第40話 幸せの味と、地獄の修行と、絶対に行ってはいけない場所
土日の朝。
カフェ「フランク」は今日も賑わっていた。
古民家を改装した店内には、焼き立てのパンの香りと、挽きたてのコーヒーの香りが漂っている。
「はい。ではセットを二つですね」
聖子は笑顔で注文を受ける。
以前の彼女なら考えられなかった姿だ。
剣を握り。
戦場を駆け。
英雄として讃えられた女。
そんな彼女が今はエプロンを身につけ、客に頭を下げている。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ――心地よい。
「聖子ちゃん、ごめんねぇ。店の手伝いまでさせちゃって」
カウンターの向こうで料理を作る佐知子が苦笑する。
「いいんです」
聖子は首を振った。
「ただで教えてもらってますし」
「それに」
少し照れながら続ける。
「こういう雰囲気、好きなんです」
「犬神に嫁いだら、ここで働きたいくらい」
佐知子が目を丸くした。
「いいの?」
「信人くんの奥さんなら、働かなくても暮らせるでしょう?」
沈黙。
聖子は少しだけ俯いた。
そして。
思い切って話す。
この人なら受け止めてくれる。
そんな気がした。
「ここに来る前――」
「いろいろあったんです」
静かな声。
「みんなに称賛されました」
「贅沢な暮らしもしました」
「でも」
「全部、一瞬でなくなった」
脳裏によみがえる。
歓声。
栄光。
勲章。
そして――裏切り。
無実の罪。
投獄。
逃亡。
全てを失った日々。
「お金とか名誉なんて」
「幻みたいなものです」
聖子は小さく笑った。
「身に染みてます」
佐知子は黙って聞いていた。
急かさず。
否定せず。
ただ聞いていた。
だから聖子も続けられた。
「でも」
顔を上げる。
律子。
信人。
和人。
三人の顔が浮かぶ。
草刈りをした日。
みんなで笑ったBBQ。
囲んだ食卓。
馬鹿みたいな会話。
そして。
夜遅くまで語り合った時間。
「家族が笑っていて」
「大好きな人達と一緒に暮らせるなら」
胸が温かくなる。
「それが」
「それこそが」
「幸せなんだと思います」
しばしの沈黙。
そして。
「ふふっ」
佐知子が笑った。
とても優しい笑顔だった。
「私もそう思うわ」
母親のような微笑み。
聖子の胸が少し熱くなる。
「じゃあこれ、奥のテーブルお願いね」
「はい!」
二人はまるで本当の親子のようだった。
◇
午後二時。
中休み。
「じゃあ少し体を動かしましょうか」
佐知子がそう言った。
「えっ?」
聖子が固まる。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感が。
しかし佐知子は微笑む。
「ほんの少しよ」
その笑顔が一番怖かった。
◇
店の裏。
木々に囲まれた空間。
佐知子は一本の木剣を差し出した。
「はい」
「えっ」
受け取る聖子。
「その……いいんですか?」
一応。
聖子も剣では相当な実力者だ。
怪我をさせる可能性もある。
そう思った。
だが。
「じゃあ手加減してね」
佐知子は笑った。
余裕。
圧倒的な余裕。
聖子は木剣を構える。
そして。
凍り付いた。
目の前にいる。
確かにいる。
見えている。
なのに。
――いない。
そこに立っているのは上品な女性ではない。
虚無だった。
空気。
温度。
重力。
そういう自然現象が人の形を取ったような存在。
存在感が希薄すぎる。
なのに。
圧倒的。
汗が流れる。
喉が鳴る。
鼓動が速くなる。
落ち着け。
考えろ。
相手も人間。
手足は二本ずつ。
攻撃手段は限られている。
修練したことを繰り返せ。
何度も。
何度も。
呼吸が整う。
心が静まる。
だが。
違和感だけは消えない。
斬れない。
違う。
斬る未来が見えない。
どんな角度で。
どんな踏み込みで。
どんな速度で。
