第41話 故郷は、生まれた場所だけじゃない。
日曜日の夕方。
山あいの村を染める夕陽は、どこまでも優しかった。
犬神家の玄関先。
信人と聖子は並んで立っていた。
いつもなら他愛のない話をしている時間。
けれど今日は違う。
もう帰る時間だった。
だから二人とも、自然と口数が少なくなっていた。
沈黙。
風が吹く。
遠くで鳥が鳴いた。
聖子は視線を落とす。
(帰らないと……)
そう思う。
なのに。
足が動かない。
(帰りたくない……)
胸の奥が苦しい。
(離れたくない……)
視線の先には信人。
少し困ったように笑う青年。
いつも通りの顔。
優しい顔。
その顔を見るだけで胸が締め付けられる。
脳裏に、この数か月の出来事が浮かんだ。
初めてこの村へ来た日。
草刈り。
畑仕事。
みんなで囲んだ食卓。
バーベキュー。
佐知子のカフェ。
くだらない雑談。
笑い声。
失敗した料理。
叱られたこと。
褒められたこと。
信人と過ごした時間。
全部。
全部が愛おしかった。
そして気づく。
(ああ……)
(私はもう……)
この場所が好きなんだ。
この村が好きなんだ。
信人が好きなんだ。
佐知子が好きなんだ。
みんなが好きなんだ。
損得なんてない。
地位も名誉もない。
誰が上とか下とかもない。
ただ一緒に笑っているだけ。
それだけなのに。
それだけだからこそ。
幸せだった。
かつて聖子には故郷があった。
英雄として迎えられた国。
剣聖として称えられた場所。
だが――
失った。
裏切られた。
追われた。
逃げた。
振り返ることさえできなかった。
故郷は消えた。
帰る場所はなくなった。
ずっとそう思っていた。
だから。
なおさら気づいてしまった。
(違ったんだ……)
故郷って。
生まれた場所じゃない。
帰りたいと思う場所なんだ。
気づけば。
聖子は信人へ歩み寄っていた。
そして。
抱きしめる。
ぎゅっと。
力いっぱい。
信人の胸板。
温もり。
鼓動。
全部が伝わってくる。
「聖子さん?」
呼ばれても離れられない。
(無理……)
(帰れない……)
(離れたくない……)
涙が滲む。
信人の腕が優しく背中を包む。
その優しさが。
決定打になった。
聖子は顔を上げる。
涙で潤んだ瞳。
そして。
そっと唇を重ねた。
短い口づけ。
けれど。
そこに込めた想いは、きっと誰よりも重かった。
離れる。
見つめ合う。
夕陽が二人を照らしていた。
そして――
「決めた!!」
突然の宣言。
「え?」
信人が目を丸くする。
聖子は涙を拭きながら言った。
「私、ここに住むから」
「えっ?」
「いつから?」
信人が戸惑う。
聖子は即答した。
「今から」
「今から?」
「うん」
大きく頷く。
「もう決めた」
「ここが私の家」
「ここが私の故郷」
「だから帰らない」
「拒否権ないから」
びしっと指を突き付ける。
涙目なのに妙に偉そうだった。
信人はしばらく呆然としていたが。
やがて吹き出した。
「ふふっ」
「何よ」
「いや」
優しく笑う。
「いいね」
その一言だけ。
でも。
それだけで十分だった。
聖子は泣きそうになる。
本当に。
本当に。
受け入れてくれるんだ。
信人はスマホを取り出した。
「律子ちゃんに報告しよう」
「うん」
発信。
コール音。
数秒後。
『もしもし?』
律子の声が聞こえた。
聖子は息を吸う。
「律子」
『うん』
「ごめん」
『え?』
「帰れそうにない」
一瞬の沈黙。
「この村に住みたい」
「ここが好き」
「帰りたくない」
「もう足が動かない」
ぽろぽろ涙が落ちる。
「ごめんね」
『ふふっ』
電話の向こうから笑い声。
『じゃあ決まりだね』
優しい声だった。
『お姉ちゃん』
『幸せになれたんだね』
その言葉で。
聖子の涙腺は完全に壊れた。
「うん……」
「うん……」
何度も頷く。
「佐知子さんがいて」
「信人がいて」
「みんながいて」
「私の欲しかったもの」
「全部ここにあるんだ」
『良かった』
律子も泣いていた。
『本当に良かった』
姉妹の声が震える。
聖子は笑いながら泣いた。
「あとね」
『うん』
「和人さんと律子も来てくれたら」
「完璧なんだ」
「みんなでここに住もうよ」
『そこ』
律子が笑う。
『お義兄さんの家だよ?』
「違う」
聖子は首を振る。
「もう私の家」
「私たちの家」
「私と律子の家」
電話の向こうで。
律子が嗚咽した。
『そうだね……』
『そうだよね……』
「うん」
『お義兄さんって馬鹿だよね』
「うん」
『家も』
『居場所も』
『未来も』
『全部私たちに取られちゃうんだから』
聖子は涙を流しながら笑う。
「ほんとだね」
『だから』
律子が言う。
『責任取ってね』
「うん」
『お姉ちゃん』
「うん」
『幸せになって』
聖子は声を詰まらせた。
「ありがとう」
『うん』
「ありがとう……律子」
通話が終わる。
夕陽が沈み始めていた。
信人は何も言わない。
ただ。
泣いている聖子を優しく抱き寄せる。
その胸は暖かかった。
安心できた。
帰りたいと思えた。
――追放された日。
聖子はすべてを失ったと思った。
名誉を。
地位を。
故郷を。
未来を。
けれど違った。
失った先で。
遠回りした先で。
傷ついた果てで。
彼女はようやく見つけたのだ。
帰りたいと思える場所を。
共に笑いたいと思える家族を。
そして――
愛する人を。
追放された元剣聖は。
ようやく。
本当の意味で。
自分の故郷へ辿り着いたのだった。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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