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第13話 狂乱の聖女は、真面目すぎる教師を絶対に落としたい~脳内では毎秒プロポーズされてるのに、現実の彼は誠実すぎて手を出してくれません~

 金曜日の夜。


 成川和人のマンションには、

 スパイスの香りが満ちていた。


 鍋の中でじっくり煮込まれたカレー。


 飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘み。


 そこへ数種類の香辛料を加えた、

 本格派の一皿。


 食卓にはサラダも並び、

 まるで新婚夫婦みたいな温かな空気が漂っている。


 そして――。


「律子、最高に美味しいカレーだったよ」


 向かい側で、

 和人が優しく微笑んだ。


 その瞬間。


 律子の脳内で、

 何かが爆発した。


「そう……?」


 表面上は平静を装う。


 だが。


 頭の中では。


『毎日、君の作った料理が食べたいんだ』


 低く甘い声。


 少女漫画みたいなキラキラ背景。


『もしかして、それって……』


『ああ』


 和人が、

 優しく律子の手を取る。


『もう君を返したくない』


『そ、そんな……困るわ……まだ私たち……』


『君が側にいてくれるなら、僕は教師を辞めてもいい』


 ぐいっ――。


 顔を引き寄せられる。


 迫る唇。


 細められた瞳。


『律子……』


「ふふふふふ……」


 現実。


 律子は、一人でニヤけていた。


「……律子?」


「おーい」


 和人が、

 ひらひらと手を振る。


「こっち戻っておいで」


「はっ!?」


 我に返る。


 目の前にあるのは、

 少女漫画のワンシーンではない。


 教科書。


 ノート。


 シャーペン。


 赤ペン。


 大量の問題集。


 現実だった。


「少し休もうか」


 和人が苦笑する。


「だいぶ詰め込みすぎたみたいだから」


「うん……」


 律子は頬を膨らませる。


「なんで、ここまで来て勉強するのよ……」


「そりゃするよ」


 和人はため息をついた。


「理系は赤点ギリギリ、文系も危ない」


「このままだと普通に留年コースだから」


「だって難しいんだもん……」


 律子は机へ突っ伏した。


「違う言葉ばっかりだし、歴史は覚えること多いし、数学は意味わかんないし」


「こんなの社会で何の役に立つのさ……」


「役に立つよ」


 和人は即答した。


「人によっては、それが仕事になる」


「社会全体で、そういう教育を続けないと、新しい技術も文化も生まれない」


「それに――」


 一拍置く。


「“何の役に立つかわからないもの”を頑張った経験って、案外大事なんだ」


「……?」


「将来、誰かの苦労を理解できるようになるから」


「同じように悩んだ経験って、ちゃんと人に繋がるんだよ」


 穏やかな声だった。


 説教じゃない。


 押しつけでもない。


 本気で、律子の未来を考えている声。


 だからこそ。


 律子は、少しだけ胸が痛くなる。


「じゃあさ」


「なんで昔の言葉とか勉強するの?」


「古典とか漢文とか」


「古典や漢文って、日本人の価値観の土台なんだよ」


 和人は静かに言った。


「昔の人が何を考えて、どう社会を作ってきたか」


「それを知るって意味がある」


「法律も文化も、人間関係も、全部そこから繋がってるからね」


「江戸時代まで、公式文書は漢文形式だったくらいだし」


「ふーん……」


 律子は頬杖をつく。


 そして思った。


(真面目……)


(好き……)


(結婚したい……)


「もう飽きた~」


 ごろん、と横になる。


「明日もやるからね」


「えええええ~!?」


「再来週からテストだから」


「鬼だ……」


「あと進路も考えなきゃ」


「進学か就職」


(和人さんのお嫁さんは進路に入りますか?)


