第53話 元聖女な彼女が妻を名乗った結果、なぜか監視付き同棲生活がさらに悪化しました。
――暗い。
いや、暗いというより……世界そのものが霧に包まれていた。
白く、ぼやけた視界。
上下の感覚すら曖昧な空間。
そこに――いた。
巨大な影。
人の形をしている。
だが、異様に大きい。
その輪郭すら定まらない。
霧の向こう側に、巨躯だけがぼんやり浮かんでいる。
「……おい。起きろ」
低い声。
男の声だった。
その声に揺さぶられるように、律子はゆっくり目を開ける。
「……ここは……?」
頭が重い。
まるで大量の魔力を一気に失った後のような感覚。
「力を使いすぎたようだな……」
その存在が言った。
「ええ……そうみたい……」
こめかみを押さえる律子。
声の主を確認しようと、一歩踏み出す。
「――来るな」
ピタリ。
足が止まった。
その一言に。
本能が警鐘を鳴らした。
――危険。
違う。
危険……なのに。
なぜだろう。
敵意がない。
それどころか。
妙に落ち着く。
どこか暖かい。
不思議と安心感すらあった。
「あなた……誰……?」
返事はない。
その存在は、二つの金色の瞳をぼんやり輝かせ――周囲を見回した。
まるで何かを探るように。
少し間を置いて。
「……いろんなやつが……いるみたいだな」
低い声。
「お前の周りには……」
沈黙。
「好意を持つやつ」
さらに間。
「敵意を持つやつもいる」
律子が息を呑む。
――何を言っているの?
問いかける前に。
その巨体が霧の中へと溶け始める。
「待って……!」
思わず手を伸ばす。
その存在は振り返らない。
ただ。
静かに言った。
「また……会いに来る」
霧が薄れていく。
「必ずだ……」
その声だけを残して。
影は消えた。
「――リカルダ様!」
「リカルダ様!!」
はっと律子が目を開ける。
目の前には倉敷まりあ。
心配そうな顔。
気づけばマンションのソファに横になっていた。
全身に力が入らない。
「……っ」
起き上がろうとして。
まりあが慌てて支える。
「ご無理をなさらず……どういう理屈かわかりませんが、一時的に力が消失しているようです」
「そう……」
律子はぼんやり天井を見る。
「少し……夢を見ていたわ……」
「夢?」
「禍々しいものが……こっちを見ていた……」
まりあの顔が強張る。
「で、ですが……?」
律子は隣で眠っている和人を見る。
そして。
ふっと微笑んだ。
「……不思議と」
優しい目。
「この人みたいだった」
「……え?」
まりあの顔が引きつる。
◇
その日の夕食。
カレー。
サラダ。
食卓を囲む三人。
「「いただきます」」
律子と和人が手を合わせる。
一口食べた和人が目を丸くした。
「……うまっ」
「いいわね」
律子も頷く。
その瞬間。
「でしょう!?」
ドヤ顔のまりあ。
胸を張る。
……張るほどない胸を張る。
「今日からここに住みますので家事は全部お任せください!」
「「……え?」」
和人と律子の声が完璧にハモった。
律子が頭を押さえる。
「……どういう意味かしら……?」
まりあがそっと律子に耳打ちした。
「悪しきものを制御なさるリカルダ様を……一人にはできません」
「もし戦いになれば……まりあも命を賭けて加勢します」
胸を叩く。
薄い。
すごく薄い。
そして。
キッ。
まりあが和人を睨む。
「律子様の優しさにつけ込み……同衾を強要するとは……」
「その邪悪な企み……私が阻止します」
和人。
心の中でガッツポーズ。
(……あれ?)
(これ……追い出せる流れじゃない?)
「そうだね」
「ここは女の子二人でさ」
「元いたマンション――」
「あ゛?」
凍った。
律子が睨んでいた。
元聖女。
目が笑っていない。
「……何言ってんの?」
声が怖い。
「魂の誓約したよね?」
「忘れた?」
「あ……うん……好きにしたらいいよ……」
全面降伏。
テーブルの下。
律子が拳を握る。
(くっ……せっかくの新婚生活が……)
まりあが感動した顔になる。
「すごい……!」
「さすがリカルダ様!」
「悪しきものを完全に使役なさっている……!」
「悪しきものって何!?」
まりあがビシッと指を突きつける。
「変態ロリコン教師のあなたよ!!」
「ひどくない!?」
「今日から同じ寝室は禁止です!」
「えっ?」
和人の声が少し明るくなる。
(やっと解放される……!)
「わかりました」
その瞬間。
「何言ってんの?」
律子が即答した。
「同じ部屋で寝るに決まってるでしょ」
「えっ」
まりあが感動して立ち上がる。
「さすがです!!」
「二十四時間監視ですね!!」
「まりあは別室待機します!」
「切り替え早っ!!」
律子が腕を組む。
「この際だから言っとくわ」
「うちね」
「上下関係かなり厳しいから」
和人が首を傾げる。
「え……僕が上じゃないの?」
律子。
鼻で笑う。
「……は?」
「なわけないでしょ」
「私、嫁なんだから」
「対等よ」
完全にマウント。
鬼嫁の風格。
まりあが頷く。
「聖女界隈は体育会系ですので」
「怖ぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
和人の絶叫がマンション中に響いた。
◇
――魔界。
巨大な屋敷。
黒い大理石の広間。
そこに数人の悪魔が座っていた。
緑色の肌。
巨大な角。
ストライプのスーツ。
褐色の肌。
ピンクのスーツ。
葉巻の煙が漂う。
ストライプの悪魔が口を開く。
「……妙だな」
「こっちが送り込んだ連中が帰ってこねぇ」
「調べても情報が全く出てこねぇ」
「何者なんだ?」
ピンクスーツの悪魔が紅茶を啜る。
「向こうにも……相応の相手がいるんでしょうな」
薄く笑う。
「なので依頼続行には……報酬増額を」
対面の男たちが顔を見合わせる。
「しかし……これ以上は……」
ピンクの悪魔が笑う。
「――あの二人に戻られては困るのでしょう?」
沈黙。
「契約書にも……追加報酬の条項はある」
「……わかった」
「依頼は継続だ」
ピンクの悪魔が深くソファに沈む。
紅茶を揺らし。
静かに言った。
「……まずは――村ですね」
その瞬間。
魔界の空気が冷えた。
そして。
誰にも知られぬまま。
裏側で。
確実に。
新たな悪意が動き始めていた――。
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