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第35話 狼と呼ばれた女

 夜。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った屋敷の一室。


 柔らかな照明に照らされたリビングで、聖子と信人は向かい合って座っていた。


 テーブルの上には湯気の立つカップが二つ。


 聖子の前にはコーヒー。


 信人の前にはホットミルク。


 窓の外からは虫の声が聞こえる。


 穏やかな時間だった。


 けれど。


 今から交わされる話は、決して穏やかなものではない。


 信人がカップを手に取る。


「君たちが向こうの世界から来たことは知っていたよ」


 静かな声だった。


「敦子ちゃんから聞いていたからね」


 聖子は驚かなかった。


 むしろ納得していた。


(でしょうね)


(あなたなら、そのくらい調べる)


 この男はそういう男だ。


 見落とさない。


 取りこぼさない。


 必要な情報は必ず集める。


「どうしてこっちの世界に来たのかも知っている」


 沈黙。


 数秒。


 やがて聖子が口を開く。


「で?」


「うん?」


「あなたは何者なの?」


 信人は少し考えた。


 そして答える。


「経営コンサルタントだよ」


「嘘」


 即答だった。


 信人が少しだけ目を瞬く。


「本当なんだけどな」


「絶対違う」


「いや、本当に」


 困ったように笑う。


「ただ顧客があまり表に出たがらない人たちなだけで」


「どういう人たち?」


「会社経営者とか投資家とか」


「他には?」


「資産家」


「他には?」


「政治家」


「他には?」


「……色々」


「ほら」


 聖子が呆れた顔になる。


 信人は諦めたように肩を竦めた。


「節税方法の提案」


「資産運用」


「企業再建」


「M&A」


「数字を追ってお金の流れを分析する」


「誰も読めない帳簿を読む」


「不正会計を探す」


「資金洗浄の痕跡を探す」


「そういう仕事かな」


 聖子は無言になった。


 どう聞いても普通ではない。


「裏社会の金庫番ってこと?」


「どうだろう」


 信人はホットミルクを一口飲む。


「上場企業も顧客にいるからね」


 さらりと言う。


 余計に怖い。


「年収五億っていうのは嘘だけど」


「ほら!」


 聖子が指差す。


 やっぱり。


 やっぱり嘘だった。


 そう思った次の瞬間。


「十億くらいかな」


「……は?」


「円じゃないけど」


「は?」


「現金だけじゃなくて絵画とか金とか色々」


「は?」


「海外にもあるし」


 聖子は頭を抱えた。


 理解を拒否した。


 脳が処理を放棄した。


「でね」


 信人が続ける。


「たまにお客が来るんだ」


「お客?」


「招待してないのに」


「……」


「この前の人たちもそうかなと思って」


 絶句。


 聖子はしばらく天井を見上げた。


 頭痛がする。


 色々な意味で。


「佐知子さんと箱崎さんは何者なの?」


 話題を変える。


 変えないとやっていられない。


 信人は少しだけ表情を柔らかくした。


「二人とも僕の師匠だよ」


 その声音には敬意が滲んでいた。


「特に佐知子さんには色々教わった」


「ほんとに息子みたいに可愛がってくれてね」


「今の僕を作ったのはあの人だと思う」


「箱崎さんからは?」


「鹿撃ちと花火」


「絶対違うでしょ」


「本当だよ」


 信人は真面目な顔だった。


 だから余計に怖い。


「今でも勝てない」


 ぽつりと漏れる。


 その言葉だけは本音だと分かった。


 聖子は深く息を吐いた。


「こんなことだろうと思ったわ」


 薄々気づいていた。


 普通じゃない。


 最初から。


 草刈りをしているのにどこか浮世離れしている。


 優しいのに危うい。


 穏やかなのに底が見えない。


 そんな男だった。


 すると。


 信人が少しだけ視線を落とした。


「やっぱり……」


 小さな声。


「付き合うの、やめておく?」


 その言葉に。


 聖子は思わず目を見開いた。


 強い男だと思っていた。


 何でもできる男だと思っていた。


 けれど。


 今の信人は違う。


 捨てられることを恐れている子供のようだった。


 怖い。


 正直に言えば怖い。


 この男は自分の知らない世界を生きている。


 金。


 権力。


 裏社会。


 血なまぐさい争い。


 普通の人間なら一生関わらない場所。


 この男はそこで生きている。


 それでも――


 朝になれば草を刈る。


 近所のおばあちゃんから野菜を貰う。


 甘い物を食べると目を輝かせる。


 ソルトライムのレシピを嬉しそうに語る。


 私が見てきたのは。


 そんな男だ。


「無理よ」


 信人の肩が僅かに落ちた。


 その表情を見た瞬間。


 聖子の胸が痛んだ。


 この男は強い。


 誰よりも強い。


 けれど。


 恋愛だけは不器用で。


 自分が捨てられる可能性を、本気で恐れている。


 そんな顔だった。


「今さら」


 聖子は立ち上がる。


「今さら離れるなんて無理に決まってるでしょ」


 信人が顔を上げる。


 次の瞬間――


 ぐいっと襟元を掴んだ。


「聖子さ――」


 言葉は最後まで続かなかった。


 聖子が身を乗り出す。


 そして。


 唇が重なった。


 静かな夜だった。


 時計の音だけが聞こえる。


 信人の瞳が見開かれる。


 数秒。


 いや、もっと長かったかもしれない。


 ようやく唇が離れる。


 細く伸びた吐息が混じった。


「せ、聖子さん……?」


 珍しく狼狽している。


 そんな姿に少しだけ満足しながら、聖子は襟元を掴んだまま言った。


「聞きなさい」


 逃がさないように。


 しっかりと。


 掴む。


「私はあなたを捕まえたの」


「選んだのも私」


「責任取りなさい」


 真っ直ぐ見つめる。


「もう逃がさない」


「あなたは私のもの」


「私だけのもの」


 信人が固まる。


 聖子はさらに畳みかけた。


「今さら他の女にしたいなんて言い出しても手遅れ」


「却下」


「認めない」


「絶対に」


 その瞬間。


 信人が小さく笑った。


 そして呟く。


「狼だな」


「何がよ」


「犬神家ではね」


 穏やかな声。


「伴侶を見つけた女性を狼って呼ぶんだ」


「どうして?」


「一度獲物を見つけたら離さないから」


「誰が狼よ!」


「君」


「信人!」


 思わずクッションを投げる。


 信人は避けなかった。


 胸に当たったクッションを抱えながら微笑む。


 ほんの少しだけ。


 本当に少しだけ。


 けれど。


 聖子は知っている。


 それが彼にとってどれほど大きな笑顔なのか。


 孤独だった男が。


 ようやく居場所を見つけたような。


 そんな笑顔だった。


 聖子は照れ隠しのように咳払いをする。


「それと」


「うん?」


「私たちも同じ部屋で寝るから」


 ぴたり。


 信人が固まる。


「あんたキャンピングカーで寝るつもりだったでしょ」


「……ばれたかな?」


「ばれるわよ」


 思わず吹き出す。


「観念しなさい」


 信人は少し考えて。


 そして素直に頷いた。


「うん」


 それでいい。


 それだけでいい。


 コーヒーとホットミルクの湯気が静かに混じり合う。


 夜はまだ長い。


 けれど二人はもう迷わない。


 互いの秘密も。


 過去も。


 全部抱えたまま。


 少しずつ家族になっていくのだから。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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