第一章:パズの夜明け PART.2
IV.
パズ東地区、デレン地域病院。
西へ傾いた陽光が、ベネチアンブラインドの隙間から細く差し込み、廊下の床に長い光の縞を落としていた。
消毒液の鋭い臭気に、薬品の匂いと患者たちのこもった体臭が混じっていた。看護師たちは薬のトレイを抱え、忙しなく廊下を行き交っていた。遠くからは、湿った咳声や幼い子供のすすり泣き、それを宥める医師の低い声が途切れ途切れに聞こえてきた。
サシャは病室の扉を開け、トレイを手に中へ入った。
ベッドには七、八歳ほどの少年が横になっていた。顔色は数日前よりずっと良く、足の包帯も以前より小さくなっていた。
ルカ。港湾労働者の息子だ。
三日前、高所から転落して足を骨折した。両親は二人ともドック勤めで、私立病院に入れる余裕はない。だからこそ彼らは、このデレン地域病院へ息子を連れてきた。
パズでもっとも安価な病院。貧しい者たちにとって、ここは数少ない希望の場所だった。
「こんにちは、ルカ」
サシャはトレイをベッド脇のテーブルに置き、そっと腰を下ろした。
「今日はどう?」
ルカは顔を向けた。黒曜石のような瞳が、きらきらと光っていた。
「サシャ姉ちゃん、いつになったら歩ける?」
「もう少しよ」
サシャは微笑んだ。
「先生も、あと少ししたら松葉杖で歩けるようになるって言ってたわ」
「ほんと?」
「ほんと。私、嘘ついたことある?」
ルカは少し考え、それから小さく首を振った。
サシャは嘘をつかない。
来るたびにお菓子を持ってきてくれた。包帯を替える手つきは優しく、痛みに耐えきれず泣きそうになると、そっと手を握って物語を聞かせてくれた。
「ねえ、サシャ姉ちゃん」
ルカがふいに尋ねた。
「お父さんとお母さん、いるの?」
サシャの手が、一瞬だけ止まった。
「お母さんはいるわ」
静かな声で答える。
「お父さんは……」
「どうしたの?」
サシャはすぐには答えなかった。
母は何も話してくれなかった。尋ねるたび、深い沈黙の奥へ閉じこもってしまった。そして決まって言ったのだ。
――あなたがもっと大きくなったら教えるわ。
サシャは、もう二十一歳だった。
あとどれだけ待てばいいのか、彼女には分からなかった。
「サシャ姉ちゃん?」
ルカの声に、はっと我に返る。
「……ん?」
無理に笑みを作った。
「私にはね、お父さんがいないの。小さい頃からずっと」
ルカは何か言いたげに彼女を見つめていたが、やがて真面目な顔で言った。
「じゃあ、僕のお父さん貸してあげる。時々来るんだ。いつも泣いてるけど」
サシャは目を瞬かせ、それから思わず吹き出した。
「ありがと。じゃあ、それで約束ね」
彼女は立ち上がり、トレイを手に取った。
「ちゃんと休むのよ。また明日来るから」
病室を出ると、廊下の窓辺にマリエンが立っていた。
サシャに気づくと、軽く手を振る。
同僚であり、この病院で一番親しい友人だった。二十三歳。サシャより二つ年上で、すでに夫と子供がいる。
「サシャ、今日は遅かったわね」
「ルカと少し話し込んじゃって」
窓の外では、夕陽が海の向こうへ沈みかけていた。遠くのドックでは、巨大なクレーンがまだゆっくりと動いている。逆光の中、その黒い輪郭だけがくっきりと浮かび上がっていた。
「かわいそうな子よね」
マリエンが小さく息をついた。
「お父さんは港で働いて、やっと生活できる程度の稼ぎしかないし、お母さんも身体が弱いし……今回の怪我で、もっと大変になるわ」
サシャは黙ってうなずいた。
マリエンはそんな彼女を横目で見て、少しためらうように口を開いた。
「ねえ、サシャ。ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「あなたの手首の模様……あれって、昔からあるの?」
サシャの肩がぴくりと揺れた。
反射的に手を引く。
「生まれつきの痣だって、母は言ってるわ」
マリエンはしばらく彼女を見つめていた。
どこか引っかかるような、妙に落ち着かない目だった。
「昨日ね、似た模様の人を見たの」
サシャの胸がひやりと冷えた。
「……誰?」
「分からないわ。中年くらいの男の人。顔に傷があってね」
マリエンは窓の外へ目を向ける。
「病院の入り口に立って、中をじっと見てたの。誰か探してるのかと思って声をかけようとしたら、私に気づいてすぐ立ち去ったわ。でも、その時見えたのよ」
そこで一度言葉を切った。
「あなたと同じ青い模様が、手首にあった」
サシャは何も言えなかった。
母が決して語ろうとしなかったこと。
自分の出自。
尋ねるたび、母は沈黙した。
「……ただの偶然よ」
ようやく、それだけを口にする。
マリエンも、それ以上は追究しなかった。
けれど。
小さな種が、静かにサシャの胸の奥へ根を下ろしていた。
V.
