第31話 元剣聖、伝説の師匠に弟子入りする。
山間の村を吹き抜ける風は、どこか懐かしい匂いがした。
窓を開ければ緑。
見渡せば緑。
空は青く、遠くには山々が連なる。
都会では味わえない景色だった。
そして――
走っている車の九割が軽トラックだった。
「軽トラしか走ってないじゃない……」
助手席から外を見ながら聖子が呟く。
運転席では信人が真面目な顔で頷いた。
「はい。農業地域ですので」
「黒塗りの高級車とかないの?」
「浮きます」
「即答!?」
後部座席から律子が吹き出した。
その隣で和人も苦笑している。
「まあ実際そうだよ。高級外車とか来たら村中の話題になる」
「なるほどねぇ……」
すると信人がふと思い出したように言う。
「そういえば、助手席は和人くんが座った方がよかったですね」
「なんでよ?」
「統計上、助手席側への衝突事故も一定数ありますので」
「うん」
「私が死ぬ確率を下げられます」
「最低!」
聖子が即座にツッコむ。
しかし信人は首を傾げた。
「私が死ぬと皆さんが困ると思いましたので」
「うっ……」
「結果的には皆さんの利益になります」
「言い方ぁ!」
律子が腹を抱えて笑う。
和人も慣れた様子だった。
「平常運転だから」
「本当に変な人ね……」
聖子は額を押さえた。
だが、その口元はどこか楽しそうだった。
◇
最初に案内されたのは滝だった。
轟々と流れる水。
木漏れ日。
冷たい飛沫。
確かに美しい。
だが――
「昔、和人くんがここで溺れました」
「言わないでよ!」
「えっ!?」
聖子と律子が同時に振り返る。
「小学生の頃ね」
「助けたの私です」
「自分で泳いで戻れたから!」
「半分沈んでました」
「やめろ!」
一同爆笑。
続いて湖。
「ここは?」
「箱崎さんが宇宙トカゲにあった場所です」
「絶対嘘じゃん」
「レーザーガンを持ってたそうです」
「誰なのその人!」
律子が笑い転げる。
最後は古い神社。
そこで信人が真顔で言った。
「昔、白装束の集団を見ました」
「え?」
「夜中に」
「怖っ!」
「次の瞬間消えました」
「もっと怖っ!!」
「後で聞いたら神事だったそうです」
「紛らわしい!」
「なるほど」
信人は頷いた。
「こういう話を最初からすれば良かったんですね」
「そう!」
聖子が指を突きつける。
「景色じゃないの!」
「思い出!」
「エピソード!」
「トーク!」
「なるほど」
真剣にメモを取る信人。
「今度AIと会話練習します」
「そこじゃない!!」
再び全員が吹き出した。
◇
村で唯一のカフェ。
古民家を改装した店だった。
木の香り。
焼きたてのパンの匂い。
コーヒーの香り。
どこか心が落ち着く。
扉を開くと――
「いらっしゃい」
穏やかな女性の声。
上品なピンクのシャツ。
黒いスラックス。
小さなエプロン。
優しそうな笑顔。
玉藻佐知子だった。
「まあ」
佐知子が目を細める。
「信くんじゃない」
そして聖子を見る。
「お嫁さん?」
「ぶっ!?」
聖子が真っ赤になった。
続いて律子を見る。
「こっちは和人くんの恋人さんかしら?」
「恋人ですって♪」
律子が嬉しそうに笑う。
しかし。
「まだ違います」
信人が即答した。
沈黙。
佐知子が深々とため息を吐く。
「ごめんなさいね」
「こういう人なの」
「いえ……知ってます……」
聖子も遠い目をした。
◇
運ばれてきたランチは絶品だった。
焼きたてパン。
スープ。
肉料理。
ケーキ。
コーヒー。
「おいしい……」
「すごい……」
「都内でも通用するよこれ」
三人が感動している中――
信人だけ巨大なプリンアラモードを食べていた。
「また甘い物!?」
律子が思わず叫ぶ。
「ここのプリンは別格です」
真顔だった。
聖子はスプーンを伸ばす。
「ちょっと頂戴」
ぱくり。
目が見開く。
「なにこれ……」
「でしょう?」
信人が珍しく少しだけ嬉しそうに笑った。
その表情を見て。
律子は思った。
(お姉ちゃん、幸せそう)
胸が温かくなった。
◇
食後。
信人が口を開いた。
「お願いがあります」
「なあに?」
佐知子が微笑む。
「聖子さんを弟子にしていただけませんか」
空気が変わった。
佐知子の瞳が細くなる。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
聖子を見る。
「ふーん」
静かだった。
だが圧力がある。
「剣士ね」
聖子が固まる。
続いて。
律子へ視線が向いた。
「妹さんは聖職者かしら」
「――え?」
律子の顔色が変わる。
聖子も凍り付いた。
説明していない。
何も。
なのに。
見抜いた。
佐知子は紅茶を一口飲む。
まるで当たり前のように。
「違った?」
にこり。
笑う。
しかし律子は冷や汗が止まらない。
(この人……見えてる)
本能が警鐘を鳴らしていた。
佐知子は再び聖子を見る。
「どうして弟子になりたいの?」
その問いに。
聖子は少し黙った。
そして。
静かに答える。
「追いつきたいからです」
「誰に?」
「信人に」
即答だった。
「料理も」
「生活力も」
「精神力も」
「全部負けてる」
悔しそうに笑う。
「私は昔、剣だけで生きてきました」
「でも」
「この人を見てると」
「もっと強くなりたいって思うんです」
店内が静かになる。
佐知子はしばらく聖子を見ていた。
そして。
ふっと笑った。
「いいわ」
「え?」
「弟子は二人目ね」
聖子の顔が明るくなる。
「本当ですか!?」
「ええ」
佐知子は優しく微笑んだ。
「ただし」
その笑顔が少しだけ怖くなる。
「泣いても知らないわよ?」
「え?」
「楽しい修行にしましょうね」
その言葉に。
なぜか律子だけが震えた。
後になって聖子は知る。
自分が弟子入りした相手が、
かつて世界中の諜報機関を震え上がらせた伝説の工作員――
《ミラージュ》玉藻佐知子だったことを。
そしてその修行が、
想像の十倍は地獄だったことを。
その時の聖子は、まだ知らない。
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