第16話 額のキスは、まだ“好き”の途中。〜元聖女な陰キャ女子、進路希望欄に“先生のお嫁さん”を書きかける〜
日曜の夜――。
律子は、完全に魂が抜けていた。
ぽー……。
頬杖をつきながら、焦点の合わない目で虚空を見つめる。
そして。
「えへへへへへ……♡」
だらしなく緩む口元。
時折、額を押さえては、またニヤける。
完全に重症だった。
向かいに座る聖子は、コーヒーカップを片手にため息をつく。
「あー……いつもの恋愛暴走モードね」
しかし今回は、いつもより酷い。
というか。
脳が溶けている。
「おーい」
律子の目の前で手を振る。
反応なし。
「ふふふふふ……」
笑っているだけ。
「……まさか」
聖子の目が細くなる。
「和人のやつ、律子に精神魔法でも使った?」
真顔だった。
「いや待て。律子、一応元聖女だぞ? 普通の精神干渉なんて――」
そこで。
律子が、むにゅっとアヒル口になる。
「ふへへ……♡」
「駄目だこりゃ」
聖子は天を仰いだ。
「あぁもう。“聖女”じゃなくて、“脳内ピンクの性女”だわ」
すると律子が、はっと顔を上げる。
「あっ、お姉ちゃん」
「やっと帰ってきた」
聖子は半眼のまま聞いた。
「で?」
「どうだったの?」
「ふふふふふ……」
律子が意味深に笑う。
「聞きたい?」
「別に」
一拍。
「キキタイワ」
感情ゼロの棒読みだった。
だが律子は気づかない。
いや、気づいていても止まれない。
恋する乙女は、ブレーキが壊れる生き物である。
「……チューされたんだ」
「へー」
「先生から」
「ふーん」
「和人さんから」
「…………は?」
聖子の眉がぴくりと動く。
律子は、両手で自分の肩を抱きしめた。
「私たち……両想いなんだよ……」
うっとり。
「うふふふふふ……♡」
完全に幸せ絶頂である。
聖子は思った。
(あ、これ戻ってこないやつだ)
数時間前――。
夕食後。
和人のマンションの玄関先。
「じゃあ……帰るね」
律子は、名残惜しそうに笑った。
「うん。また明日」
和人も優しく微笑む。
「うん。金曜にまた来るから」
「はは、もう半分住んでるみたいだね」
その何気ない一言だけで、律子の心臓は跳ねた。
(半分住んでる……!?)
(それってもう半同棲では!?)
(いや待って落ち着け私)
(まだ早い!!)
だが口元は緩む。
止まらない。
そんな律子を見ながら。
和人は、不意に表情を曇らせた。
そして。
そっと。
律子の身体を引き寄せる。
「えっ――」
近い。
吐息が触れそうな距離。
律子の心臓が爆発寸前まで跳ね上がる。
唇が近づく。
(く、くるっ!?)
(えっ待って待って待って!?)
(まだ心の準備が――)
しかし。
触れたのは、唇ではなかった。
額。
優しく。
大切なものに触れるみたいに。
そっと口づける。
静寂。
時間が止まる。
律子の思考も止まる。
和人は視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「……ごめん」
掠れた声。
「我慢できなかった」
そして苦笑する。
「唇にしたら……たぶん、理性が利かなくなるから」
「……情けない先生で、ごめん」
律子は、呆然としていた。
先生から。
和人さんから。
額に。
キス。
キス。
キス。
(えっ)
(えっ!?)
(待って!?)
(それってつまり――)
脳内で鐘が鳴る。
純白のドレス。
教会。
家族写真。
エプロン姿。
休日のスーパー。
子供。
幸せな食卓。
未来予想図が爆速で駆け巡る。
(いや待って落ち着け私!!)
(まだ額だから!!)
(でも先生からだし!?)
(しかも理性がどうとか言ってたし!?)
(それって好きってことでは!?)
脳がショートする。
幸せで。
嬉しくて。
胸がいっぱいになって。
「ウン……マタ……アシタネ……」
棒読みだった。
心が追いつかない。
手と足が同時に出そうなぎこちない歩き方で、律子はマンションをあとにした。
「……で、額?」
現在。
聖子が確認する。
「うんっ!!」
律子は両手で額を押さえた。
「ここっ!! ここにされたのっ!!」
顔が真っ赤だった。
「しかも先生から!!」
「和人さんから!!」
「うわぁ……」
聖子は若干引いていた。
しかし律子は止まらない。
「あのね!? すっごく優しかったの!!」
「大事にされてるって、わかったの!!」
「うふふふふふ……♡」
聖子は思う。
(重い)
(でもまあ、和人もかなり重いわねこれ)
普通なら、勢いで唇にいってもおかしくない。
でも和人は止まった。
律子を大事にしたいから。
未来を壊したくないから。
その誠実さが、律子にはたまらなく嬉しかったのだろう。
そして同時に。
(もっと欲しいって思っちゃった……)
律子は自分の頬を押さえる。
額だけで、こんなに嬉しい。
じゃあ唇だったら。
抱きしめられたら。
そう考えた瞬間。
「〜〜〜〜っ!!」
顔が爆発した。
「どうした急に」
「な、なんでもないっ!!」
慌てて通学バッグを漁る律子。
そして、一枚の紙を取り出した。
【進路希望調査票】
聖子の目が細くなる。
「あっ……」
嫌な予感しかしない。
律子は真剣な顔でペンを握った。
「うーん……どうしよう……」
「いや進学か就職でしょ普通」
「人生がかかってるんだよ!?」
「そのテンションで何書く気?」
律子は唸る。
そして。
「ええい、ままよ!!」
勢いよくボールペンを走らせた。
まるで決戦前の勇者みたいな顔で。
その姿を見ながら、聖子は確信する。
(あ、絶対ロクでもないこと書いてる)
一方その頃。
律子が帰ったあとの玄関。
和人は扉にもたれ、小さく息を吐いた。
「……何やってるんだ、僕は」
額にキスした感触が、まだ残っている。
柔らかくて。
温かくて。
愛おしかった。
思い出すだけで、理性が揺らぐ。
「ほんと……限界だな」
苦笑する。
抱きしめたかった。
唇にも触れたかった。
でも、それをしてしまえば。
彼女の未来ごと、自分のものにしてしまいそうで。
「……ちゃんと待たないとな」
教師として。
一人の大人として。
それだけは守ろうと、和人は静かに決意する。
そして明日からまた学校。
――波乱の三者面談週間が、幕を開けようとしていた。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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