夜が、静かにパズの街へ降りていた。
通り沿いのガス灯が、一つ、また一つと灯っていった。琥珀色の光は霧の中でぼんやりと滲み、街並みを柔らかな橙色へ染め上げていた。
湿った川風が吹き抜けた。石炭の煙の匂いが、鼻の奥をかすかに刺した。
オーウェンは『イヤーズ』を出ると、自転車に乗って家路についた。
今夜は訓練もない。
ただ早く帰って、今日起きたことを一人で整理したかった。
あの青い結晶。
奇妙な欠片。
イニアスの機械が示した異常な反応。
そして――説明のつかない、あの感覚。
まるで欠片そのものが、自分を呼んでいるようだった。
河岸沿いの道を走っていると、前方に人影が見えた。
若い女性が一人、川辺に立っている。
対岸の工場群を眺めながら、じっと夜の水面を見つめていた。
月光が淡く彼女を照らしている。
看護師の制服。小さな鞄。夜風に揺れる髪。
オーウェンは無意識に自転車を止めていた。
――そのまま通り過ぎるべきだ。
頭ではそう思う。
見知らぬ相手をわざわざ呼び止める理由などない。
だが、なぜか足が動かなかった。
気づけば、彼は彼女の方へ歩み寄っていた。
足音に気づいたのか、彼女がゆっくりと振り返る。
月明かりの下で見るその顔は、まだ若かった。
顔立ちは穏やかで、どこか柔らかな印象を与える。
けれど、その瞳の奥には言葉にできない翳りがあった。
静かな孤独にも似た色だった。
二人はしばらく何も言わず、ただ互いを見つめ合っていた。
その時だった。
オーウェンは、ふと気づく。
――どこかで見たことがある。
「きみは……」
言いかけて、言葉が止まる。
どこで会ったのか分からない。
そもそも、本当に会ったことがあるのかさえ曖昧だった。
若い女性の視線が、ゆっくりと彼の胸元へ落ちた。
シャツの下。
ペンダントが淡い青光を放っている。
鼓動するように、かすかに脈打っていた。
彼女は息を呑む。
そして、夢でも見るような目で、自分の手首へ視線を落とした。
そこにもまた、青い紋様が浮かび上がっていた。
細い線が淡く輝き、月光の中で静かに明滅していた。
二人とも、それを見た。
沈黙が落ちる。
「きみは……」
再び口を開きかけたオーウェンに、彼女は静かに言った。
「サシャです。デレン地域病院で働いています」
「……オーウェンだ。港で働いてる」
また沈黙。
けれど、不思議と居心地の悪さはなかった。
むしろ、昔から知っている相手と向かい合っているような感覚に近い。
サシャはじっと彼を見つめ、それから小さく首を傾げた。
「私たち……どこかで会ったこと、ありますか?」
オーウェンは少しだけ考え、ゆっくりとうなずく。
「俺も、そんな気がしてた」
川面を渡る風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
やがて、ペンダントの光も、サシャの手首の紋様も、少しずつ輝きを失っていった。
最後には、何事もなかったかのように闇へ溶ける。
遠くで教会の鐘が鳴り始める。
夜の街に、重く静かな鐘の音が広がっていった。
「そろそろ帰らないと」
サシャが小さく言った。
「明日も仕事だから」
オーウェンは黙ってうなずく。
「気をつけて」
「あなたも」
サシャは背を向け、ゆっくり歩き出した。
数歩進んだところで、ふいに立ち止まる。
振り返った。
「オーウェン」
「ん?」
「……また、会える気がする」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その姿はやがて夜霧の向こうへ溶け、見えなくなった。
オーウェンはその場に立ち尽くしたまま、長い間、彼女が消えた暗がりを見つめ続けていた。
胸の奥に、奇妙な確信だけが残っていた。
――これは、ただの偶然じゃない。
VI.
パズ西地区。
オーウェンは家の扉を押し開け、中へ入った。
部屋の中は温かかった。
ストーブでは石炭が赤く燃え、炎が時折ぱちぱちと小さな音を立てていた。
母親のサラはテーブルにつき、石油ランプの灯をぼんやり見つめていた。
色褪せた古い柄のエプロンを身につけ、髪には白いものが目立ち始めていた。
オーウェンに気づくと、彼女は静かに立ち上がった。
「今日は遅かったのね」
「友達と話してた」
オーウェンは短く答え、テーブルにつく。
そしてポケットから、あの青い欠片を取り出した。
テーブルの上へ置く。
その瞬間だった。
サラの顔色が変わる。
彼女の目が、結晶へ釘付けになった。
「……それ、どこで?」
声がかすかに震えていた。
「今日、港に届いた荷物の中から出てきた」
オーウェンは母を見つめた。
「母さん、これが何か知ってるのか?」
サラは答えなかった。
ただ、欠片を見つめ続けている。
唇がかすかに震えていた。
「母さん?」
呼びかけに、彼女はゆっくり顔を上げた。
目が赤い。
「……見たことがあるの」
絞り出すような声だった。
「昔、一度だけ」
「どこで?」
サラはすぐには答えなかった。
石油ランプの火が揺れる。
壁に映る二人の影も、不安げに伸び縮みしていた。
長い沈黙のあと、ようやく彼女は口を開く。
「あなたがまだ小さかった頃……」
その声は、どこか遠い記憶を辿るようだった。
「あなたの生みの母親も、同じものを持っていたわ」
オーウェンの呼吸が止まった。
「……何だって?」
思わず立ち上がった。
「生みの母親って……どういう意味だよ」
サラは静かにうなずいた。
「あの人は、優しい人だった」
ランプの灯を見つめたまま、ぽつりと言った。
「あなたを私に託して、それから去っていったの」
「どこへ?」
サラは答えなかった。
その目には涙が滲んでいた。
オーウェンはゆっくりと視線を落とす。
テーブルの上で、青い欠片が幽かに光っていた。
まるで呼吸しているみたいに、静かに脈打っていた。
「母さん」
低い声で尋ねた。
「俺の本当の母親は……何者なんだ?」
サラは彼を見つめ返した。
深く、静かな目だった。
「時が来れば分かるわ」
それだけ言うと、彼女は立ち上がる。
そして奥の部屋へ消えていった。
後には、オーウェンだけが残された。
彼は椅子に座ったまま、青い欠片を握り締める。
その冷たい感触を確かめながら、長い間、動くことができなかった。




