第18話 家族の鍵と、猫のおっさん
それは、金曜日の夕方に起こった。
(今日は先生、残業で少し遅くなるみたい)
律子は慣れた足取りでマンションへ向かった。
週末。
それは今の律子にとって、何より楽しみな時間だった。
和人と過ごせる二日間。
それだけで一週間頑張れる。
そんなことを考えながら玄関の前に立ち――
ふと違和感を覚えた。
「あれ……?」
鍵が開いている。
和人が帰宅したのだろうか。
そう思いながらドアを開く。
すると。
玄関には見慣れない靴が並んでいた。
男物。
そして女物。
律子の胸が小さく跳ねる。
リビングへ入る。
そこには正人がいた。
そして――
その隣には。
黒髪。
黒のジャンプスーツ。
大人の色気を纏った美しい女性。
二人は楽しそうに会話していた。
胸がチクリと痛む。
綺麗。
私より大人。
私より落ち着いていて。
私より――似合う。
頭の中に嫌な想像が溢れ出す。
昔の恋人。
婚約者。
忘れられない相手。
そんな単語が次々と浮かんだ。
「やあ、勝手に上がってるよ」
正人が笑う。
「……はい」
律子の声は沈んでいた。
視線は女性から離れない。
「そ、その横の方は……?」
すると女性は妖艶に微笑んだ。
「はじめまして」
そして。
悪戯っぽく口角を上げる。
「和人の大事な人よ」
世界から音が消えた。
真っ白になる。
いや。
真っ黒だ。
(やっぱり)
(私なんかじゃ)
(先生の隣には……)
絶望。
律子の脳内昼ドラが始まる。
「今まで私の代わりに主人がお世話になったわね」
黒髪の美女が優雅に微笑む。
「えっ……先生、独身じゃ……」
震える律子。
美女は肩を竦める。
「あの人ったら女と見れば誰でもなの」
「もう五回目よ」
「ご、ごかいめ……」
「でも安心して」
美女は勝者の余裕で微笑む。
「結局、あの人が愛しているのは私だから」
「そんな……」
「若い子との恋もいい思い出になるわ」
完敗だった。
脳内で。
完全敗北していた。
一方現実。
正人は頭を抱えていた。
(ああ……)
(完全に誤解してる)
隣を見る。
女性は舌を出した。
ごめん。
そんな顔だった。
正人は睨む。
余計なこと言うな。
女性は肩をすくめる。
まさか本気にするとは。
しかし律子はまだ昼ドラ世界。
「違うよ」
「おーい」
「律子ちゃーん」
正人が手を振る。
「は、はい……」
やっと帰還した。
正人は隣の女性を見た。
「お前、悪趣味だぞ」
「ごめんごめん」
女性は笑う。
「だって律子ちゃん可愛いんだもん」
「今どきこんな純情な子、天然記念物よ?」
そして胸に手を当てた。
「私は成川敦子」
「和人の姉よ」
「えっ」
律子の目が見開かれる。
「お義姉さん!?」
世界に色が戻った。
空気が戻った。
音が戻った。
人生が戻った。
「うん」
敦子は笑う。
「可愛いわねぇ」
すると正人が大きなキャリーケースを持ち上げた。
「それと」
「この子預かってほしいんだ」
「え?」
中を見る。
三毛猫だった。
オス。
だが。
どこか妙に目つきが悪い。
「うちの嫁と折り合い悪くてさ」
「同居できないんだ」
「和人なら相性いいと思うから」
ガチャ。
扉が開く。
猫が出てくる。
次の瞬間。
身体が膨張した。
骨格が変化する。
毛皮が服へ変わる。
現れたのは――
アロハシャツ。
半ズボン。
中年のおっさん。
完全におっさん。
どう見てもおっさん。
猫要素がほぼ無い。
「ケージ狭えな」
肩を回す。
「どこのおじさんですか!?」
律子が叫んだ。
「失礼な嬢ちゃんだな」
ポケットから缶コーヒーを取り出す。
プシュ。
一口飲む。
完全に会社帰りのおっさんだった。
「ジャックだ」
「しばらく世話になるぜ」
「あと安い猫缶は食わねぇ」
「そういうところだよ」
正人がため息を吐く。
「刹那と折り合い悪い原因」
「猫にも食の好みはある」
その時だった。
正人の表情が変わる。
真面目になる。
「律子ちゃん」
「君に渡したい物がある」
空気が張り詰めた。
律子も背筋を伸ばす。
「家が普通じゃないのは知ってるよね」
「はい」
「成川家は邪法使いの家だ」
正人が掌を開く。
そこから現れた。
赤黒い肉塊。
脈打つ血管。
骨のような突起。
生きている。
なのに神々しい。
異様なのに美しい。
ジャックが目を見開いた。
「おい」
「まさか」
「肉の鍵か」
「本当に渡すのか?」
正人は静かに頷いた。
「いいんだ」
「律子ちゃんの後見人として認めた」
そして真っ直ぐ見つめる。
「次の世代に託したい」
「母さんと僕から」
沈黙。
正人が優しく笑う。
「もちろん意味は分かるよね」
ジャックが口を開く。
今度は冗談ではなかった。
「嬢ちゃん」
真剣な目だった。
「家族になるってのはな」
「好きだ愛してるより重い」
律子は息を呑む。
「逃げたくても逃げられねぇ」
「憎んでも見捨てられねぇ」
「それでも背負うって話だ」
静かな声だった。
人生を知る者の声。
「それでも受け取るか?」
律子は鍵を見る。
鼓動が速くなる。
これを受け取れば。
きっともう戻れない。
普通の人生には。
でも。
そんなもの。
最初から望んでいない。
(私は和人さんと家族になりたい)
(ずっと一緒にいたい)
(守りたい)
(支えたい)
「和人さんは知ってるんですか?」
「知らない」
正人は即答した。
「でも僕は君を家族として認める」
「和人がどう答えるかは和人次第だ」
「それでも僕は君を信じてる」
敦子も優しく笑った。
「辛い時は一人で抱え込まないこと」
「家族ってそういうものだから」
律子の目頭が熱くなる。
正人は続けた。
「和人を頼む」
「……」
「あいつは人を助けることばかり覚えて」
「自分が幸せになる方法を知らない」
静かな声だった。
兄の声だった。
「だから」
「今度は君が助けてやってくれ」
律子は拳を握る。
胸の奥で何かが燃えた。
もう迷わない。
「断る理由はありません」
肉の鍵を握る。
温かかった。
まるで生き物のように。
正人が微笑む。
「そう言うと思ったよ」
敦子が飛びついた。
「可愛いー!」
「義妹だー!」
ぐりぐり。
頬を押し付けられる。
「ちょ、ちょっと!」
ジャックは窓の外を眺めた。
そして小さく鼻を鳴らす。
「ふん」
静かに呟く。
「まあ」
「いいんじゃねえか 」
律子は鍵を胸に抱いた。
そして。
真っ直ぐ正人を見た。
「約束します」
その瞳には迷いがない。
「絶対に幸せにします」
「和人さんを」
その言葉を聞いた正人は。
ようやく安心したように笑った。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。




