第54話 最強だった元剣聖、山奥の限界集落に嫁いだら老人たちが全員バケモノでした。
都内から、およそ百キロ圏内。
高速道路を降り、舗装も怪しい山道をひたすら進み。
さらに獣道のような細い坂道を越えた先。
そこに――その村はあった。
袈裟懸村。
かつて修験道の行者が、この地で袈裟を置き、しばし休息したことから名づけられた土地。
村全体は深い谷底に存在している。
切り立った崖が両側から迫り、V字にえぐれた地形。
上空には太陽があるはずなのに。
なぜか光が届きにくい。
絶えず湧き上がる冷たい水煙。
濃い霧。
石垣の上に並ぶ棚田。
古い木造家屋。
遠くで鳴る沢の音。
周囲を囲む山々は、かつて修験者たちが命を懸けて修行した霊峰だった。
廃仏毀釈以前は。
修験道の聖地として、多くの行者と参拝客で賑わっていたという。
――今は、その面影が地形に残るのみ。
そして。
この異様な土地で。
聖子はすでに――
犬神家の嫁
として完全に認知されていた。
◇
「吉田のおばあちゃんー。主人から頼まれてた荷物持ってきたよー」
石段を登り。
古い木造住宅の玄関先で声をかける。
すると。
しわだらけの顔をした老婆が出てきた。
「おやぁ……信くんの奥さんかい」
柔らかな笑顔。
「いつも悪いねぇ」
「全然ですよー」
そう答えた瞬間。
吉田のおばあちゃんは家の横から野菜を持ってきた。
採れたての大根。
白菜。
ほうれん草。
「これ持っていきな」
「わぁ、ありがとう!」
聖子は笑顔で受け取る。
(いや……うちでも普通に作ってるんだけどね……)
内心ツッコミを入れる。
だが言わない。
絶対言わない。
夫――信人なら空気を読まず、
『あ、それうちにもあります』
とか言いそうだが。
私は違う。
嫁である。
村社会を舐めてはいけない。
すると。
「漬物もあるよ」
「あ、それマジで欲しい」
思わず本音が漏れた。
「おばあちゃんの漬物ほんと美味しいんだよね」
「今度教えてよ」
「いいよぉ。いつでもおいで」
八十を超えているはずなのに。
やたら背筋が伸びている。
その老婆が。
ふっと聖子の手を掴んだ。
「……あれ?」
自然すぎた。
全く反応できなかった。
老婆が微笑む。
「聖子ちゃんは……いい手をしてるねぇ」
「え?」
「私も若い頃は少しばかりねぇ……」
カツン。
杖を地面につく。
その瞬間。
聖子の目が止まった。
――杖。
いや違う。
仕込み杖。
(……嘘でしょ)
(これ……剣だこ……?)
(しかも私より遥かに深い……!?)
一瞬で背筋に冷たいものが走る。
帰ろうとした時だった。
「聖子ちゃん……悩んでないかい?」
見透かされた。
聖子はしばらく黙り――
小さく頷く。
「……ええ」
「伸び悩んでいます」
老婆は静かに笑った。
「いいかい」
「大成しようと思うなら……今あるものを手放すんだよ」
「え……?」
老婆は聖子の手から荷物を取り。
代わりに漬物袋を持たせた。
「ほら」
「手放したら……別のものが入るだろう?」
優しい笑み。
だが。
その一言は鋭く心を貫いた。
「一番いらないのは……過去のプライドだよ」
――ッ。
その瞬間。
理解した。
剣聖。
英雄。
戦場での栄光。
数え切れない戦歴。
全部。
全部。
私はまだ、それに縛られていた。
この世界で生きるなら。
この世界のルールで生きるべきなのだ。
「一度手に入れた技術は……なくならない」
老婆が微笑む。
「安心して」
「捨てるのは……プライドだけでいい」
そして。
「もう……犬神さんちの聖子さんなんだろ?」
――その通りだ。
セリス・ゲッテルは、あの世界に置いてきた。
持ってきてしまったのは。
くだらない自尊心だけ。
聖子の目が少し潤む。
目の前の老婆が。
とてつもなく大きく見えた。
「……また遊んでね」
優しい声だった。
◇
この村には。
時々。
おかしな老人がいる。
「こんにちはー。主人から荷物です」
次に向かったのは――桜井精肉店。
団子頭。
丸眼鏡。
腰の曲がった老婆。
無言。
じっと聖子を見る。
次に。
荷物を見る。
その視線。
まるで――検索しているようだった。
(……何この圧)
異常だった。
しばらく見つめた後。
「……ありがとう」
ぼそり。
店の奥へ消える。
「じゃあ失礼しま――」
「待ちなさい」
凍る。
感情のない声。
背中が寒い。
「……あんたは?」
「い……犬神信人の妻です……聖子です……」
沈黙。
そして。
「……覚えておく」
「借りっぱなしは……ない」
「種族の掟……」
その瞬間。
老婆の瞳が。
縦に裂けた。
――気がした。
「あ……はい……」
◇
次に向かったのは。
箱崎モータース。
そして現在。
パンッ!!
五百メートル先。
スイカが粉砕した。
果肉が派手に弾け飛ぶ。
伏せ撃ち姿勢の聖子。
逆に被った目出し帽。
頬に当たる風。
スコープ越しに揺れる木々。
陽炎。
気流。
完璧な狙撃。
後ろで箱崎老人が腕を組む。
「……うむ」
「いいの」
「余計なもんが落ちた」
聖子が立ち上がる。
「ありがとうございます」
箱崎老人が頷く。
「射撃はもう十分じゃな」
「後は自分で練習できる」
「時々山に入って罠と索敵」
「まぁ……そこはぼちぼちじゃ」
沈黙。
そして。
老人はゆっくり立ち上がった。
「……明日の昼」
「ここに来い」
「え?」
箱崎老人の目が変わる。
老人の目ではない。
歴戦の獣だった。
「次に進むぞ」
その一言で。
空気が変わった。
聖子は理解した。
――これは。
修行ではない。
新しい戦いの始まりだ。
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