その先の佐知子が想像できない。
まるで。
最初から存在していないかのように。
それでも。
踏み込む。
目を閉じる。
呼吸。
一閃。
取った。
そう確信した。
しかし。
斬ったのは残像。
「うん」
背後から声。
振り返る。
佐知子が立っていた。
最初からそこにいたかのように。
「思ってた以上ね」
「基礎ができてる」
「綺麗な剣」
聖子が息を呑む。
「教科書通り」
「理想形」
「素直」
「そして素直すぎる」
佐知子が微笑む。
「だから強い」
「でもね」
少しだけ目が細くなる。
「正しい人間ほど騙されるのよ」
ぞくりと背筋が震えた。
「もっと強くなれるわ」
「色々経験して」
「意地の悪い相手と戦えばね」
「私みたいな」
悪戯っぽく笑う。
その笑顔は優しい。
でも。
底が見えない。
聖子は思った。
この人は強い。
強すぎる。
そして。
母親みたいに優しい。
◇
夜。
コーヒーとホットミルク。
いつもの席。
「ふーん」
信人が笑った。
「佐知子さんに稽古つけてもらったんだ」
「全然届かなかった」
聖子は肩を落とす。
「剣も」
「料理はもっとだけど」
「ふふっ」
信人は笑う。
「僕も佐知子さんの前じゃ子供扱いだよ」
「母親みたいな人なんだ」
「うん」
聖子は頷く。
「憧れる」
「私ね」
少しだけ照れながら言う。
「久しぶりなんだ」
「誰かを尊敬したいって思ったの」
信人は嬉しそうに笑った。
「そう」
そして。
聖子は思い出す。
「あ」
「戮子さんにも会った」
その瞬間。
信人が固まった。
「弟子になれって言われた」
「断ったよ」
ほっとした顔。
本気で。
心の底から安心した顔だった。
「そんなに怖いの?」
「うん」
即答。
「怖い」
聖子が吹き出す。
「そこまで?」
信人は真顔だった。
「九州の山奥に拉致された」
「えっ」
「剣一本だけ渡された」
「えっ」
「食料なし」
「えっ」
「水なし」
「えっ」
「知らない生物と三日三晩戦闘」
「待って」
「まだある」
「聞きたくない」
「裸同然で知らない土地に置いていかれた」
「えっ」
「自力で帰れって」
沈黙。
「無人島」
「えっ」
「水はくれた」
「よかった」
「ペットボトル一本」
「少なっ!?」
「フィリピンの武装勢力拠点」
「やめて」
「銃はくれた」
「よかった」
「弾九発」
「よくない!!」
信人は遠い目をした。
「オマーンで海賊が襲う予定の船」
「コロンビアの麻薬取引現場」
「武装銀行強盗の襲撃現場」
「知ってて行かせた」
聖子は両手で顔を覆った。
「よく生きてたね……」
「僕もそう思う」
「でも助けてくれるんでしょ?」
信人は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「そんな気がする」
「希望的観測じゃない」
「……」
否定できない信人だった。
◇
その時。
聖子のスマホが鳴る。
『律子』
表示を見た瞬間。
嫌な予感がした。
通話を取る。
「どうしたの?」
『お義母さんから九州に遊びに来いって』
即答だった。
「やめなさい」
『え?』
「絶対やめなさい」
『なんで?』
聖子は信人を見る。
信人は黙ってホットミルクを飲んでいた。
だが。
その顔は。
修行の話をしている時より真剣だった。
そして。
少しだけ怯えていた。
それを見て。
聖子は確信する。
――やっぱり危険だ。
「いいから!!」
「行っちゃダメだから!!」
『えぇぇぇ!?』
律子の困惑した声が響く。
しかし聖子は譲らない。
なぜなら。
犬神家で最も恐れられている人物が誰なのか。
今なら少しだけ理解できたからだった。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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