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第36話 幸せの帰り道と、嵐を連れてくる女

 翌日――。


 信人の黒塗りのセダンは、山道をゆっくりと下っていた。


 窓の外には青々とした田畑。


 初夏の風が流れていく。


 そして――助手席。


 そこには終始ご機嫌な女性がいた。


 月戸聖子。


 窓に映る自分の顔を見ては微笑み、


 運転席の信人を見ては微笑み、


 また窓の外を見ては微笑む。


 何がそんなに嬉しいのか。


 本人にもよく分からない。


 ただ一つだけ分かることがある。


 幸せだった。


 恋人ができた。


 好きな人ができた。


 しかも、自分が選んだ男だ。


 それだけで世界が少し違って見える。


 ふと後ろを振り返る。


 後部座席。


 和人と律子が肩を寄せ合って眠っていた。


 規則正しい寝息。


 完全に寝落ちしている。


「ふふっ」


 思わず笑みがこぼれる。


「そっちも上手くいったみたいね」


 実際には何もなかった。


 何もなかったのだが。


 見た目だけなら新婚旅行帰りである。


「そうですか?」


「そういうところよ」


 首を振る聖子。


 信人は本気で分かっていない。


 そこがまた面白い。


 やがて車はマンションへ到着した。


 荷物を下ろす信人。


 和人と律子も目を覚まし、荷物を持ち始める。


 そんな中。


 聖子は少しだけ寂しそうに言った。


「寄ってかない?」


 信人の動きが止まる。


 少しだけ考えて。


 そして。


「いえ」


「寄ると、もう離れられなくなりそうですから」


 沈黙。


 風が吹く。


 数秒後。


「えっ」


 聖子の目が丸くなった。


「えっ?」


 もう一度。


「えっ!?」


 両手で口を覆う。


「そんなこと言えるようになったの!?」


 信人が首を傾げる。


「昨日からずっと一緒にいましたが」


「何か変化がありましたか?」


「あるわよ!」


 即答だった。


「もしかして本物は宇宙トカゲに攫われたとか?」


「洗脳されたとか?」


「誘拐された形跡はありません」


 真顔で答える信人。


「事実です」


 聖子は胸を押さえた。


 少し前なら。


 絶対に言わなかった。


 でも今は違う。


 不器用ながら。


 ちゃんと伝えようとしている。


 それだけで十分だった。


 胸が温かくなる。


「今のもう一回」


 スマホを取り出す。


 録音モード。


「録音するから」


「はい」


 素直に頷く信人。


 そして。


「昨日からずっと一緒にいましたが」


「誘拐された形跡はありません」


「違うわよ!!」


 聖子の絶叫が響く。


「その前!」


「寄ると離れられなくなるってやつ!!」


 後ろでは。


 律子が腹を抱えて笑っていた。


「お義兄さん最高」


「天然で強い」


 和人も苦笑する。


「信人さんらしいなぁ……」


 ようやく全員が笑い合う。


 そんな空気の中。


 聖子は一歩前へ出た。


 信人も足を止める。


 自然と。


 二人は抱き合った。


 少しだけ。


 離れたくなくて。


 思ったより長く。


 誰も茶化さない。


 誰も邪魔しない。


 ようやく身体を離し。


 聖子は背伸びをする。


 そして。


 軽く頬にキスをした。


 信人が固まる。


「じゃあね」


 聖子が笑う。


 その笑顔は、


 討伐軍時代の剣聖ではなく。


 ただの恋する女の子だった。


 その様子を見た律子は。


「いいなぁ……」


 ぽつり。


 隣の和人を見る。


「私もああいうことしたい」


「えっ」


 和人が固まる。


「いや、その……」


「僕達は卒業してから」


 しどろもどろになる。


 律子は満面の笑みを浮かべた。


「約束だよ?」


「もう取り消せないからね」


「うっ……」


 和人が言葉に詰まる。


 そんな彼を見て。


 律子は幸せそうに笑った。


 こうして。


 波乱だらけのお泊まりデートは幕を閉じたのである。




 数日後。


 金曜日の夜。


 和人のスマホが鳴った。


 表示された名前を見て。


 和人の顔が微妙に引きつる。


「母さんだ」


 通話ボタンを押す。


「はい」


『久しぶりだねぇ』


 聞き慣れた声。


 しかし。


 和人の背筋は伸びる。


『明日そっち行くから』


「うん」


 横で聞いていた律子の心臓が跳ねた。


(お義母さん……!)


 まだ違う。


 まだ違うのだが。


 本人の中では半分くらい確定している。


『聞いてるんだろ』


「うん、まあ」


『楽しみにしてるよ』


 電話は切れた。


 静寂。


 和人は深いため息を吐く。


「まずいな……」


「母さんが来る」


 その瞬間。


 律子の脳内で昼ドラが始まった。


 重厚な和室。


 正座する律子。


 上座には成川戮子。


 腕組み。


 圧倒的威圧感。


「律子さん」


「はい……」


「孫はまだなのかい?」


「ひぇっ」


「成川の嫁になるなら三人は産みな」


「すみませんお義母さん!」


「律子!」


 和人が立ち上がる。


「母さん!」


「律子は悪くない!」


「ふん」


 戮子が鼻を鳴らす。


「尻に敷かれてるね」


「和人さん……」


「君さえいればいいんだ」


「和人さん!」


「律子!」


 抱き合う二人。



 現実。


「おーい」


 目の前で手が振られる。


「戻ってこーい」


 和人だった。


「ああ」


 ため息を吐く。


「また旅立ってる」


 律子はにへらっと笑った。


 しかし。


 彼女はまだ知らない。


 自分が想像しているような、


 厳しい義母など可愛いものだということを。


 成川戮子。


 和人が頭の上がらない女。


 信人が露骨に顔をしかめる女。


 箱崎守が、


「あれには関わるな」


 と真顔で言った女。


 そして。


 玉藻佐知子が酒を飲みながら、


「昔、一回だけ仕留め損なったのよねぇ」


 と笑った女。


 本人だけが。


 それを武勇伝とも思っていない。


 翌日。


 嵐が来る。


 本物の嵐が。




☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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