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~again... and again...~


   ◆


 今日も雨が当たり前のように降っている。この屋舎を叩き、雨だれする音を静かに聞きながら。姫子はもう長い時間、この時季を過ごしていた。

 何ヶ月? それとも何年も?

 もう日数を数えることも絶望的になってきた。

 消えることもできず、帰ることもできないこの幽体で、誰もいないこの世界で姫子はただただこの佇む。

 時に外に出て歩いたり、雨を浴びたり、そういうことだけをルーチンにしていた。心はずっと雨模様雨色をしていた。

 時に何時間か雨が降るだけのこの街を歩き、そしてこの屋舎に戻ってくる。

 この屋舎だけは特別な場所だから。

 ここはあすなろと身を寄せ合った特別な場所であるから。

 あのときのことをいまでも思い出せる。あすなろは照乃のことが好きなのはわかっている。それだけあのときのことは罪深いし、傍目から許されないと見られても仕方がない。

 けれど姫子はこの屋舎の空気が一番好き。

 二人で寄り添って眠るときに使った大きなバスタオルがここにまだ置いてある。そのバスタオルで濡れた髪を拭いた。まだかすかにあすなろの匂いが残っていた。

 姫子はまだあすなろのことを忘れていない。きっと何十年経っても何百年経っても、忘れることはないと思う。姫子は目を閉じればいまでもあすなろの顔、あすなろの声を、鮮明に思い浮かべることができる。

 時にはうつつに瞼の裏で、時には夢の中で、あすなろに会う。

 それでも触れることはもう叶わない。おしゃべりをすることも叶わない。

 あすなろくんの肌と声を身体と心で触れて感じたかった。

 もう叶わない。

「あすなろくん……」

 彼は幸せになれただろうか。いまごろ照乃と一緒にこうした雨の道を歩いて、仲睦まじげにしているだろうか。

 悔しかった、けれどそうでなかったら許せない。どっちにしても負の感情がつきまとうのに、そんな姫子は自分が嫌いになる。なんて矛盾した感情なんだろう。天の邪鬼。

 このまま朽ちて消えてしまうのか。そのほうがいっそ幸せ。姫子は幽体のまま、消滅という意味での死を迎えることができないでいる。心苦しいけどそれがこの世界における現実だ。

 どれだけこの世界から出たいと願ったことだろう。

 雨が降るだけの世界で、姫子は何を待てばいいというのか。

 何を待てばいいのか。

 そう、何を待てばいいのか。

 ただ徒に時が流れていく。無駄に時は流れていく。

 そんな中でいったい、何を待てば……。


 ……。……。


 雨が落ちる音に混じって、別の音が聞こえてくる。水の音に違いないけれど、それは雨の音ではない。誰かが濡れた地面を歩く音だ。ゆっくりと屋舎のほうへと近づいてくる。

 ルテ?

 いや、彼女は逆さのてるてる坊主だから地に足をつけて歩いてくるわけがない。

 でもそれは確かに雨の中に足音に聞こえた。その足音がゆっくりと近づいてくる。雨霧のせいで向こう側に何があるのか、誰がいるのか、それは判別できない。

 影も見えないからきっと聞き間違いだろう。

 だけど希望が胸の奥から込み上げてくるのを感じる。いつまでもうじうじしていた自分を忘れ去らせてくれるときのような希望。いっそ捨ててしまいたいほどのうじうじさをこの瞬間なら捨ててしまえもできた。

 勘違いでもいい。一瞬だけでもいい。この懊悩を捨て去りたかった。一瞬だけ。

 しかし、それは一瞬に留まらないことをすぐに知る。

 雨霧の奥から、確かな人影の形が浮かんできたからだ。

 地面に立ち、傘を持って、こちらに歩み寄ってくるのを姫子は認める。

 確かに人だった。人の姿だった。

 姫子は屋舎の席からゆっくりと立ち上がる。

 あの人影をそのまっすぐな眼差しで見据える。

 屋舎から出て、雨に打たれ、霧の涼しくて、冷たくて、人影と姫子の距離は少し縮まる。それだけじゃもどかしくて、辛くて、姫子から影に向かい、ゆっくりと歩み寄る。

 霧の中のぼんやりとした影は明確な形になり、曖昧な人影はずっと覚えていた男の子の顔に変わっていった。

「あすなろ……くん?」

 もう会えないと思っていた。霧だけが見せる幻かと思っていた。けれど、目の前にいる男の子、彼はまさしく姫子が好きな彦坂あすなろだった。

「迎えに来たよ、姫子」

 熱い涙が溢れてくる、きっとその涙は胸の奥から込み上げてきたものだ。それはこの世界における何年ぶりか、とても熱くて暖かい気持ちになれた。

「あすなろくん……」

 傘を差し出され、二人だけが入れる窮屈な場所を与えてくれる。それだけで十分だった。姫子はそこに入るだけで心が熱くなる。

「遅いよ」

「うん、ごめんなんて言葉で許しを乞おうなんて思わない」

 謝罪なんてどうでもよかった。またあすなろと会えたことだけでひたすらに身体が震えた。

「僕も姫子のことが……好きだから。ううん、たとえ好きでなくても、僕は姫子を迎えに行かなくちゃって、そう思ったから」

「バカ」

「うん、何も気づけなくてごめん。僕は本当にバカだから」

 でもここに来た優しさは本物だった。たとえ誰かに嫌われてでも、あすなろはそうする。変わらない優しさをあすなろは心の内に持っている。だから、姫子もまだあすなろのことを好きでいられるし、好きでいたかった。

