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第38話 認めるということ。

 ソファに腰掛ける律子。


 その隣には和人。


 対面には敦子と久男が座っていた。


 狭くはないはずのリビングなのに、空気が重い。


 いや――重いのは空気ではない。


 和人と久男。


 二人の間に横たわる何かだった。


 和人は父親と目を合わせようとしない。


 腕を組み、窓の外を眺めている。


 対する久男も怒るわけでもない。


 ただ静かに息子を見つめていた。


 何も言わずに。


 だから余計に気まずい。


 律子は居心地の悪さに背筋を伸ばした。


(な、何この空気……)


 そんな沈黙を破ったのは敦子だった。


「そういえば、信くんがお姉さんと付き合ってるんだって?」


 無理やり話題をひねり出したような声だった。


「あ、はい」


 律子は笑顔を浮かべる。


「敦子さんが紹介してくれたおかげです。お姉ちゃん、本当に幸せそうで」


「そっかぁ」


 敦子はほっとしたように微笑む。


 しかし。


「……」


「……」


 和人と久男は無言のままだった。


(会話が続かない!!)


 律子の内心は悲鳴を上げていた。


 やがて和人が深くため息を吐く。


「で」


 ぶっきらぼうに言った。


「何の用?」


 その声には棘があった。


 久男は気分を害した様子もなく答える。


「律子さんがどんな女性か見に来た」


「じゃあ俺はいなくていいだろ」


 立ち上がろうとする和人。


 しかし久男は首を横に振った。


「だめだ」


 短い言葉。


 それだけなのに不思議と逆らえない。


「ここにいるんだ」


 和人は舌打ちこそしなかったが、不満そうな顔をした。


「ふん」


 再びソファへ腰を下ろす。


 律子はそっと肩に触れた。


「そんな言い方しなくても」


 和人は何も答えなかった。


 代わりに視線を逸らす。


 その様子を見ていた久男が律子へ向き直った。


「律子さん」


「はい」


「ここはどうですか」


 静かな声。


「和人とやっていけそうですか」


 律子は即答した。


「はい」


 迷いはなかった。


 だからこそ。


 その答えは重かった。


 一拍置いて。


 律子は胸の前で手を握る。


「和人さんが」


 笑った。


「私を地獄から救い出してくれたんです」


 和人が小さく眉を動かした。


「世界に色が戻ったんです」


「毎日が楽しくて」


「毎朝起きるのが楽しみで」


「未来のことを考えるのが怖くなくなりました」


 律子は横を見る。


 和人がいる。


 それだけで胸が温かくなる。


「だから」


「私は幸せです」


 優しい笑顔だった。


 その瞬間。


 律子は久男の瞳を見た。


 和人と同じ色だった。


 穏やかで。


 優しくて。


 けれど――


 その奥にあるものは違う。


 深い。


 あまりにも深い。


 まるで底の見えない海だった。


 静かで。


 穏やかで。


 それなのに恐ろしい。


 長い人生。


 数え切れない別れ。


 数え切れない戦い。


 そんなものが沈殿しているようだった。


 久男は無言のまま和人を一瞥する。


 そして小さく頷いた。


「そうですか」


 それだけだった。


 それだけなのに。


 なぜだろう。


 律子には十分だった。


 やがて久男が立ち上がる。


「帰ります」


 敦子も立ち上がった。


「えっ、もう?」


 律子が驚く。


 久男は苦笑した。


「人を品定めできるほど立派な人間じゃないので」


 そして少しだけ目を細める。


「二人が幸せなら」


「それで十分です」


 律子の胸が熱くなった。


 すると。


 久男が初めて真正面から律子を見た。


「失礼ですが」


「はい?」


「母に似ています」


 律子は首を傾げた。


「お母様ですか?」


乙女おとめ


 その名前を口にした瞬間。


 久男の声が柔らかくなる。


「私の母です」


 遠い記憶を見るように。


「強くて」


「優しくて」


「誇り高い人でした」


 少しだけ笑う。


「自慢の母でした」


 律子は思わず背筋を伸ばした。


 その言葉が。


 何より嬉しかった。


「実家は九州の田舎なんです」


 久男は続ける。


「いつでも遊びに来てください」


 律子の目が丸くなる。


「ということは……」


 期待を込めて聞く。


 久男は答えない。


 ただ肩を竦めた。


 それだけだった。


 でも。


 十分だった。


(認めてくれた……)


 胸がいっぱいになる。


 横を見る。


 和人は不機嫌そうな顔をしていた。


 けれど。


 どこか安心したようにも見えた。


「和人さんっ!」


 律子は勢いよく抱きついた。


「うわっ!」


「もう私、成川の嫁だよっ!」


「いや、まだだから」


「細かいことはいいの!」


「よくないから!」


 敦子が吹き出す。


「相変わらずだねぇ」


 そんなやり取りを見て。


 久男もわずかに口元を緩めた。


 そして帰ろうとして――


 不意に足を止める。


 振り返らない。


 そのまま静かに言った。


「律子さん」


「はい?」


 久男は続ける。


「持っているのでしょう」


 その瞬間。


 ドクン。


 ポケットの中で。


 肉の鍵が脈打った。


 律子の肩が震える。


 何のことか。


 言葉にはしていない。


 それでも分かった。


 分かってしまった。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


 まるで生き物のように鍵が脈動する。


 久男は振り返らない。


「……」


 律子も答えられない。


 沈黙だけが流れる。


 やがて久男は歩き出した。


「では」


 敦子も慌てて後を追う。


「じゃあねー!」


 玄関の扉が閉まる。


 静寂。


 律子はしばらく動けなかった。


 すると。


 隣の和人が呆然と呟く。


「……初めて見た」


「え?」


 律子が振り返る。


 和人はまだ信じられないという顔をしていた。


「父さんが」


 ぽつり。


「人を褒めるの」


 そして律子を見る。


「本当に初めて見た」


 律子は目をぱちくりさせた。


 胸の奥が温かくなる。


 視線を落とす。


 テーブルの上には。


 いつの間にか置かれていた地元の饅頭。


 久男は最後まで。


 認めたとも。


 歓迎するとも言わなかった。


 けれど――


 その饅頭だけが。


 言葉より雄弁に。


 律子を家族として迎え入れていた。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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