第二章:さすらいの詩人 PART.1
大陸暦1341年、ペレト月第三週、水曜日
I.
パズの秋は、いつも前触れなく訪れる。
昨日までの穏やかな陽気が嘘のように、今朝にはもう海風の向きが変わっていた。
北から吹き下ろす風は、雪原の冷気をそのまま運んでくるようだった。風はディスコンセロス川を渡り、街中の路地へ吹き込んでいく。港湾労働者たちは一枚余計に服を重ね、吐く息は白く濁っては消えていった。
石炭の煙は風に吹き散らされ、空に酔ったような軌跡を引いていた。
オーウェンは家を出る前に、古いセーターを引っ張り出して着込んでいた。
サラが編んでくれたものだ。
深い灰色の毛糸は、袖口こそ擦り切れていたが、十分に暖かかった。
彼は自転車を漕ぎ、見慣れた街路を走っていく。車輪が落ち葉を踏むたび、かさり、と乾いた音がした。
通りは、いつもより少し静かだった。
食料品店の老店主は、今日は表に出ていない。窓越しに軽く手を振ってきただけだった。
パン屋では、見習いの少年が朝から働いていた。戸口の隙間からは湯気と焼きたての香りが漏れ出し、空腹を刺激した。
子供たちが笑い声を上げながら駆け抜けていく。野良猫を追い回していたらしい。その声もすぐ、風の中へ散っていった。
ドックへ着くと、南方からの客船がちょうど接岸するところだった。
古びた蒸気船だった。船体には錆が浮き、煙突からは黒煙が重たく吐き出されていた。
甲板には大勢の乗客が身を寄せ合っていた。
疲れ切った顔。
好奇心に目を輝かせる顔。
ただ虚ろに前を見つめるだけの顔。
ここ数年、南から来る人間は増え続けていた。
ブレレット陥落以降、難民たちは絶え間なくルーエンクへ流れ込み続けている。パズはその玄関口だった。
毎日、誰かがこの街へ辿り着く。
毎日、誰かがここで新しい人生を始める。
オーウェンは見知らぬ顔ぶれを一瞥すると、そのまま倉庫へ向かってペダルを踏み込んだ。
その時、彼はまだ知らなかった。
あの船の甲板から、一人の若い女が街を眺めていたことを。
女は、洗い晒しの青いトレンチコートをまとっていた。背には古びたギター。
潮風が長い髪を乱していたが、彼女は気にも留めない。
その瞳だけが妙に印象的だった。
星のように明るく、群衆の中でも不思議なほど目を引いた。
やがて船が接岸する。
乗客たちはタラップを降り、港の喧騒へ呑み込まれていった。
客引きの怒鳴り声。
宿屋の呼び込み。
食べ物を売る屋台。
親族の姿を探す人々。
女は人波に紛れるように船を降りた。
埠頭に立つと、ゆっくり息を吸い込む。
「パズ、か」
小さく呟く。
「……面白そう」
彼女はギターを担ぎ直した。
そのまま人波の中へ紛れ込み、やがて姿は見えなくなった。
II.
