~to be Continued...(なおも続く)~
空が明るむのを、半ば閉じていた瞼越しに気づく。夜の時間はそう長くなかった、そんな一瞬の記憶で姫子は朝方のまどろみから目覚める。
起き上がるとバスタオルがふぁさっと音を立てる。
「……あすなろくん?」
肩から地面にタオルが落ちる。あすなろはすでにそこにはいなかった。
まるで夢だったかのような記憶だけが残る。
でもそれは夢ではなかった。湿ったバスタオルには、あすなろの残り香があった。
どうやら姫子を置いてこの場から去ったようだ。
山の端から顔を出した太陽が、地上を明け渡らす光を放っていた。
広大な姿をした世界は再びそこに現れ、姫子とあすなろがともに過ごしたバスタオルほどの小さな世界はもうそこにはない。
鳥が朝の始まりを告げるが、それを聞くのはなぜだか心が重かった。あすなろがそこにいないから。
唾を飲み込んでから咳き込む。喉が渇いていることに姫子は気づく。
眠気眼で時折に風景を見た。夜明け前の薄明かりの空を何度か見た気がする。そのときは確かにあすなろの腕で抱かれていたことは記憶違いではない。
笑顔を出した太陽がいまはとても憎たらしい。別段、太陽を責める気にもなれないけれど。
すでに長い時間が経っていた。
日の出を果たしたばかりの太陽を見ていると、何かが始まる予感がする。抱いた感情は希望ではなく、不安だった。
残されたバスタオルを姫子は鼻に宛がう。自分の汗の匂いがして恥ずかしくなる。けれどタオルに染みついたあすなろの匂いを姫子は嗅ぎ取って、再びあの一瞬の甘い記憶を思い出していた。
二人の空間、二人の世界、もうそこへ行くことは二度と叶わない。そう思うと、目の奥から熱いものが込み上げてきて、姫子はとっさにタオルに目を押しつけた。
でも、大丈夫。済んでのところで涙をこらえた。
幸せなひとときはもうないけれど、それは夢ではない記憶。
もう手を握りしめ合うこともできないけれど、もう二人だけでいることも叶わないけれど、それでも姫子とあすなろは二人だった。決して夢ではない、一瞬だけの記憶。
あすなろの後を追って姫子は屋舎を出る。まだ近くに彼がいるはずだと信じて。
案ずることなく、あすなろとまた会することはすぐにできた。
「あすなろくん!」
姫子はそう遠くない距離から、呼び止めようとした。
しかしその声があすなろの足を止めることはない。
気がせいて、姫子はあすなろに近づいて声をかけようとした。
次の瞬間、姫子の横を誰かが通り過ぎる。ルテが走る姿が横切る。彼女はあすなろに接近した。
「おはよう、あすなろくん」
「え、ああ、おはよう照乃さん」
二人の背中が細く見える。それを見ているうちに姫子は自分の心まで細くなったように寂しいと感じる。
「あすなろくん……」
姫子が呼びかけても二人の耳にその声は入ることはない。
ここはルテが連れてきた世界で、何が起こっても不思議はなかった。
試みに姫子はあすなろの肩を叩こうとした。
空を切るように手が背中を擦り抜け、ついに確信へと至る。
あたし、もう完全に幽霊なんだ。あすなろくんにはもうあたしの姿を見ることはできないんだね。もうあすなろくんに触れることはできない。絶望して一筋の涙が伝い、雫となって落ちる。
(……僕はどうしたら……)
ふとあすなろの声が聞こえた。
(……彼に近づくな)
その次、ルテの声が聞こえる。
二人は何やら話をしているけれど、二人の口の動きと、聞こえてくる言葉がまるで一致しない。
この幻聴はなんだろうかと思った。
(……何を驚いてるの、あなたが彼の心に触れたくせに?)
ルテの声が響いてくる。
姫子は飲み込めない状態でルテの声を聞く。
(私は……いつもこうだったのよ、あなたの心も、あすなろくんの心も、みんな知ってたのよ)
「ルテの力?」
(いいえ、私は確かにそういう力を持っているけど、その力はあなたが自ら手に入れたのよ)
姫子はあすなろの心に触れた。だからあすなろの心が見える。ルテはそう説明してきた。
「でも、なんで急にそんな……?」
(さぁね、でも幽霊が魂であり心なら、相手の心が何考えてるかわかっても不思議じゃないでしょう)
そうかもしれない。オカルト的にどうとかそういうことは全然わからない。
けれどルテがそう言うのであれば、幽霊とはそういうものなのだろうと納得するしかない。
(でも、心なんてどうでもいいわ。言ったわよね、行動で示しなさいって)
「ルテ……」
(あなたとあすなろくんが情事の手前まで迫ったのは忘れてあげる)
「え、あ……そ、それは」
(私が譲歩してやるって言ってるのよ。あなたそれでも誤魔化す気? 私だって正直絶対許せないと思ったわ)
「ごめん」
あの思い出が再生されて、姫子は顔に血が集まって恥ずかしくなる。
(あなたはあすなろくんの心に触れた。だから、彼の心に触れられる)
「どういう意味?」
(彼の行動の手助けをしてやりなさい)
抽象的なのか比喩的なのか、雲を掴むような話し方をされて、姫子はどうすればいいのかわかっていない。
(あとは自分で考えて行動しなさい、じゃあ……)
ルテの声が消えて、姫子は登校する二人の背中を見つめる。
「あすなろくんは、あたしが助ける」
きっと彼を愛することは、金輪際許されないだろう。
けれど、姫子はあすなろのことが好きだ。だから確実にルテとあすなろが結ばれることは、とても、悔しいことだけれど。それでも彼を助けたいと思った。
姫子は足に力を入れて、二人の後を追う。
きっとこれが姫子にとっての最初の恋愛であり、最初の失恋なのだ。