 しっとりした空気が周囲に足を下ろしていた。涼しい雨霧の足で周囲に座る。二人の息が白くなるほどに。けれど寂寞とした辺りの冷気に、胸の奥までは冷えなかった。

 泣いている場合じゃない。けれど姫子はあすなろのシャツを掴む。手でボタンの糸が引きちぎれそうなほどに。バスタオルよりも鮮明にあすなろくんの匂いがした。

「姫子……?」

「ありがとう……」

 バカとか表面上でじゃじゃ馬になるのはもう無粋だった。心のこもった率直な言葉がいまは一番いい。ありがとう、愛してる、大好き、と口ずさんで姫子は強くあすなろを求める。

 雨の中で抱きしめ合う。もう絶対に離したくない。たとえあすなろくんが照乃のことを好きであっても。彼の意向を無視しようが、衝動的に引き剥がしてやりたいくらい。

 姫子はいまもあすなろのことが好きだから。

 まるで映画のシーン。フィルムに切り取れば永遠に残る二人になる。セピア色の残映で、心の中の残影となるのだ。

「あすなろくん」

「何?」

「……やっぱ、なんでもない」

 いまここで答えを聞くことこそがしらける。いまは彼の温もりを感じ続けていたかった。

 姫子はあすなろの両肩に手を回し、かかとをそっと上げ、あすなろの唇に触れた。

 彼の唇もまた震えていた。

 あすなろの手から傘が落ちる。姫子の肩をさらに抱き寄せ、唇と唇を何度も重ね合う。互いに自分と自分がいるということを確認しあうように。

 あるいは、さようならなんて決して言わせないように。そうやって相手の口を塞ぐ熱いキスをする。まるで子供みたいでバカみたいと姫子は思える。でも好きっていうのはけっきょく相手に自分のバカを晒すことなんだと気づく。


   ◆


 屋舎で二人とも落ち着いてから、あちらでこちらで何が起こったか何が起こっているかを整理した。

 あすなろのほうでは時間はそうそう経っていないという。二週間程度しか時間は経過していなかった。

 姫子がこの世界で体感している時間とは大違いだった。こっちはもう何年という時間が経過していた。姫子の外見にさほどの変化はないけれど、あすなろは聞いて驚愕して申し訳なさに頭を何度も下げた。

 そんなに謝らなくてもいいのに。姫子にとっては、彼に自分を探しに来てくれただけでも嬉しかった。

 姫子には考えていたことがあった。それをいまあすなろに明かす決心をする。

「あすなろくん、あたしねルテの心を癒やそうと思う」

 それを聞いて不思議がるあすなろの顔を見てしまうのは予想していたことだった。

 きっと彼は姫子をこの雨の世界から脱出させることだけを考えていたのだろう。

「あたしはあすなろくんを待っていた。そして、ルテを心を癒やすために、あすなろくんの力が必要なの」

「姫子、もうルテのことは忘れて、僕と一緒に」

「ううん、あすなろくんとつながるきっかけを作ってくれたのがルテだもの。彼女をそう乱暴に離すことなんてできない」

 こうやって何年もの体感する時間で苦しめられてきたけれど、こうやってあすなろといられるのは彼女のおかげに間違いないのだから。

「あら、お二人とも、お邪魔だったかしら?」

 駅舎から出た向こう側から彼女は、ルテは近づいてきていた。

 のたのたと泥を踏みしめる音を立てながら。

 彼女は外にはいられないはず。

 逆さづりの彼女の実像が現れる。誰も歩くことのできない雲底の形をした階段がかすかに見えた。それを一歩ずつ踏みしめながら、逆さ状態のままルテが屋舎のほうへと、二人のほうへと、肉薄する。

「話は聞いたわよ、私の心を癒やしてくれるって? ふざけるのも大概にしなさい。私はもとよりあなたたちを憎んでいる。私は決して許さない」

「僻むのはそこまでにして」

 立ち上がり目を見開いて姫子はルテと対峙する。

「確かにあなたはあすなろくんとあたしのことを許せない、そのことはまず間違いなくわかってる」

「それ以外は何も知らない癖して」

「そうね、でもここまで巻き込んだんだから。あたしとあすなろくんは決して部外者なんかじゃない。もう立派にあんたと関係してるのよ」

「ふふ……そうかもしれないわね」

 いがみ合って姫子とルテは一歩も譲らない姿勢を見せる。

「どうして私を癒やそうなんて発想が出てくるの?」

「ルテ、かわいそう」

「同情される言われなんかないわ。元はと言えばそいつが悪いんだから」

 あすなろを指差し、怒り顔であすなろを非難する。

 彼が非難されるのも当然のこと。

 勇気を出して照乃があすなろに交際を持ちかけ、それを断られたのが発端。それでもなお好きだった、周囲がそれを許さなかった。彼からもらったプレゼントも捨てられ、その後はダム湖に飛び込んで自殺を図る。照乃は助かったものの「憎しみの記憶と心」は彼女から引き剥がされ、それがルテとなった。

「ルテ……いや、照乃」

「何? 馴れ馴れしく言っちゃって」

 屋舎から出てきたあすなろを怪訝そうな顔で見るルテ。

「ここは、過去の世界だよね」

「そうよ思い出の世界。私の思い出が作り出した雨が佇むだけの暗き心の世界」

「あのとき、僕が君に言えなかったことを果たそう。やり直しに行こう」

「……? どういうことなの?」

 吊された状態のルテをあすなろは抱きかかえる。

「あすなろくん、どういうこと? あたしよく理解ができないんだけど」

「いずれわかるよ、姫子。僕は照乃にあのとき出来なかったことをしなければならない。あのとき僕がしてやれなかったことを」

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