第5話 元聖女、嫉妬を知る。
――それは。
律子にとって、夢みたいな一週間だった。
「先生〜、ピーマン残してますよ?」
「いや、子供じゃないんだけど僕」
「好き嫌いする人はモテません」
「理不尽だなぁ……」
「洗濯物、畳んどきました♪」
「えっ、なんで僕の部屋に普通にいるの」
「普通ですよ」
「普通なの!?」
「先生、コーヒーどうぞ♪」
「……なんかもう、新婚生活みたいだね」
「――っ」
その瞬間。
律子の顔がぼんっ、と真っ赤になった。
「し、新婚……っ」
「いや、冗談だから!?」
「ぐへへへへへ……♡」
机をばんばん叩く。
「うわっ!?」
和人が本気で引いた。
そんな日々が、一週間。
月戸律子は。
完全に幸せの絶頂にいた。
そして。
当然のように壊れていた。
「ぐふふふふ……」
日曜日の夜。
月戸家の食卓。
律子はニタニタ笑いながら味噌汁を飲んでいた。
頬が緩みっぱなしである。
「先生ぇ……♡」
ぽつり。
名前を呟いただけで顔が蕩ける。
さらに。
「ぐへへへへへ」
ばんばんばんばん!!
テーブルを叩き始めた。
「うわっ!?」
向かいに座っていた聖子が肩を跳ねさせる。
「……あんた今、自分がどんな顔してるか分かってる?」
「えへへへへ……」
「会話成立してないんだけど」
ドン引きだった。
元剣聖・月戸聖子。
数多の戦場を駆け抜けた女。
そんな彼女ですら。
今の妹は怖かった。
――そして、一週間後。
土曜日。
事件は起きた。
律子は、いつものように双眼鏡を覗いていた。
向かいのマンション。
成川和人の部屋。
そこへ。
「……え?」
女が現れた。
黒髪。
年齢は二十五前後。
黒のジャンプスーツ。
パンプス。
モデルみたいに整った顔立ち。
大人の女。
その女は。
当然みたいに、和人の部屋へ入っていった。
「…………」
律子の呼吸が止まる。
部屋の中。
和人が笑っている。
女も笑っている。
親しげだった。
距離が近い。
自然すぎる。
まるで。
当たり前みたいに。
「……なん、で」
頭が真っ白になる。
心臓が嫌な音を立てた。
どくん。
どくん。
「なんで……」
視界が歪む。
喉が苦しい。
息が浅い。
脳の中へ、一気に感情が流れ込んでくる。
嫉妬。
憎悪。
不安。
悲しみ。
怒り。
ぐちゃぐちゃだった。
(誰)
(誰あれ)
(昔の女?)
(彼女?)
(なんで)
(どうして)
(先生、あんな顔するの?)
考えたくない。
でも。
止まらない。
脳内で最悪の想像ばかり膨らんでいく。
その時だった。
不意に。
女がこちらを見た。
「――っ」
目が合う。
遠く。
窓越し。
それでも。
確かに。
目が合った。
そして。
女は、にこりと微笑んだ。
余裕の笑み。
まるで。
『見つけた』
そう言うみたいに。
「……っ」
律子の背筋が凍る。
さらに。
女はスマホを取り出し、誰かに電話を始めた。
「――母さん。例の女、見つけた」
その声は届かない。
だが。
律子には、なぜか分かってしまった。
あの女は。
敵だ。
「……やだ」
ぽつり、と声が漏れる。
「やだやだやだやだ……」
胸が痛い。
苦しい。
ぐちゃぐちゃになる。
先生を取られる。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
その夜。
律子は眠れなかった。
日曜日の朝。
「……おはよう」
聖子が声をかける。
「うん」
返事は短い。
食卓には、
トースト。
目玉焼き。
コーヒー。
だが。
律子はほとんど手を付けない。
ぼうっとしている。
「律子?」
「……うん」
「……なんかあった?」
「……うん」
「どっちよ」
会話にならない。
律子の目は虚ろだった。
普段なら、
「先生がね〜♪」
と延々惚気るはずなのに。
今日は違う。
まるで。
心だけどこかへ置いてきたみたいだった。
「……ごめん」
律子が立ち上がる。
「少し、一人になりたい」
そのまま自室へ入っていった。
ぱたん。
扉が閉まる。
静寂。
「…………」
聖子は、しばらく扉を見つめていた。
そして。
ぎりっ、と。
拳を握り締める。
「あいつ……」
顔が歪む。
「律子を……妹を……弄びやがって……!」
ごとり。
食卓のコーヒーカップが揺れた。
元剣聖の目が、静かに殺気を帯びる。
妹のためなら。
世界だって敵に回す。
それが。
月戸聖子という女だった。
そして。
物語は。
静かに、大きく動き始める。
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