~人を好きになる気持ちがわかったから、人を愛する気持ちがわかりたかった~
◆
背中の痛みに耐えながらあすなろは歩く。
身体を張ってやったことがかえってルテを傷つけてしまったことを深く嘆く。
自分が何をやっているのかわからなくなっていた。やはりこんなことをすべきではなかったのかと新しい後悔があすなろを激しく責め立てる。
まだ取り返しがつくまでに行かなくてはならない。あすなろは屋上に続く階段をひたすら昇った。この苦しみに比べればまだ生きている自分の身体のほうがまだマシだと思える。ルテに与えた傷に比べれば、だ。
和解も懺悔も言い訳も空しい。ただひとつ願うのはルテの心に傷があるようにしたくなかっただけなのに。まったく自分の行ないと言葉は何ひとつ価値のあるものではない、そうあすなろは自分を責める。
自分のバカを嘆くまでならまだいい。そのせいで悲劇に至るのであればそれこそ愚か者だ。だから、いまはバカを嘆いている場合ではないのだ。
三階の踊り場を通って、開け放たれた屋上の扉を目にやって、屋上の外へと出る。
降りしきる雨が風に乗ってあすなろを一瞬で濡れネズミに変える。まったく自分にぴったりな姿だと自分で思う。そんな境遇に自己卑下をしている場合ではなかった。姫子が欄干から身を乗り出しているではないか。
「照乃! 姫子!」
身体が痛いのを無視して距離を詰め、姫子の身体を後ろから抱き起こす。身体が硬直しかかっていて、姫子は力を絞り出しているのがあすなろにはわかる。
女の子らしくとか言ってられない。鬼のような憤怒の顔で歯を食いしばり、目を血ばらせて、姫子にも相当な負担をかけてしまった。
けれど、姫子もまたルテを助けたい思いに変わりはないのだ。姫子の気持ちが冗談のように生半可ではないことが受け取れる。
「あすなろ……くん」
「大丈夫だ、ゆっくり上げるから」
握りしめた手は赤紫色に鬱血していた。絶対に離さない意志の力を物語る。
「離して、私から手を離しなさい、姫子」
「離すか!」
あまりに姫子らしからぬ乱暴な言葉で、ルテの手のひらをずっと握り込めていた。
きっと脳が悲鳴をあげても、姫子は絶対に手を離そうとはしない。
でも硬直した腕がわずかに震えていた。
おそらく手先の感覚がしびれてなくなりつつあるかもしれない。
このままでは本当にもたないだろう。
あすなろは落ち着いてゆっくりと抱きかかえた姫子を、冷静に屋上側に引き上げようとする。
「お願い、あすなろくん……」
姫子が渾身の力を解きかける顔を見せる。あとは任せて、と言いながらあすなろは二人分の重さをどうにかこちらに戻そうとしたそのとき。
ルテが掴まれていない片方の手のひらで、油断した姫子の手を引っぱたいた。
手が離れる。指先が離れる。ルテが落ちる。地上に向かって。
ルテの顔はどんどんと遠ざかり、最後に笑みを見せて墜落した。その場所に彼女の姿はなかった。まるでルテという少女など最初からどこにもいなかったかのように。
「バ……バカ、ルテの、……バカ」
悲哀の表情を見せる姫子。悔しいというよりも、諦めが先行する。もう終わってしまったんだ、というどうしようも片付けられない感情が胸にのしかかり、あすなろと姫子は呆然と膝を地につけた。
「照乃……、いや、ルテ……。どうしてそんな」
あすなろの声は、周りの静寂を破ることすらできず、ただ心細くこだまだけした。
◆
――……。
――……なろくん。
――あすなろくん……。
照乃は泣いているあすなろを見た。
変わらず泣き虫で弱くて勇気のない、けれど優しさだけが素敵なあすなろの肩を照乃が撫でる。
――どうして泣いているの?
とても湿っぽくて、とても悲しいことに襲われていた。
たぶんそれは自分のことだと思った。
――私のせいで泣かないで。
――私のために泣かないで。
声は届いているはずなのに、あすなろはずっと照乃照乃と呼びながら泣きわめく。
これが望んだ結末ではない。
望むべき結末は、いったい何なのか。
「どこまでも無責任ね、あんたは」
後ろから女の子に嫌味を言われる。
どこが無責任なのか、と言っても何も言い返せない。
女の子はただただ照乃のことを思ってくれていることがわかる。
「あんたのせいよ、全部あんたのせいよ」
非難されても、その言われがわからない。
けれど、悪いのは自分なんだと照乃は思った。
「みんな、あんたが戻ってくるのを待ってるのよ」
この女の子は何を言いたいのかまったくわからない。
けれど、何を言っても彼女に言葉は届かない。
一方的にこの女の子から言葉を受け取るだけで、ただただ受け身でいるだけ。
「あたし、あんたのことは嫌いよ。だけど、あすなろくんが好きになるくらいだから、あなたのことが好きよ」
――あすなろくん……。
「早く戻ってきなさい、そしてあたしからあすなろくんを奪ってみなさい」
それがあたしにできる唯一の報いだから、と。めちゃくちゃなことを言ってくる。
たぶんこの女の子もいったい何が言いたいのかわかっていないのだろう。
おかしくて笑ってしまいそう。不謹慎にも照乃はそう思った。
けれど、笑い話で済ませられるほど自分も愚かではない。
「早く帰ってきなさい、ルテ……いや、緋村照乃」
自分はどこへ帰ればいいのか、自分はどうやって帰ればいいのか。
わからない、けれど周りから声が聞こえてくる。
帰ってこい、帰ってこいって。
もしかしたら、自分が帰るべき場所は案外すぐそばにあるかもしれない。
帰ってこい……、帰ってこい……、と。
せめて死ぬ前にわかりたかった。
人を好きになる気持ちがわかった。
だから照乃は、人を愛する気持ちをわかりたかった。