 危うく口に出そうになった。


 ギリギリで飲み込む。


「返事」


 和人が指を立てる。


「はーい」


 唇を尖らせながら返事する律子。


 そして。


 勉強会が終わり。


 和人がシャツを羽織った。


「じゃあ送るよ」


「えっ?」


「泊まるよ?」


「…………えっ?」


 今度は、

 和人が固まった。


「き、聞いてないけど……!?」


「言ったよ?」


「金曜の夜から日曜まで一緒にいるって」


「そ、それは……!」


 和人が露骨に動揺する。


「ほ、ほら、お姉さんとか心配するだろうし……!」


「しないよ」


 律子は即答した。


「卒業するまでは健全に、って言ってたし」


 一拍。


 そして。


 律子はびしっと指を突きつける。


「あと、逃げたら学校辞めるからね」


「重い!?」


「お姉ちゃん学校に怒鳴り込むよ?」


「うぅ……」


「それに今更だよ」


 律子はあっけらかんと笑った。


 だが。


 本当は。


 心臓がうるさいくらい鳴っていた。


 ――泊まる。


 ――和人さんの家に。


 ――二人きりで。


(うわあああああああ!!)


 そして夜。


 風呂上がり。


 ブォォォォォ……。


 ドライヤーの音。


 律子は、

 柔らかなパジャマ姿で髪を乾かしていた。


 艶やかな蒼髪。


 湯上がりの白い肌。


 ほんのり赤い頬。


 鼻歌まで歌っている。


 それを見た瞬間。


 和人は、

 思わず視線を逸らした。


(まずい)


(可愛すぎる……)


 胸が苦しい。


 抱きしめたい。


 触れたい。


 そんな衝動が、

 確かにある。


 だが。


(駄目だ)


(僕は教師なんだから)


「じゃ、じゃあ僕お風呂入ってくるね」


「う、うん……」


 律子も顔が赤い。


(同棲してるみたい……)


 その瞬間。


 脳内少女漫画が始まる。


『綺麗だよ、律子』


 和人が顎を持ち上げる。


『こんなにも僕を惑わせて……悪い子猫ちゃんだ』


『わ、私……』


 唇が近づいて――


「おーい」


「戻っといで~」


「はっ!?」


 また現実だった。


「どうしたの?」


 タオルで髪を拭きながら、

 和人が不思議そうに言う。


「か、考え事!」


「そっか」


 そして。


 和人は静かに言った。


「じゃあ、寝室使って」


「僕はソファで寝るから」


「…………えっ」


「卒業までは約束だからね」


 優しい笑顔。


 その瞬間。


 律子の胸が、少しだけ痛んだ。


 嬉しい。


 すごく嬉しい。


 こんなにも大切にされている。


 ちゃんと将来を考えてくれている。


 自分を守ろうとしてくれている。


 それは伝わる。


 でも。


 同時に。


(私は……)


(抱きしめてほしかった……)


 そんな自分もいる。


 和人は、

 少し苦しそうに笑った。


「これでも結構我慢してるんだよ?」


「律子、可愛いから」


「……っ」


「僕だって男だからさ」


 律子の顔が、一気に熱くなる。


(我慢……してくれてるんだ)


(私のために)


 胸が温かくなる。


 だけど。


 悔しい。


 女として見られていないわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 大切すぎるから、踏み込まない。


 それがわかるからこそ、余計に悔しい。


 律子は、くるりと振り返った。


「先生」


「ん?」


 そして。


 自分の口をぐいーっと引っ張る。


「いーーーーだっ!!」


 一瞬ぽかんとしたあと。


 和人は吹き出した。


「ははっ、何それ」


「ふふっ」


 律子も笑う。


「おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


 その夜。


 律子は、

 和人のベッドの中で目を閉じた。


 柔らかな匂い。


 安心する空気。


(好き)


(大好き)


 胸が苦しくなるくらい。


 好き。


 だからこそ。


(そのうちきっと)


(ちゃんと女として見せてみせるから)


 そう決意しながら。


 二人の初めての夜は、

 静かに更けていった。

☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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