第19話 渋い夕食と、猫が守る金曜の夜
金曜の夜。
食卓には湯気の立つ料理が並んでいた。
白いご飯。
味噌汁。
サバの味噌煮。
きんぴらごぼう。
派手さはない。
だが、どれも丁寧に作られていることが一目で分かる家庭料理だった。
「なんか渋いね」
和人が箸を手に取りながら笑う。
「でも、こういうのがいいんだよ」
その言葉に、律子は得意げに胸を張った。
「ふふん。こういうのも作れるって、いいでしょ」
「うん」
和人はサバを一口食べる。
「美味しい」
そして自然な口調で続けた。
「熟練の主婦みたいだね」
――その瞬間。
律子の脳内で何かが弾けた。
◇◇◇
『いつでもお嫁に来れるね』
『いや、もう来てるよね』
『えっ、まだ心の準備が……』
『君の作った味噌汁が毎朝食べたいんだ』
『それって……』
『ああ、律子』
優しく手を握られる。
『もう僕は君なしじゃ――』
◇◇◇
「おーい」
現実。
「聞こえてる?」
和人の声で律子は我に返った。
「あっ」
「大丈夫?」
「う、うん!」
慌てて姿勢を正す。
だが頭はまだ半分妄想世界にいる。
「毎朝、味噌汁飲みたいの?」
「え?」
和人が首を傾げる。
「朝はパン食べたい時もあるし、毎日はちょっと」
「あれっ?」
律子が固まった。
妄想と現実が繋がらない。
「さっきまでの話聞いてた?」
「えっ、う、うん」
聞いていなかった。
全く聞いていなかった。
「兄さんと姉さん来たんでしょ?」
和人はきんぴらごぼうをつまむ。
「あ、うん」
律子は慌てて味噌汁を持った。
「九州に帰るって。お義兄さん」
その時だった。
ポケットの中。
肉の鍵が――
とくん。
まるで心臓のように脈打った。
「ひゃっ」
律子が肩を震わせる。
一瞬だけ。
誰かに見られているような感覚。
背筋を冷たいものが走った。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
慌てて笑う律子。
ポケットを押さえる指先だけが少し震えていた。
だが和人は気付かなかった。
「で、ジャックは?」
周囲を見回す。
「ああ」
律子は窓の外を見る。
「『若え二人の邪魔をするほど野暮じゃねえよ』って」
◇◇◇
向かいのマンション。
ベランダ。
ジャックは煙草を咥えて夜空を眺めていた。
「いいねえ」
紫煙が漂う。
「若いってのは」
隣では聖子が呆れ顔だ。
「だからって人んち来る?」
「仕方ねえだろ」
ジャックは肩を竦める。
「二人の世界なんて居たたまれねえ」
「なら帰ればいいじゃない」
「若い連中を応援するのも大人の作法さ」
ふっと笑う。
少しだけ。
寂しそうに。
「これでも所帯持ちだったんだぜ」
聖子が目を細める。
「へえ」
「あのくらいの年頃の娘がいる」
煙を吐く。
「今じゃ誕生日の連絡も来ねえけどな」
軽く笑った。
だがその笑みには妙な哀愁が滲んでいた。
「少しくらい肩入れしたくなるってもんさ」
ジャックは階下を見る。
若い二人の住む部屋。
その灯りを。
しばらく眺めた。
それからスマホを取り出す。
発信。
数秒後。
『どうだい?』
しゃがれた老婆の声。
「ああ、婆さん」
ジャックは笑う。
「ビンゴだ」
『頼めるかい』
「いいぜ」
缶コーヒーを飲みながら答える。
「それとオモチャをもう少し送ってくれ」
『足りるかい?』
「二、三日なら保つ」
『祝詞は済ませておくよ』
「ああ。頼む」
通話終了。
ジャックは立ち上がった。
「俺はちょっと出る」
「どうした?」
聖子が尋ねる。
ジャックは口元を吊り上げた。
「パーティさ」
そして付け加える。
「招待状、無いけどな」
聖子の眉が上がる。
「危ない?」
「さあな」
ジャックはアロハシャツの襟を直した。
「玄関は絶対開けるな」
「ベランダから戻る」
そう言い残して夜の街へ消えた。
◇◇◇
十五分後。
路地裏。
暗闇が蠢いていた。
マンションを見上げる黒い影。
まるで獲物を観察するように。
「おい」
低い声。
「人んち覗き見とは悪趣味だな」
黒い影が振り向く。
霧のような身体が形を持ち始める。
スーツ姿の男。
人間に見える。
だが違う。
指先が刃物のように伸びていた。
「誰だ」
男が問う。
ジャックは懐から拳銃を抜いた。
「猫さ」
男が嗤う。
「そんなもの――」
言葉の途中。
男が消えた。
地面を抉りながら突進する。
「ちっ!」
ジャックが飛び退く。
髪が数本宙を舞った。
「おいおい」
頭を押さえる。
「やっと生え揃ったんだぞ」
若い頃なら余裕だった。
だが今は違う。
膝が軋む。
歳は取りたくない。
男が再び飛びかかる。
その瞬間。
銃口が火を吹いた。
轟音。
魔族の身体が吹き飛ぶ。
地面を転がる。
「がはっ……!」
肩から胸にかけて大穴が空いていた。
「な……ぜ……」
「そりゃ効くだろ」
ジャックが近づく。
「法儀式済みの水銀弾だ」
男の顔が歪む。
牙が覗いた。
ジャックは鼻を鳴らす。
「悪魔か魔族か」
「そんなところだな」
銃口を額に突き付ける。
「で」
静かな声。
「あのマンションに何の用だ」
男は答えない。
血を吐く。
そして薄く笑った。
「……もう……」
そこで言葉は途切れた。
ジャックの目が細まる。
だが追及はしない。
「そうか」
引き金を引く。
乾いた銃声。
静寂。
男は動かなくなった。
ジャックは周囲を見回す。
そして暗闇へ視線を向けた。
「もう一人いるな」
煙草を咥える。
火を付ける。
紫煙が夜へ溶けた。
「若い連中の週末くらい」
ジャックは呟く。
「静かに過ごさせてやれよ」
そのまま夜の闇へ消えていった。
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