが。
久男だけが。
静かだった。
ゆっくり立ち上がる。
そのままバンティンへ近づく。
そして。
足元を指差した。
一言。
「……靴」
沈黙。
久男が眼鏡を押し上げる。
「ここは日本だ」
……え?
バンティンが下を見る。
革靴。
「あっ」
「おお……これは失礼しました」
「こちらの習慣に不慣れなもので」
素直に玄関へ戻る悪魔。
律子、呆然。
和人、呆然。
マリア、呆然。
数秒後。
きっちり靴を脱いで戻ってくる高位悪魔。
数分後。
なぜか。
リビング。
バンティンが座っていた。
しかも。
律子がお茶を出していた。
手が震えている。
「……そ、粗茶ですが……」
バンティンが上品に受け取る。
「ああ……ありがとうございます」
何この状況。
久男がお茶を飲みながら聞く。
「……で?」
「何の用ですかな」
バンティンは笑った。
「そちらの女性を迎えに来ました」
視線は律子。
久男。
「なぜ」
「依頼を受けまして」
「断れば?」
バンティンがニヤリと笑う。
「……どうしましょうかねぇ」
その瞬間。
テレビが勝手に起動した。
映し出されたのは――袈裟懸村。
律子が凍る。
バンティンが笑う。
「ここを襲撃します」
「彼女の姉が住んでいるのでね」
「ですが」
「彼女と姉を引き渡せば帰ります」
もちろん嘘。
盲との契約。
襲撃は止められない。
久男の目が僅かに細くなる。
バンティンが続ける。
「もし拒否するなら」
笑顔のまま。
静かに告げた。
「ここで」
「全員殺します」
律子の肩が震える。
マリアが青ざめる。
和人が睨み返す。
だが。
久男だけは。
何も変わらなかった。
「……そうですか」
横を見る。
そこには震える律子。
ゆっくり頷く。
そして。
胸ポケットに手を入れた。
取り出したのは――
古びたガラケー。
バンティンが眉をひそめる。
「……何を?」
久男は気にしない。
番号を押す。
トゥルルルル……
ガチャ。
繋がった。
受話器の向こうから。
陽気な女性の声。
『――久しぶりだねぇ、久男ちゃん』
『元気にしてたかい?』
久男が静かに笑う。
「ええ」
「お久しぶりです」
バンティンが初めて顔色を変えた。
……嫌な予感がする。
本能が告げていた。
今。
何か。
決定的にまずいものが動き出した。
そして――
状況は。
最悪に向かって。
加速していく。
――続く。
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