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第34話 外堀包囲網と眠れない夜

 夜。


 犬神家の客間。


 古い梁が走る落ち着いた和室。


 障子越しに月明かりが差し込み、部屋を淡く照らしていた。


 その静かな空間で――


 和人は立ち尽くしていた。


「……まずい」


 視線の先。


 敷かれた布団は一組。


 枕は二つ。


 そして隣には律子。


 頬を染めながら俯いている。


 沈黙。


 気まずい。


 いや、気まずいどころではない。


 心臓がうるさい。


「し、仕方ないですね……」


 律子が小さく呟く。


「部屋が足りないんですから……」


 口元を隠す。


 だが隠しきれていない。


 口角が上がっている。


 完全に上がっている。


(ふふふ……)


(お義兄さん、ありがとうございます)


(作戦成功です)


 元聖女とは思えない悪い顔だった。


 恋とは人を変えるものである。


 時は数時間前に遡る。


 朝食後。


 和人が席を外したタイミング。


 信人、聖子、律子の三人が居間に残っていた。


 律子はおずおずと切り出した。


「実は……」


「和人さん、最近あまり眠れてないみたいなんです」


 それは本当だった。


 ただし原因は別である。


 律子が夢に侵入しようとしたり、夜中に会いに行こうとしたりするからだ。


「なるほど」


 信人は真剣な顔で頷いた。


「睡眠不足は判断力の低下を招きます」


「放置は良くありませんね」


(通った!)


 律子の心の中で鐘が鳴る。


「環境が変わると、さらに眠れなくなるかもしれませんし……」


「私が近くにいた方が安心できるかなって……」


 聖子が吹き出しそうになる。


 必死に耐える。


 信人は腕を組んだ。


 数秒考える。


 そして。


「合理的ですね」


「えっ?」


 今度は月戸姉妹が固まった。


「安心できる環境を整えるのは重要です」


「睡眠の質は翌日のパフォーマンスに直結しますから」


 百パーセント本気だった。


(そうじゃない)


(そうじゃないんだけど)


 姉妹の心が完全に一致する。


 さらに律子は追撃する。


「和人さん、照れ屋なので……」


「たぶん本人は言えないと思うんです」


「そういうものですか」


「そういうものです!」


 力強く断言する。


 信人は納得したように頷いた。


「分かりました」


「では配慮しましょう」


(勝った)


 律子は心の中でガッツポーズした。


 そして現在。


 和室。


「やっぱり僕、別の部屋で――」


 立ち上がろうとした和人。


 その袖を律子が掴む。


「逃げるの?」


「いや……」


「私と同じ部屋は嫌?」


 真っ直ぐな瞳。


 反則だった。


 和人は視線を逸らす。


「そういう問題じゃないんだ」


「じゃあどんな問題?」


「……緊張する」


 律子は一瞬だけ目を丸くした。


 そして。


 ふわりと微笑む。


「私もだよ」


 その一言で。


 和人は何も言えなくなった。


 やがて灯りが消える。


 二人は布団に入った。


 静かな夜。


 虫の声。


 風の音。


 そして。


 眠れない二人。


(寝られるわけないだろ……)


 和人は天井を見つめる。


 隣から律子の気配が伝わってくる。


 近い。


 とにかく近い。


 すると。


「うーん……」


 律子が寝返りを打つ。


 肩が触れる。


 和人の心拍数が跳ね上がる。


(無理だ)


(これは無理だ)


 一方。


 律子も眠れていなかった。


(やばい)


(やばいやばいやばい)


(距離近い)


(尊い)


(心臓が爆発する)


 恐る恐る近づく。


 ほんの少しだけ。


 すると。


 隣から小さな声が聞こえた。


「ありがとう……」


 律子の身体が固まる。


 和人は眠っていた。


 寝言だった。


「いつも……ありがとう……」


 律子の心臓が止まりそうになる。


 さらに。


「君は……僕の聖女様だ……」


(えっ)


(今なんて?)


(聖女様?)


(私?)


(私だよね?)


 混乱する。


 しかし寝言は続く。


「ずっと……そばにいてくれて……」


「君がいるから……僕は……」


 律子は布団の中で悶絶した。


(やばい)


(死ぬ)


(これ録音したい)


(無理)


(神様ありがとうございます)


 顔を真っ赤にしながら布団に潜る。


 結局。


 二人とも一睡もできなかった。




 その頃。


 犬神家の書斎。


 モニターの光だけが部屋を照らしていた。


 信人は静かに監視映像を確認している。


 村外れ。


 山道。


 異常なし。


 ――いや。


 異常があった。


 画面の端。


 黒い影が動く。


 数秒後。


 一体。


 二体。


 三体。


 影が倒れた。


 そして。


 ゆっくり近づいてくる老人。


 猟銃を肩に担いでいる。


 箱崎守だった。


 老人はカメラの方向を見る。


 軽く頷く。


 まるで。


「片付けておいたぞ」


 そう言っているようだった。


 信人はスマホを取り出す。


 コール。


 数回で繋がった。


『春日ビルメンテナンスです』


「犬神だ」


『お世話になります』


「鹿が三頭だ」


 短い沈黙。


『承知しました』


「全部オスだ」


『かしこまりました』


 信人は続ける。


「それと例の印の件だが」


『伝言を預かっています』


 再び沈黙。


『高位悪魔系統とのことです』


 信人の目が細くなる。


「そうか」


『専門家をご紹介できます』


「必要になったら頼む」


 通話が切れた。


 静寂。


 その時だった。


「やっぱり起きてた」


 後ろから声がする。


 振り返る。


 そこには聖子。


 部屋着姿。


 腕を組んで立っていた。


「眠れない?」


 信人が聞く。


 聖子は苦笑した。


「それはお互い様でしょ」


 そして。


 机の前まで歩いてくる。


 モニターを見る。


 信人を見る。


 しばらく沈黙。


 やがて聖子が口を開いた。


「そろそろさ」


「本当のこと話さない?」


 信人は黙る。


 聖子は続けた。


「私、馬鹿じゃないから」


「県道の件も」


「春日ビルメンテナンスも」


「箱崎さんも」


「全部普通じゃない」


 静かな声だった。


 責める声ではない。


 信人はしばらく考える。


 そして。


 小さく息を吐いた。


「そうだね」


 いつもの笑顔が少しだけ消える。


「話すべきかもしれない」


 聖子は微笑む。


「もう家族になるんだから」


 その言葉に。


 信人は少し驚いた顔をした。


 そして。


 ほんの僅かに笑った。


「そうかもしれない」


 二人だけの夜が始まる。


 そしてその頃。


 隣の客間では。


 寝不足で目の下に隈を作る未来が確定した二人が。


 必死に眠ろうとしていた。


 もちろん。


 一秒たりとも眠れていなかった。



☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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