第4話 元聖女、恋愛を学習する。
日曜日。
駅前の喫茶店には、静かなジャズが流れていた。
コーヒーの香り。
落ち着いた照明。
休日の穏やかな空気。
そんな中。
月戸律子は、小動物みたいに縮こまっていた。
「……で?」
対面の女がカップを置く。
「まだ何もしてないんだ?」
「うぅ……」
律子の肩がびくりと震える。
対面にいるのは、小太りの中年女性。
柔らかそうなブラウス。
控えめな化粧。
上品な所作。
一見すると、“気のいいおばさん”。
だが。
妙に気品がある。
そして何より。
目だけが妙に鋭かった。
「あの時、言ったよねぇ?」
にっこり。
「体を張ってでも籠絡するって」
「す、すみません……」
律子はしゅんと俯く。
「だってぇ……先生、優しいから……」
「そこで遠慮するから駄目なのよ」
おばさんは深々とため息を吐いた。
「今さらだけど、恋愛経験は?」
「……年齢と彼氏いない歴が同じです」
「はいアウトーーー」
親指を立てながら即答した。
「やっぱりかぁ〜」
「この首で来て正解だったわ」
「えっ?」
律子が顔を上げる。
おばさんはふふん、と胸を張った。
「この首、“恋愛マスター”なの」
「恋愛マスター……!」
律子の目が一瞬で輝いた。
完全に救いを見つけた顔だった。
この女。
超越者“生首”。
幾つもの首を付け替えながら生きる、人外の存在である。
そして現在使っているこの首は――。
『男を落とすことだけで人生を無双した女』
らしい。
「いいわ。まず彼のこと全部話して」
「はいっ!」
三十分後。
「……うん。分かったわ」
おばさんはコーヒーを飲みながら頷いた。
「相当な朴念仁ね」
「ぼくねんじん……」
「鈍感」
「あぁ〜……」
律子は遠い目をした。
心当たりしかない。
「でも超優良物件よ」
「……っ!」
律子の姿勢が正される。
「女を容姿だけで見ない。ちゃんと尊重してくれる」
「はい……!」
「あと財布がマジックテープ」
「はい」
「最高」
「最高なんですか?」
「堅実。浪費しない男は強いわ」
最早、婚活相談所だった。
「しかも教師」
「はい」
「安定」
「安定……!」
「伸びしろしかないわねぇ」
おばさんはニヤリと笑う。
「あなたが自分色に染めるのよ」
「自分色……」
「いい夫になるわぁ」
律子の顔がみるみる赤くなる。
「お、お、お、おっと……」
「落ち着きなさい」
「はいっ」
完全に恋愛セミナー受講生だった。
「いい? あなたに足りないものがある」
ごくり。
律子の喉が鳴る。
「足りないもの……!」
「“頼る”ことよ」
「頼る……?」
「男はね。“守りたい”って思わせると弱いの」
「守りたい……」
「縋るの。甘えるの。頼るの」
おばさんは人差し指を立てる。
「そうすると、面白いくらいなびくわ」
「で、でも……どうやって……」
「簡単」
おばさんは悪い笑みを浮かべた。
「ストーカーに付きまとわれてるって言えばいいの」
「――っ!」
律子が息を呑む。
「家まで送ってくれる」
「はわわ……!」
「うまくすれば部屋にも上がれる」
「部屋……!」
「そこで料理」
「料理!!」
「胃袋を掴む」
「はいっ!!」
おばさんは満足そうに頷いた。
「既成事実を積み上げるのよ」
「既成事実……!」
その時だった。
ふと。
おばさんの首が、不自然な角度で傾く。
「……まあ、失敗しても大丈夫」
にこり、と笑う。
「人間、心が壊れる程度じゃ死なないから」
「――っ」
その瞬間だけ。
律子は思い出した。
目の前にいるのが、“人ではない”ことを。
ぞくり、と背筋が震える。
だが次の瞬間には。
「はいっ!!」
律子は勢いよく敬礼していた。
そして翌日。
夕暮れの帰り道。
律子は、成川和人と並んで歩いていた。
「すみません先生ぇ……」
声が妙に甘い。
「いや、本当に大丈夫?」
和人は心配そうだった。
「変な人につきまとわれてるのに、一人で帰すわけにもいかないし……」
「はい……怖いです……」
律子はそっと和人の腕に抱きつく。
「うわっ」
柔らかな感触。
大きな胸が押し当てられる。
もちろんわざとだった。
(いい? 男は“守られてる”じゃなく、“守ってる”と思いたいの)
脳内に、おばさんの声。
(師匠……!)
律子は内心で感動していた。
だが。
抱きついた瞬間。
(……ごめんなさい先生)
胸が少し痛んだ。
本当は。
怖くなんかない。
むしろ。
一番危ないのは、自分の方だ。
それでも。
少しでも長く一緒にいたかった。
「きょ、今日は姉が仕事で遅くて……」
律子はそっと眼鏡を外す。
「――っ」
和人が息を呑んだ。
丸眼鏡の奥。
そこにあったのは、思わず見惚れるほど整った顔立ち。
「せ、先生……」
上目遣い。
「姉が帰るまで、一緒にいてくれませんか……?」
和人の視線が泳ぐ。
「で、でも僕と君は教師と生徒で……」
「駄目ですか……?」
「うっ」
弱い。
和人はこういうのに弱かった。
「……わ、分かった」
「はいっ♪」
律子がぱあっと笑顔になる。
その笑顔があまりに嬉しそうで。
和人は少しだけ、胸がざわついた。
「じゃあ先生のマンションで待ちましょう!」
「え?」
「まだ肉じゃが残ってますよね? 他にも何か作りますね♪」
「えっ、なんで知って――」
律子はぴたりと止まる。
そして。
和人の腕へ、さらにぎゅっと抱きつく。
その顔は。
どこまでも恋する少女だった。
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