夕方になると、『錨亭』はいつもの賑わいを見せ始めた。
港のすぐそばにある、古い酒場だ。
外から見れば、ただの古びた建物にしか見えない。軋む木扉に、色褪せた看板。窓ガラスには煤けた汚れがこびりついている。
だが、一歩中へ入れば空気はまるで違った。
長いカウンターの背後には酒瓶がぎっしり並び、安酒から高価な輸入酒まで何でも揃っている。
狭い店内には木のテーブルが所狭しと並べられ、港湾労働者、船乗り、行商人、流れ者たちで埋め尽くされていた。
壁際のガス灯が、煙に濁った空気をぼんやり照らしている。
隅には古いピアノが置かれていた。鍵盤は黄ばんでいたが、時折まだ誰かが弾くらしい。
オーウェンが扉を押し開けると、熱気と喧騒が一気に押し寄せてきた。
煙草の煙。
酒の匂い。
怒鳴り声と笑い声。
人をかき分けながら、ようやく彼はカウンターへ辿り着いた。
エールを一杯注文したところで、声が飛ぶ。
「オーウェン!」
振り返ると、隅のテーブルでオデュッセウスとイニアスが手を振っていた。
オーウェンはジョッキを持ったまま人混みを抜け、二人の間へ身を滑り込ませる。
「珍しいな、こんな時間に」
オデュッセウスは民間防衛隊の訓練服姿だった。袖にはまだ汗染みが残っている。
「たまたまだ」
オーウェンは短く答えた。
本当は、酒でも飲まなければ頭が落ち着かなかった。
ここ数日、結晶のことばかり考えていたからだ。
オデュッセウスが何か言いかけた、その時だった。
店のざわめきが、不意に静まった。
誰かが小さな舞台へ上がったのだ。
舞台と言っても、床より少し高くなっているだけの粗末な板張りだった。
そこへ立ったのは、一人の若い女だった。
青いトレンチコート。背中には古びたギター。
彼女は中央まで歩いていくと、ゆっくり店内を見渡した。
「こんばんは」
澄んだ、よく通る声だった。
「エヴリンと言います。流れの詩人です。歌を歌って、食べてます」
店のあちこちから笑い声が上がる。
「今日パズへ来たばかりなんですが、せっかくなんで何曲か歌わせてもらおうかと」
彼女は肩をすくめた。
「良かったら銅貨でも投げてください。駄目だったら野次でもどうぞ」
また笑いが起きた。
エヴリンは椅子へ腰掛け、ギターを抱える。
弦を弾く音が、静かに店内へ広がった。
そして、歌い始める。
最初は船乗りの歌だった。
嵐に呑まれ、転覆した漁船。三日三晩を海上で漂流し、最後に通りすがりの商船に救われるまでの物語。
旋律は、まるで夜の海風のようだった。
遠い波の音のように、静かに胸へ染み込んでくる。
店は静まり返っていた。
誰もが息を呑み、歌に聞き入っている。
二曲目は炭鉱夫の歌だった。
幼い頃から父親と共に坑道へ入り、石炭の砕ける音を聞いて育った少年。
やがて落盤事故が起き、父は死に、彼だけが生き残る。
それでも彼は坑道へ降り続けた。
生きることと働くことの違いも分からぬまま。
オーウェンは、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じていた。
三曲目は恋歌だった。
古いセヴェロス方言で歌われていて、意味は半分ほどしか分からない。
けれど、その旋律はあまりにも美しかった。
ただ、それだけで十分だった。
歌い終わる。
数秒の静寂。
次の瞬間、店中が拍手に包まれた。
アンコールを叫ぶ声。
舞台へ投げ込まれる硬貨。
立ち上がって拍手する男たち。
エヴリンは小さく頭を下げると、ギターを抱えたまま舞台を降りた。
そのまま真っ直ぐ、オーウェンたちのテーブルへ歩いてくる。
「ここ、空いてます?」
「もちろん!」
真っ先に答えたのはオデュッセウスだった。
「ぜひ座ってくれ! 最高だった!」
エヴリンは笑い、酒を注文した。
イニアスが眼鏡を押し上げながら尋ねる。
「パズは初めてですか?」
「ええ。昨日着いたばかりです」
「どこの出身なんだ?」
エヴリンは少しだけ考える素振りを見せた。
「どこでしょうね」
悪戯っぽく笑う。
