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~ゆく照乃、阻むルテ~


 放課後、あすなろが小さなプレゼント箱を手に廊下の隅に佇んでいた。

 いつものお礼がしたい、と。リノリウムの床に置いた鞄の上に折りたたみ傘を重ね、彼はルテを待つ。姫子はそれを傍から見る。少しだけ悔しがる自分が許せなかった。けれどあれは所詮、自分が望んでいた夢だったのだ。だからあのとき彼と触れあった経験は夢のように消えるべきだと姫子は思っている。

 あすなろが本当に好きなのは、ルテ……緋村照乃なのだから。

「じゃあね、あすなろくん」

 幽霊の姿となった姫子は、届かない声で呟き、彼がいるこの場所から離れる。

 ルテはどこで何をしているのだろうか。あすなろがあそこで待っているというのに。

 ふと近くでピアノの音が聞こえてきた。悲しげな音色なのに真逆の長調を奏でていた。

 気になって姫子はそのピアノが鳴る場所、音楽室に足を踏み入れた。

 ルテがピアノを前にして、ピアノを弾いているのを目にする。

「ルテ……」

 覚束ない指使いで、その曲を繰り返して弾く。

 素人の弾き方なのは姫子の耳でもわかる。

 いや、そんなことを気にしている場合ではない。どうしてあすなろのところへ行かないのか不思議がる。

「笑っていいよ」

「え?」

 姫子はその場で頷いて、ルテを見た。

 姫子のほうに振り向いたルテは。にこりと笑って、つられて姫子にあわせて一回首を縦に振った。

「あたしのこと、見えるの?」

「変なこと聞くのね、まるで幽霊にでもなったかのような聞き方」

 あんたも幽霊でしょ、と言いたげな姫子だったが、そんなことは気にするべきことではない。

 どうして自分が見えるのか。

「私の思い出って、とても皮肉れていると思わない?」

 誰だってそうだ。まっすぐに自分の思い出に客観的になれる人間などいるはずがない。だからこそ思い出という言葉で自分の歴史を美化しているのだ。誰も思い出を汚したくないのだから。

「ごめんなさい、私の思い出のせいで、こんなことに巻き込んでしまって」

「ルテ? いや……」

 この子はルテではない。あすなろは言った、ルテは照乃から切り離された記憶が作り出した、おそらく別人格だと。

 もしかして、ここにいるのは、ルテではなくて、本物の緋村照乃か?

「私には弾きたい曲があった。耳にしたように弾いたつもりだったんだけど、やっぱりなにか違うと思った。まるで素敵な思い出を笑い話にされたようにね」

 照乃は語り始める。

「私には素敵な思い出は必要なかった。あすなろくんがいつも私の病室に来てくれていたから。たとえあすなろくんが悪い人だったとしても、いまなら許してあげられる」

 それじゃあこのタイムスリップは終わりなのだろうか。

「この世界は本物の過去じゃないから。私の思い出という虚構が作り出した、かりそめの世界だから。そうでしょう、そこの人」

 背筋が跳ね、ぞくっとした後ろの空気の流れを感じ、振り向くとそこにはもう一人の照乃……いや、ルテがいた。

「その通りよ、これは私が作り出した世界」

 照乃の思い出が作り出した虚構の人格、ルテは不気味に静かに語り始めた。

「私はあすなろくんと姫子さんを呼び出した。そして照乃……あなたが本当に欲しかった夢を与えるために、この世界を作り出した。そのためにあなたもここに呼び出した」

 決してタイムスリップではなくこれはルテが作り出した機会なのだ。

「でもね、私は自分の思い出を汚されたくはない。皮肉めいたあなたの語り口は本当に大嫌いなの」

「なんですって?」

 ルテが照乃に諭され、むかっ腹を立てるさまを姫子は傍から見やる。

「私は私、照乃であってあなたじゃないから」

「自分の歴史を否定するつもり? じゃあ、私があなたの記憶として切り離されてここにいる意味ってなんなの?」

「ごめんなさい、私は確かにあなたを切り離した。意識的にしろ無意識的にしろ、私はあなたを捨てたわ」

 ルテはきっと憎悪に満ちた心で腹の中が煮えくり返っている。自分が信じていたものを、自分に否定されるのは最も嫌いなようだった。

 自分がしてきたことをすべて否定されることと同じなのだから。

「私に消えろと言うの?」

「ううん、帰ってきて欲しいの」

 それが照乃の願いなのか。

「帰ってきたそのとき、私はあなたを受け入れる。それは私自身としてではなく、私のありようとしてあなたを受け入れる」

「……」

「大丈夫よ、私はあなたが好きだから」

 とってつけたような言葉を紡ぎやがってと口ずさんで、ルテは照乃に敵視の目線で彼女を脅そうとする。

「あなたはとても怖がりだったのね、私も怖がりだったからわかるの」

「うるさい、私をこれ以上苛立たせるな」

 次の瞬間、晴れ上がった赤い空に白い稲妻が走る。

 青天の霹靂だ。

「私はあなたのために頑張ってきた、それなのになぜあなたに否定されなければならないの!」

 ルテが不必要になった?

 いや、違う。

「私、緋村照乃は、あなたのことを癒やしてあげたい。そう思った、ううん違う、いまそう思える境地に足を踏み入れたんだと思う」

「ふざけるな、何か勘違いをしたように誰かが作ったような言葉をそうやって使って」

「誰かが作った言葉じゃないわ、あなたであり私であるあなたが思い描いていた言葉なのよ」

 きっと、ルテは認められたかったんだ。

 嫌いな雨の化身として、自分をけなされ否定され、そして照乃の負の思い出を素敵な思い出と認めて欲しくて、いままでの所業を行なってきた。

 だがルテは極端だった。癒やしてもらうという発想などはなく、思い出を修正するためのこの世界に三人を呼び寄せた。それは嘘を吐くということであることを、ルテは気がつき始めていたように思える。

「緋村照乃、あなたを殺してやる」

「……」

 照乃に歩み寄り、白い手首をしたルテが、両手で首を絞めようと試みる。

「何するの、ルテ!」

 後ろから羽交い締めをして、姫子はルテを止める。

「ありがとう、姫子さん」

 照乃が姫子にいままでにない笑顔を見せる。晴れやかな笑顔で自分の心まで癒やされそうだった。

「私、行かなくちゃ。あすなろくんに会いに行かなくちゃ」

 二人の横を通り過ぎ、照乃は音楽室を飛び出した。

 その手前でいったん立ち止まり、姫子に語りかける。

「ありがとね」

 そうして照乃は走り出した。この世界を、ルテのことを受け止めるために。

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