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第12話 元聖女のカレーを褒めたら、彼女の脳内で俺との結婚式が始まっていた件

 金曜の夕方。


 窓の外を、

 夕焼け色がゆっくり染めていく。


 成川和人のマンション。


 食卓には、

 湯気を立てるカレーとサラダ。


 じっくり炒められた玉ねぎの甘い香りと、

 スパイスの刺激的な匂いが部屋いっぱいに広がっていた。


 向かいのマンション。


 窓越しに、

 同じようにカレーを食べている聖子の姿が見える。


 その視線が、

 ふっとこちらへ向いた。


 律子と目が合う。


 聖子はスプーンを持ったまま、

 にやりと片眉を上げた。


 ――ふふ、頑張んなさいな。


 律子も小さく頷く。


 ――うん。ありがと。


 そんな姉妹の無言のやり取りを、

 和人はなんとなく察したらしい。


「お姉さんも誘ったほうが良かったんじゃないかな」


「誘ったよ〜?」


 律子は楽しそうに笑う。


「でもね」


『目の前であんたたちがイチャイチャしてるの見るとムカつく』


「……だって」


「はは……」


 和人が苦笑する。


「そんなにイチャイチャしてるかな」


「どうかな〜?」


 律子は意味深に目を細めた。


 実際。


 周囲から見れば、

 半同棲カップル以外の何物でもない。


 毎日のように通い、

 一緒に夕飯を食べ、

 弁当を作り、

 休日まで一緒。


 外堀どころか、

 天守閣のリフォームまで始まっていた。


「このカレー、美味しいね」


 和人がスプーンを口へ運ぶ。


 その一言だけで、

 律子の顔がぱぁっと明るくなる。


「でしょ〜!」


 胸を張る。


「ポイントはね、玉ねぎなの。飴色になるまでじーっくり炒めると、甘くなるんだよ」


 完全にドヤ顔だった。


「料理上手っていいよね」


 和人が笑う。


「ポイント高い」


「ふふん」


 律子は鼻を鳴らした。


「もう私から離れられなくなるわよ」


 冗談めかした声音。


 だが、

 瞳はかなり本気だった。


 すると。


 和人が、

 カレーを食べながら、

 何気なく呟く。


「そうだね」


「もう離れられないかも……」


 ――ボフッ。


 律子の頭から、

 見えない湯気が噴き出した。


「…………」


 停止。


 顔が真っ赤になる。


 耳まで真っ赤。


 スプーンを持つ手がぷるぷる震えていた。


(離れられない……)


 脳内変換が、

 超高速で始まる。


『もう君なしでは生きられない』


『結婚してくれ』


『律子と同じ人生を歩きたい』


『君のいない未来なんて考えられない』


(きゃああああああああああああ!!)


 脳内で鐘が鳴る。


 教会。


 純白のウェディングドレス。


 タキシード姿の和人。


 涙ぐみながら拍手する聖子。


『律子……幸せになるのよ……』


(お姉ちゃぁぁぁぁん!!)


 次の瞬間。


 場面転換。


 病院。


 ベッドの上で汗を流す律子。


 その肩に、

 和人が優しく手を置く。


『頑張ったね』


 腕の中には、

 小さな赤ちゃん。


(かわいい……)


(愛おしい……)


(私、この人の子供を……)


 さらに場面転換。


 保育園。


『お母さーん!!』


 男の子と女の子が、

 笑顔で駆け寄ってくる。


 その向こうでは、

 優しそうに微笑む和人。


(ああ……)


(私……幸せなんだ……)


(もう……一人じゃないんだ……)


「――おーい」


「へ?」


 現実へ引き戻された。


 目の前で、

 和人が手を振っている。


「大丈夫?」


「具合悪い?」


「あれっ」


 律子がきょろきょろする。


「子供たちは?」


「……子供?」


 和人がきょとんとした。


「あっ」


 律子の顔が引きつる。


「いや、なんでもないよ!?」


「そう……?」


 不思議そうな和人。


 危なかった。


 あと数秒遅ければ、

 脳内家族計画が口から漏れていた。


 そんな中。


 ふと。


 和人が、

 静かに遠くを見るような目をした。


 そして。


「ありがとうね。律子」


「ひゃ!!」


 再び跳ねる律子。


「そんな驚く?」


「い、いま……」


 律子は俯いたまま、

 震える声で言った。


「律子って……」


「その……下の名前で……」


「あ」


 和人も気づいたらしい。


「ごめん。嫌だった?」


「ううんっ!!」


 ぶんぶん首を振る。


「そんなことない!」


 むしろ。


 嬉しすぎて、

 今なら空を飛べそうだった。


「……嬉しかった」


 ぽつり。


 和人は少し照れたように頬を掻く。


「そっか」


「じゃあ私も」


 律子が顔を上げる。


「和人さんって呼ぶね」


「うん」


 和人は優しく頷いた。


「でも、二人きりの時だけにしてね」


「卒業までは」


「え〜」


 律子が頬を膨らませる。


「約束できないな〜」


「素で出ちゃうかも」


 ころころ笑う。


 幸せだった。


 静かで、

 温かくて。


 壊れていた心が、

 少しずつ満たされていくみたいな時間。


 その時だった。


 和人が、

 ぽつりと呟く。


「ありがとう。律子……」


 今度は、

 さっきよりずっと静かな声。


「……救われたのは、僕なんだ」


「え?」


 律子が目を瞬かせる。


 和人の視線。


 その先には、

 本棚があった。


 埃をかぶった液晶タブレット。


 描きかけのスケッチブック。


 インクの乾いた古いペン。


 無造作に積まれた資料。


 まるで。


 夢を途中で置き去りにした人間の、

 残骸みたいだった。


 そこには確かに、

 過去がある。


 熱狂。


 栄光。


 挫折。


 諦め。


 そして。


 今も捨てきれない、

 心残り。


 律子は、

 そんな和人の横顔を静かに見つめる。


(……知りたい)


(この人のこと)


(もっと)


(もっと)


 恋だった。


 狂気すら孕んだ。


 けれど、

 誰より純粋な恋だった。




☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


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