「長く旅をしすぎて、もう自分でも分からないんです。どこも故郷みたいなものですし、どこも故郷じゃない」
オデュッセウスは返答に困り、曖昧に笑った。
エヴリンは運ばれてきた酒を一口飲む。
かなり強い酒らしく、少し眉を寄せた。
「皆さん、地元の人?」
「ああ。生まれも育ちもパズだ」
「じゃあ、この街には詳しいんですね」
「当然!」
オデュッセウスは得意げに胸を張った。
「聞きたいことがあるなら何でも聞いてくれ」
エヴリンは彼を見たあと、ゆっくり視線をオーウェンへ移した。
「二十一年前」
ぽつりと、そう言った。
「この街で、何か大きな出来事があったって聞いたんです」
オーウェンの手が、わずかに止まった。
二十一年前。
「何があったんだ?」
オデュッセウスが尋ねる。
エヴリンは肩をすくめた。
「詳しくは知りません。ただ、その年の冬は大雪で、多くの人が街へ来て、多くの人が去ったって」
彼女はグラスを揺らす。
「その話を歌にしたくて」
イニアスが眼鏡を押し上げた。
「二十一年前か……俺たちじゃ分からないな。まだ赤ん坊だったし」
エヴリンは静かにうなずいた。
オーウェンは彼女を見つめていた。
奇妙な感覚が胸に残る。
この女は、ただの旅芸人じゃない。
そんな気がした。
III(修订版)
居酒屋の賑わいは、少しずつ引いていった。
オデュッセウスは何杯も酒を空け、すっかり出来上がっていた。声はどんどん大きくなり、最後にはイニアスが半ば引きずるようにして店の外へ連れ出していった。
オーウェンも帰ろうとしていた。
だが、その時だった。
「もう少し、付き合ってくれません?」
エヴリンがそう声をかけてきた。
オーウェンは少し迷い、それから再び椅子へ腰を下ろした。
店内には、もうわずかな客しか残っていなかった。
カウンターでは店主が黙々とグラスを磨いている。
隅の席では、二人の老人がチェス盤を挟んで向かい合っていた。
時折、駒を置く小さな音だけが静かに響いた。
エヴリンは追加の酒を二杯頼み、その片方をオーウェンの前へ滑らせた。
「あの……名前、何でしたっけ?」
「オーウェン」
彼は素っ気なく答えた。
「港で働いてるんですね」
「ああ」
エヴリンはじっと彼を見ていた。
その視線が、一瞬だけ胸元で止まる。
服の隙間から、ペンダントがわずかに覗いていた。
ランプの灯を受け、淡く光っていた。
「そのペンダント」
エヴリンは静かに言った。
「綺麗ですね」
オーウェンは反射的に胸元へ触れた。
「これか? 別に大したもんじゃない」
「そうですか?」
エヴリンは小さく笑った。
「でも、大事にしてるでしょう?」
オーウェンは答えなかった。
エヴリンは酒を一口飲む。
それから、ぽつりと言った。
「この世界って、不思議ですよね」
オーウェンは彼女を見る。
「何がだ?」
「何でもないように見えるものが、実はとんでもない秘密を隠してたりする」
店の奥で、チェスの駒が小さく鳴った。
オーウェンは無意識にペンダントを握りしめていた。
「……どうして、そんなこと言う?」
エヴリンは肩をすくめる。
「勘です」
そう言って笑った。
「でも、そのペンダントはただの飾りには見えません」
オーウェンの表情がわずかに強張った。
だがエヴリンは、それ以上追及しなかった。
彼女は立ち上がり、ギターを肩へ掛ける。
「気にしないでください。ただの独り言です」
数歩歩いたところで、不意に振り返った。
ポケットから古びた銅貨を二枚取り出し、テーブルへ置く。
「一枚はあなたに」
そう言って、もう一枚を指先で弾いた。
「もう一枚は、あの娘さんに」
オーウェンは眉をひそめた。
「……誰のことだ?」
エヴリンは悪戯っぽく笑う。
「あなたと運命を分け合ってる娘ですよ」
それだけ言い残し、彼女は店を出ていった。
扉が閉まり、夜の気配だけが残る。
オーウェンは、テーブルの上の銅貨を見つめた。
どちらも古い硬貨だった。
長い年月で縁は擦り減っていたが、刻まれた文字だけはまだ読める。
一枚には――『開運』。
もう一枚には――『有縁』。




