第37話 深淵を見るな。
土曜日。
成川和人のマンション。
リビングには、どこか張り詰めた空気が流れていた。
律子は背筋を伸ばしてソファに座る。
その隣には和人。
しかし――。
普段なら穏やかな和人が、珍しく落ち着かない様子だった。
何度も時計を見る。
足が小刻みに揺れている。
まるで試験結果を待つ学生のようだ。
「和人さん?」
「ん?」
「緊張してる?」
「してない」
即答だった。
しかし律子は知っている。
こういう時の和人は大体緊張している。
そして。
玄関の扉が開いた。
コツ。
コツ。
ゆっくりとした足音。
リビングへ現れたのは、小柄な女性だった。
六十代ほど。
パンチパーマ。
大きな虎が描かれたTシャツ。
黒いパンツ。
片手には煙草。
どこにでもいそうな近所のおばちゃん。
……のはずだった。
だが。
和人が立ち上がる。
その動きが不自然なほど硬い。
律子は思わず目を瞬いた。
信人ですら見せなかった緊張だった。
女は煙草を灰皿へ押し付ける。
じゅっ。
小さな音が響く。
それだけで部屋の空気が変わった気がした。
「あんたが律子さんかい」
しゃがれた声。
だが不思議と耳に残る。
「は、はい」
律子は慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そうかい」
女は短く頷く。
「ご両親は?」
「他界しています」
「今は姉と二人暮らしです」
「そうか」
それだけだった。
だが。
律子は感じていた。
この人は見ている。
表情ではなく。
もっと奥を。
人間の本質を。
「その姉さんも信人の婚約者なんだろ」
「はい」
女は肩をすくめた。
「あいつは私の妹の子だ」
「えっ」
律子の目が丸くなる。
「そうなんですか?」
「血は少し特殊だけどね」
それ以上は語らない。
まるで話題そのものを閉じるように。
煙草に火が付く。
紫煙が天井へ昇っていく。
そして。
律子は無意識に鑑定眼を起動しかけた。
魂。
波動。
本質。
それを見るための力。
だが――。
次の瞬間。
世界が変わった。
銀色の森。
月明かり。
風の音。
果てしなく続く樹海。
そして。
その奥。
何かがいた。
巨大な何か。
理解してはいけないもの。
見てはいけないもの。
律子は反射的に鑑定を切った。
背筋が冷たい。
手が震える。
「やめな」
声がした。
戮子だった。
律子の身体がびくりと跳ねる。
「その目だよ」
見透かされていた。
完全に。
「昔の名前なんてどうでもいい」
煙を吐き出す。
「昔の私は死んだ」
「今は成川戮子だ」
沈黙。
そして。
戮子は律子を真っ直ぐ見た。
「忠告しとく」
低い声。
「和人を鑑定するんじゃないよ」
律子が固まる。
「えっ……」
「私じゃない」
戮子は即座に否定した。
そして。
静かに続ける。
「和人だ」
ぞくり。
背筋に悪寒が走る。
「深淵を覗く時」
「深淵もこちらを覗いている」
煙草の火が赤く灯る。
「いいかい」
「覗くんじゃないよ」
その言葉だけは。
冗談ではない。
律子には分かった。
本能が告げていた。
絶対に。
触れてはいけない領域だと。
しばらくして。
戮子は立ち上がった。
「明日、旦那が来る」
その瞬間。
和人の顔が露骨に曇った。
律子は見逃さなかった。
母親より嫌そうだった。
「お義父さんですか?」
「私は野暮用があってね」
戮子は笑う。
「昔馴染みに会いに行くのさ」
煙草を灰皿へ押し付ける。
「あんたのことは旦那に任せてある」
そう言い残し。
女は去っていった。
残された煙だけが。
律子の胸の不安のように漂っていた。
翌日。
日曜日。
午前十時。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
和人の顔が引きつった。
「あっ」
律子が立ち上がる。
しかし。
「出なくていい」
和人が即座に言った。
「え?」
「出なくていい」
二回言った。
本気だった。
「でも、お義父さんかも」
和人は首を横に振る。
会いたくない。
顔にそう書いてある。
その時。
インターホンから明るい声が響いた。
『律子ちゃーん!』
聞き覚えのある声。
『お義姉さんだよー!』
『開けてー!』
「あっ!」
律子の顔が明るくなる。
「敦子さん!」
玄関へ駆ける。
後ろから。
「姉さん……」
和人が頭を抱えた。
そして。
扉を開ける。
そこにいたのは。
成川敦子。
そして。
隣の男性だった。
小柄。
痩せ型。
黒縁眼鏡。
地味なシャツ。
地味なズボン。
どこにでもいそうな中年男性。
本当に。
どこにでもいそうだった。
だからこそ。
律子は寒気を覚えた。
気配がない。
立っているのに。
そこにいるのに。
存在感が異様に薄い。
まるで最初から風景の一部だったみたいに。
敦子が頭を掻く。
「ごめんねー」
「こうでもしないと和人逃げるから」
「姉さん!」
「ほら」
敦子が笑う。
「やっぱり逃げようとしてた」
和人が黙る。
図星だった。
「はじめまして」
男性が一歩前へ出た。
穏やかな笑み。
柔らかな目。
礼儀正しい動作。
完璧だった。
だから余計に不気味だった。
「成川久男です」
深く頭を下げる。
「和人の父をしております」
律子は理解した。
和人が母親を恐れる理由を。
そして。
父親から逃げようとしていた理由も。
成川家で一番危険なのは誰なのか。
その答えが。
今。
目の前にいる気がした。
――嵐が来る。
しかも。
静かに笑いながら。
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